予想問題ー『日本の反知性主義』(2015年発行)内田樹氏の論考
(1)なぜ、この論考に注目したのか?
内田樹氏は、難関大学での現代文(国語)・小論文の出題が多い、トップレベルの入試頻出著者です。
最近では、早稲田大学、立命館大学等で出題されています。
内田氏は、倫理学者、翻訳家です。専門は、フランス現代思想ですが、論考で取り上げるテーマは、映画論、格差社会論、教育論、グローバル化、武道論、政治論、憲法論、地球温暖化問題等、多方面に及んでいます。
内田氏の著書としては、『街場の現代思想』(文春文庫)、
『下流志向』(講談社文庫)、
『日本辺境論』(新潮新書)、
『街場のメディア論』(光文社新書)、
『街場の戦争論』(ミシマ社)、
『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)、
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)等、
多数あり、いずれも、現代文(国語)・小論文の入試頻出出典です。
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従って、内田氏の著書は、注目すべきです。
内田氏は、最近(2015年)、『日本の反知性主義』(晶文社)を出版しました。
この本は、白井聡、高橋源一郎、赤坂真理、平川克美、小田嶋隆、想田和弘、仲野徹、鷲田清一の各氏に内田氏が寄稿を依頼して編んだアンソロジーです。名越康文氏と内田氏の対談も収録されています。
本書の内田氏の論考の方向性は、難関大学の入試現代文・小論文の傾向から見ると、正統派です。このような方向性を有している論考が、実によく出題されるので、このブログで紹介します。
(2)論考の概要、解説
この本の冒頭に、「反知性主義者たちの肖像」という題名の内田氏の論考があります。
その中で、内田氏は、「知性」の定義をしています。
「知性」の要件として、「集団性」(「協働性」「共同性」)、「時間性」の2つを挙げています。
以下に引用します。(「・」の付いた字は太字にします)
(1)「集団性」について
「集団性」について、内田氏は、以下のように述べています。
「私は、知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を『知性』と呼びたいと私は思うのである」
この部分は、「知性」の要件として、「集団性」(つまり、「共働性」、「共同性」)を挙げています。
要するに、他者の意見を聞こうとしない独善、独りよがりは、「知性」に反するということです。
この引用文の直前では、「知性は『集合的叡智』として働くのでなければ何の意味もない」とまで内田氏は言っています。
「独善」は、案外、インテリ層に見られる態度です。
(2)「時間性」について
「時間性」について、内田氏は以下のように述べています。
「知性が知性的でありうるのは、それが『社会的あるいは公共的性格』を持つときだけである」
「社会性、公共性とは、過去と未来の双方向に向けて、時間的に開放されているかどうか、それが社会性・公共性を基礎づける本質的な条件だろうと私は思う」
「私は先に反知性主義の際立った特徴はその『狭さ』、その無時間性にあると書いた。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復(同じ表情、同じ言葉づかいで、同じストックフレーズを繰り返し、同じロジックを繰り返すこと。(本書P54))によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である」
これらの引用文と、内田氏執筆の「まえがき」の、
「長期的に見れば自己利益を損なうことが確実な政策を国民がどうして支持することができるのか、正直に言って私にはその理由がよく理解できません」
を合わせ読むと、内田氏の主張が良く分かります。
「時間性」とは、内田氏によれば、「長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使すること」です。
つまり、「想像力を駆使して、長期的に見ること」です。
そのことが、内田氏のいう「過去と未来の双方向に向けて、時間的に開放されていること」なのです。
そして、これこそが、真の「社会性」「公共性」の本質的基盤なのです。
この部分が、一般的・常識的な「社会性」「公共性」の理解とは、大きく違う卓越した発想です。
つまり、「社会性」「公共性」を、どの範囲で考えるかの前提が、そもそも、全く異なっているのです。
内田氏の特異な視点は、地球環境論、国際関係論、福祉論等、様々な分野の議論に必要不可欠な視点と言えます。
(3)入試の観点から注目すべき部分
内田氏の主張が色濃く出ていて、入試現代文・小論文で出題されやすいと思われるのは、以下の部分です。「科学上の新発見」に関する論考です。
「『私が見ているものの背後には美しい秩序、驚くほど単純な法則性が存在するのではないか』という直感はある種の『ふるえ』のような感動を人間にもたらす」
内田氏は、その「ふるえ」は、「名声・学的高位・世俗的利益・プライオリティ(命名上の優先権)・特許等とは全然違う」と述べています。
そのような、世俗的な、ある意味で低レベルな問題ではないのです。
「ふるえ」の内容について、内田氏は、以下のように述べています。この部分は、感動的で、味わいのある論考だと思います。
「自分は今、これまで誰も気づかなかった『巨大な知の氷山』の一片に触れた。それはあまりに巨大であるために自分ひとりでは、一生をかけても、その全貌を明らかにすることはできない。だから、これから先、自分に続く多くの何世代もの人々との長い協働作業を通じてしか、自分が何を発見したのかさえ明らかにならないだろう」
「ひとが『ふるえる』のは、自分が長い時間の流れの中において、『いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなしている』という実感を得たときである」
「もう存在しないもの、まだ存在しないものたちとの協働関係というイメージをありありと感知できた人間においてのみ、『私以外の誰によっても代替し得ない使命』という概念は受肉する」
ここで、述べられているのは、「学問の発展の歴史」における「自分の社会的・公共的立場の自覚」です。
さらに言えば、「社会的・公共的責任の運命的自覚」です。
私は、このことを、以下のように考えました。
偶然に、「歴史的な発見」の端緒を見つけてしまった以上は、いつ完了するかも知れない、気が遠くなるような、長期的な学問的探究の一端を担うべきである。
学者の、悲壮とも言える「使命感」が、ここにはあります。
この「使命感」は、学者の「職業的倫理観」でも、あるのです。
と同時に、ここには、歴史的発見の一翼に関われるという「身に染みるような深い喜び」も、あるのでしょう。
「悲壮な使命感」と「深い喜び」が合わさって、今までの人生では体験したことのないような、心からの「ふるえ」が発生するのだ、と思います。
ある意味で、羨ましいような状況です。
ほんの一部の、幸運な科学者にしか訪れない、夢のような、ドラマチックな瞬間です。
(4)斎藤隆の解釈
現代文明批判、特に、今回の内田氏のような辛口の現代文明批判は、読む人を、多少、不快にさせる傾向があるようです。
これは、ある意味で当然のことと言えるでしょう。なぜなら、現代文明批判は、今生きている人々を直接的に批判する側面があるからです。
しかし、ここで気分を害さずに冷静に、自分をも含めて、現代の状況を振り返ってみる態度こそ、大切ではないでしょうか。私は、そう思います。
内省のないところに、進歩はないからです。
内省は、つらい側面もありますが、時には、必要です。
本書の「まえがき」で、
「為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に反知性主義・反教養主義が深く食い入っている」
と、内田氏は述べています。
ここで、「反知性主義」と「反教養主義」を並列化している点は、なかなかに示唆的です。
最近、「大学では、教養教育と、実務教育(つまり、英語教育・パソコン教育等、就職して、すぐに役立つ分野の教育)との、どちらを重視するべきか」という、実に不思議な論争まであるようです。
教養は、思考の基盤です。教養は軽視してよい、ということは、思考は軽視してよい、と同義です。
大学こそが、幅広く教養を身につける場です。
身につけた教養が短期的には役に立たなくても、 長期的には、人生に必ず役に立つのです。
このような、長期的視点で考えれば、当たり前のことさえ、論争の対象になる日本の論壇は、何か変だと思います。
「今や、反知性主義は強力なウィルスとして、日本全体を仮死状態にさせている」
内田氏は、要するに、このように言いたいのでは、ないのでしょうか。
内田氏のこの立論は、極めて、正統派です。
特に、日本人は、「時間性」(長期的視点で、ものを考える姿勢)に関しては、大きな弱点を有しているようです。
その顕著な具体例が、地方の主要駅前のシャッター商店街です。
見たことのある人は、皆、息をのみます。
人通りの絶えた道、閉じられたまま、錆びついてしまったシャッター。
もう何年間も、そのままなのでしょう。
なぜ、その商店街は、そこまで完全に滅亡したのでしょうか。
商店街の経営努力不足もあったのでしょうが、何よりも、地元民が、その商店街を見捨ててしまったことが最大の理由です。
たぶん、郊外の道路に面した、大駐車場完備の大企業系列の大型スーパーに通うようになったのでしょう。
安さ、便利さ、大量の品揃え、それらは、全て魅力的なポイントです。
それらに、ひかれて、そこに集まっていくというのも、ひとつの合理的な選択です。
しかし、その結果として、何が発生したのでしょうか。
地域経済の疲弊、地元雇用の減少、人口の減少。
あげくには今や、「地方消滅」という概念、キーワードすら発生しています。
「地方消滅」は、地元民の経済的活動だけが原因では、ないでしょうが、大きな要因です。
今の自分たちの行動が、結果として何を発生させるのか。
地元の商店街で日々の買い物をしない、食事もしない、地元産の農林水産物を買わない。
それが地元経済の衰退を招来し、そして、地元の消滅。
そんなことは、想像力を少し働かせれば、分かることです。
ほんの僅かな「想像力」さえ働かせれば。
長期的視点から、ものを考えるという「時間性」は、西欧では当然の「生活習慣」です。
これは、伝統重視ということでもあります。
だからこそ、フランスでも、イタリアでも、スペイン、ポルトガルでも、地元のカフェ、レストラン、地元の伝統的料理、地元産の農林水産物を大切にして、ひいては、自分たちを大切にしてきたのです。
フランスの、歩道に大きくはみ出た、古くから続いているカフェの大量のテーブルと椅子。
そこに、寛ぐ地元民たち。
伝統を大切にし、自分たちを大切にしている賢明な人びとの、自信に包まれた安息が、そこには、あります。
地元の商店街を大切にすることは、自分たちを大切にすることなのです。
過去・未来について、長期的視点を持って考えれば、こんな当たり前のことが、日本では、一般的には通用しないのです。
過去・伝統は、古臭くて、ほとんど無価値と考える極端な偏見すら、存在しています。
今、盛んに議論されている「教育改革問題」に参加している論者の中には、そのような熱病的偏見にとりつかれたとしか思えない発言をする人がいるようです。
国際化、グローバル化というマスコミの掛け声に踊らされて、右往左往する日本人。
「完璧」ではなく、「適度」の「グローバル化」で良いのでは、ないでしょうか。
「完璧なグローバル化」は、「完璧な欧米化」と同義ですが、それで真に幸福になる日本人が、いったい、どれほど、いるのでしょうか。
地元重視、日本の伝統重視という当たり前の視点は、いつの間にか、現代の日本人の脳内からかなり蒸発しているのでしょう。(それでも、最近は、地元重視、伝統重視の風潮が少し復活しつつあるのは、良い傾向だと思います)
長期的視点から、ものを考えるという「時間性」の発想。
これが経済中心主義、効率中心主義のアメリカでは、あまり尊重されません。
アメリカを、お手本としつつも、それをさらに悪化させたのが、日本と言えそうです。
これに対して、モーリス・ブランショ等のフランス現代思想を研究した内田氏は、フランス等の西欧の価値観をも学んだのでしょう。
内田氏のいう「時間性」は、伝統重視、未来尊重の思想です。
自己を、現在に存在するだけの一点と考えるのではなく、過去と未来をつなぐ直線上の一点と考える思想です。
自己を完全な孤立的存在とは、考えません。
従って、自己には存在理由があり、それと同時に、未来に対する責任もあります。
武道家たる内田氏は、現代日本の加熱気味のグローバル化から、日本の良き伝統を守るべく、この本書の編著者となったのでしょう。
現在、日本はグローバリズムとの様々な軋轢の中で揺れています。
そして、日本の一部の知識層は、無秩序なグローバル化に反対しています。
が、もし、日本人の大部分が、内田氏の言うような形で反知性主義化しているのであれば、グローバル化の大波に翻弄されて、日本社会はいずれ崩壊するでしょう。
もはや、今は、その過程に過ぎないのかもしれません。
そうなれば、素直になりすぎた日本人は、日本の真の実相を知ろうという発想すらなく、その中でニコニコと「幸福」そうに生きていくのでしょう。
これは、考えすぎでしょうか。
話を、入試に戻します。「グローバル化と日本人」、あるいは、「日本人論」、「知性とは何か」、「伝統」は、入試現代文・小論文の頻出論点・テーマです。
グローバル化が急速に進展して来た、ここ10年位は、出題率が増加傾向にあります。
内田氏の論考の基本的方向性は、難関大学の入試現代文・小論文から見ると、まさに正統派です。
日本人の弱点を徹底的に摘出して、日本人に反省を促す啓蒙的な論考が、難関大学の入試問題では、正統派なのです。
つまり、内田氏のこの論考は、いかにも難関大学好みなので、要注意です。
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