現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/公共哲学/「生き方変える働き方改革を」高端正幸

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近は、「働き方改革」関連法案と電通過労自殺事件の影響もあってか、最近、「長時間労働」や「働き方」に関するニュースや論考が目立っています。

 このような議論が盛んになった翌年の入試現代文・小論文では、「労働」・「働き方」に関連する根本的・本質的な論考が出題されることが多いので、注意が必要です。

 特に、「『生き方変える働き方改革を』高端正幸『朝日新聞』2018・3・29《あすを探る》」は、最近の入試頻出論点の「公共哲学」に関する論点を多く含んでいるので、今回の記事で解説します。

 この論考は、ユニークな視点が盛り込まれていて、とても参考になります。

 来年の入試現代文・小論文に出題される可能性は高いと思われます。

 

 なお、今回の記事の項目は、以下の通りです。記事は約1万字です。

  

(2)予想問題/「生き方変える働き方改革を」(高端正幸『朝日新聞』2018・3・29

《あすを探る/財政・経済》 

(3)予想問題/「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

(4)「公共の価値」/人々の「おまかせ構造」の問題性

(5)予想問題/「公共哲学」に関する秀逸な論考ー『「里」という思想』(内山節)

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「生き方変える働き方改革を」(高端正幸『朝日新聞』2018・3・29

《あすを探る/財政・経済》)

 

(高端氏の論考は太字部分です)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(以下、同じです) 

 

【1】家族や地域が自分の拠(よ)りどころになるという手ごたえが薄れ、まじめに頑張れば家計の安定が得られるという約束も揺らぐ時代に私たちは生きている。家族や地域という「共」、そして個人的・物質的な豊かさという「私」における拠りどころや指針の喪失は、不安を増幅させる。

 

 (→当ブログによる「注」→「家族や地域という『共』」の部分は、よく覚えておいてください。)

 

【2】そこで「公」の役割が重要になる。しかし、「共」が失われ、「私」も窮したままでは、「公」も揺らぐと考えたほうがよい。「公」・「共」・「私」は、互いに支え合うものだからだ。

【3】佐賀県伊万里市の図書館は、1995年に開館した。公民館の一室が図書館だったこの地に、市民とともに育つ、市民の図書館を欲した市民たちが、勉強を重ね、市役所と協力して開館にこぎつけた。読書会・学習会などイベントの企画、サークル活動の成果の展示、公報活動など、幅広い活動を市民と職員が一体となって担い、図書館を支える市民の輪を広げながら、人と人とが、つながり学び合う場を丁寧に育んでいる。

【4】図書館は単なる「本をタダで読んだり借りたりできる場所」ではない。地域の知的財産を市民が育て、分かち合う。それが伊万里市民図書館の目指す姿であり、全国の公共図書館が内包する可能性だ。

【5】いわば、「共」の力が「公」の図書館の存在意義を高めるとともに、「公」の図書館が「共」を絶えず活性化させている。そこに集う個々の「私」も、図書館という共有財産から知的・文化的な豊かさを享受し、地域のつながりに包摂され、「共」の一員となる。その結果、地域における「公」への信頼も育まれる。「公」・「共」・「私」が結びつき、互いを高め合う中でこそ、「公」の存在意義が形をとるということを、この事例は物語っている。

 

(→当ブログによる「注」→この具体例は、「公」・「共」・「私」の関係を実感するために、重要です。

 「「公」・「共」・「私」が結びつき、互いを高め合う中でこそ、「公」の存在意義が形をとるということを、この事例は物語っています。」の部分はキーセンテンスです。

 特に重要です。)


【6】ところがいま、福祉、学校、公共交通など、あらゆる分野で「公」の存在意義が揺らいでいる。私たちは、モノやサービスをひたすら個人消費する生活に浸(つ)かりきったうえに、その消費生活にさえ窮する時代に生きている。いきおい、肥大化する「私」への執着が、「公」や「共」の可能性に対する想像力を縮ませる。そこで、「私」の論理で「公」が否定されたり、「共」、つまり、地域やNPOの力がやみくもに期待されたりする。

 

(→当ブログによる「注」→まさに、「人任せ」、「受け身状態」、「永続的なお客様状態」です。

 各人が、自己の「当事者性」に思いが及ぶことはないようです。

 主体的に自己の困難を克服しようとする気概がないのでしょう。)

 

【7】しかし、「公」・「共」・「私」は、どれかのかわりにどれかを、という関係にはない。私たちは、これら三つの領域が結びつき、互いを高め合う関係を、想像力を膨らませて模索するほかないのだ。

【8】その意味で不可欠なのは、私たち一人一人が、「必死に稼ぎ、自力で生活を成り立たせる」ことに埋没することをやめ、「私」を超える領域(→「公」)に真摯(しんし)なまなざしを向けることではないか。

【9】その点、「働き方改革」が大きな意味を持ちうることを忘れるべきではない。「残業代ゼロ」「定額働かせ放題」などと揶揄(やゆ)されても仕方のない法案であるうえ、過労死問題もクローズアップされたため、過労死防止という当然なすべきことに改革の目的が矮小(わいしょう)化された感がある。また、少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ

 

(→当ブログによる「注」→「過労死防止という当然なすべきこと」の部分は、まさに、当たり前です。

 「少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ。」の部分は特に重要です。

 「ライフ」は、完全に私的領域のみが考慮され、「地域という『共』」は考慮外になっているようです。

 「私」の存在基盤のはずの「共」を考える時間的・精神的・金銭的余裕がないのでしょうか。)

 

【10】しかし、本来の「働き方改革」は、稼ぐための労働に汲々(きゅうきゅう)とする「私」が、「公」や「共」の価値に気づくだけの精神的余裕や、社会活動に参加する時間的余裕を取り戻し、互いに支え、支えられる関係に包まれてゆくことを射程に入れるべきものだ。

【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。

(「生き方変える働き方改革を」 高端正幸)

 

(→当ブログによる「注」→「【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。」の部分も、再考するべき内容になっています。

 理想論に聞こえるかもしれませんが、過去の伝統社会は、まさに、「『公』・『共』・『私』が共鳴する社会」だったのです。

 私たちが、「私」が肥大化した現代文明の中で、何となく窒息状態にあるとしたら、過去の「『公』・『共』・『私』が共鳴する社会」を再評価することが必要でしょう。

 この点は重要なので、以下にさらに論じていきます。)

 

 

復興と日本財政の針路 (叢書 震災と社会)

復興と日本財政の針路 (叢書 震災と社会)

 

 

 

(3)予想問題/「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

 

 「働き方改革」を、「働き方」、「仕事」、「労働論」、つまり、「働きがいを感じられる仕事」に限定して考えると、以下の入試頻出著者・内山氏の論考が大いに参考になります。


(概要です)

「18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで産業革命がおこり資本主義が生まれていったとき、労働者の多くは、この新しい経済と労働のかたちに批判的だった。当時は長時間労働が蔓延していた。

 だが、その頃の労働者たちが書いたものを読むと、批判の軸になっていたのは低賃金や長時間労働ではなかったことがわかる。誇りをもてない労働、自分を一定時間の消耗にさらすだけの労働、監視されながら命令に従うだけの労働。そういう労働のあり方に対して、労働者たちは怒りをもっていたのである。

 それは当然であったのかもしれない。なぜなら、資本主義が生まれる前の社会では、普通の人々は農民や職人、商人として働いている。いわば自営で仕事をし、一人一人が自分の仕事スタイルをもっていた。その仕事スタイルは、それぞれの考え方や自分がもっている技などからつくられてくるもので、人々は自分がつくりだす労働に誇りをもっていたのである。

 ところが、資本主義の時代になると、安価に大量生産されてくる工場生産物によって、職人たちは仕事を奪われていった。仕事を失った職人は、工場で働くようになる。そして、勤めるようになった企業で感じたものは、誇りをもてない労働、人間性を奪われた労働、働きがいのない労働だったのである。

 仕事帰りに1杯の酒が飲めることとの引き換えに、誇りのない、苦痛なだけの労働に従事しなければならないのか。当時の労働者たちは、そんなことを訴える文章をよく書いていた。

 現代の人々も、同じようなことを感じているのかもしれない。社会のなかでは長時間労働が蔓延し、格差社会のもとでの低賃金労働も構造化されている。だが、それ以上に問題なのは、誇りをもてない労働、働きがいのない労働の広がりである。

 自分の労働は、お金と引き換えにおこなう精神的、肉体的消耗にすぎないと感じている人もいるだろう。社会に役立っているのかどうかもわからないままに、ノルマや数字に追われる労働をしている。そんな感覚も今日の労働の世界には広がっている。

 現在の労働の問題点は、働きがいのない労働に長時間従事しなければならないことや、働きがいのない低賃金労働が広がっていることにあるといってもよい。逆に言えば、労働のなかに誇りや楽しみ、働きがいを感じられる仕事なら、私たちは少々労働時間が延びても、その仕事をやり遂げようとするものである。もちろん、あまりにも長い労働時間は、よいことではないのだが。

 現在語られている「働き方改革」に、疑問を感じる人はけっこう多い。その理由は、労働の質を問うていないからである。労働が働きがいのあるものになるためには、自分の仕事に社会的有用性が感じられ、労働の価値を認めてくれる職場や取引先、消費者などとの関係が重要なはずだ。とすれば、それは、経済のあり方、企業のあり方の改革でなければならないはずなのである。そういう根本的な視点をもたずに残業時間を減らせと言っているだけなら、働く側にとっては、残業代が減るだけのことになってしまう。

 資本主義形成期の労働者たちは、働きがいがなくなった労働を問題にしていた。そして今日もなお、同じ問題が問われている。」

(「『働き方改革』を問う」(内山 節『東京新聞』2018年2月11日「時代を読む」)

 

 
 上記の論考を要約すると以下のようになります。

 

現在語られている「働き方改革」に問題点


「労働の質」を問うていないからである。

労働が「働きがい」のあるものになるためには、「自分の仕事に社会的有用性が感じられ、労働の価値を認めてくれる職場や取引先、消費者などとの関係」(→ある意味で、「公」との関係性)が「重要」なはずだ。

「働き方改革」は、「経済のあり方、企業のあり方の改革」でなければならないはずなのである。

そういう「根本的な視点」をもたずに「残業時間を減らせ」と言っているだけなら、働く側にとっては、残業代が減るだけのことになってしまう。

 

 

(4)「公共の価値」/人々の「おまかせ構造」の問題性


 仕事に「生きがい」を持つことも大切です。

 一方で、仕事以外の私的な生活の場で「公共の価値」を意識することも必要です。


 (なお、「公共」とは、「私」や個 (individual) に対置される概念です。英語のパブリック (public) を翻訳した言葉です。)

 
 「公共」は「私」の存立基盤です。

 「公共の価値」を意識することは、「公共哲学」の重要論点です。


 ここで問題になるのは、「公共の価値」を意識しないこと、つまり、人々の「おまかせ構造」です

 上記の高端氏の論考では、以下のように、人々の「おまかせ構造」を問題視しています。

「【6】私たちは、モノやサービスをひたすら個人消費する生活に浸(つ)かりきったうえに、その消費生活にさえ窮する時代に生きている。いきおい、肥大化する「私」への執着が、「公」や「共」の可能性に対する想像力を縮ませる。そこで、「私」の論理で「公」が否定されたり、「共」、つまり、地域やNPOの力がやみくもに期待されたりする。」(「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 


 ここで問題になっているのは、「地域やNPO」への「おまかせの構造」です。

 この点を具体的に説明しているのは、入試頻出著者・鷲田清一氏の『しんがりの思想』です。

 

 以下に、その部分を引用します。

「  日本社会は明治以降、近代化の過程で、行政、医療、福祉、教育、流通など地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き換えに消費するという仕組みに変えていった。一歩先に近代化に取り組んでいた西欧諸国が、そうした相互支援の活動を、教区など、行政機構と個人のあいだにある、いわゆる中間集団の活動にある程度残しておいたのとは対照的に。

 が、それと並行して進行したのが、市民たちの相互支援のネットワークが張られる場たるコミュニティ、たとえば町内、氏子・檀家、組合、会社などによる福祉・構成活動の先細りである。人々は、提供されるサービス・システムにぶら下がるばかりで、自分たちで力を合わせてそれを担う力量(→まさに、「当事者性」です)を急速に失っていった。いいかえると、それらのサービス・システムが劣化したり機能停止したときに、対案も出せねば課題そのものを引き取ることもできずに、クレームをつけるだけの、そういう受動的で無力な存在に、いつしかなってしまっていた。

 公共機関への「おまかせ」の構造である。」

 

 今回、特に、問題となるのは、一般的に使用されている「ワークライフバランス」という言葉の「内容」です。

 この点について、高端氏は上記の論考で、以下のように、その常識的意味に疑問を提示しています。

 

【9】その点、「働き方改革」が大きな意味を持ちうることを忘れるべきではない。「残業代ゼロ」「定額働かせ放題」などと揶揄(やゆ)されても仕方のない法案であるうえ、過労死問題もクローズアップされたため、過労死防止という当然なすべきことに改革の目的が矮小(わいしょう)化された感がある。また、少子化問題にとらわれるあまり、ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」の中身も家事・育児といった家庭生活のみであるかのごとく扱われがちだ。」 (「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 

 さらに言えば、現代社会では、「ワーク」も私的利益のみで働き、「ワーク」も「ライフ」ともに「私的な性格」しか持ちえなくなっていることが問題でしょう。

 私的利益のみに意識的になり、公共的なことは「お上」・「公」に依存する傾向が著しくなっているようです。
 
 つまり、現代の高度に発達したサービス社会の中での「市民性の喪失」を、大きな課題になってきているのです。

 「市民性の喪失」は、「当事者性の喪失」とも言えます。


 

 それでは、「当事者性」をどのように取り戻してゆくべきでしょうか。

 高端氏は、上記の論考で以下のように強調しています。

 これこそ、正論でしょう。

 

【10】本来の「働き方改革」は、稼ぐための労働に汲々(きゅうきゅう)とする「私」が、「公」や「共」の価値に気づくだけの精神的余裕や、社会活動に参加する時間的余裕を取り戻し、互いに支え、支えられる関係に包まれてゆくことを射程に入れるべきものだ。

【11】「働き方」の改革は手段にすぎない。目的は「生き方」を変えることにある。その先にこそ、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途も開けるのではないだろうか。」(「生き方変える働き方改革を」高端正幸)

 

 現代社会の様々な閉塞的・悲観的状況を打開するためには、現在の日本の、「働きすぎ」の社会のあり方を根本的に見直して、「公」・「共」・「私」が共鳴する、望むべき社会への途を目指すしか、対応策はないのです。

 これは、決して、単なる「理想論」ではありません。

 対応策は、ただ、これだけなのです。

 問題は、国民が、このことに気付き行動に移すかどうか、だけでしょう。


 言い換えれば、国家資本主義、高度消費社会が進展している現代日本社会では、各人が無自覚に自己世界に自閉していては、いずれ、各方面で破局的結果を招来することになる可能性が濃厚です。

 各自の人生を真に充実させるためには、「私」を「公共世界」に接続させることが大切です。

 「公共哲学」への注目が不可欠でしょう。

 

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)

 

 

 

 このことを、強調しているのが、内山節氏の以下の論考です。 

 最近の入試頻出論考なので、以下に概要を引用します。

 

(5)予想問題/「公共哲学」に関する秀逸な論考ー『「里」という思想』(内山節)

 

 (概要です)

「  私たちは日本という風土のなかで暮らしている。そして、日本の風土のなかで暮らしてきた人々の過去の経験を受け継いでいる。日本的な農業や林業、漁業の仕方、日本的な建築、日本的な宗教観、祭りなどの行事やさまざまな習慣。私たちの発想や考え方も、この風土から完全に離れては作られていない。いわば、私たちは、日本の風土を基層文化として持ちながら存在しているのである。 

 ところが、そんなことは十分に認めているはずの私も、日本という国家に対しては、少し冷静な態度をとりたくなる。というのは、次のような気持ちが私にはあるからである。 

 私が上野村(群馬県多野郡にある山村)に滞在するようになった頃、村人が使う「公共」という言葉に関心をもったことがあった。「それは公共の仕事だから」とか、「それは公共のことだから」というようなかたちで、村人は何度となく「公共」という言葉を使う。ところが、村人が使うこの言葉の響きは、それまで私が東京で感じていたものとは少し違っていた。 

 東京で「公共」といえば、国や自治体が担うもの、つまり行政が担当すべきものを指していた。それに対して、私たち「私」であり、「私人」であった。だが、村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のことであった。だから、春になって、冬の間に荒れた道をみんなでなおすことは、「公共の仕事」であり、山火事の報を受けて家から消火にとび出すことも、祭りの準備をすることも、「公共の仕事」であった。 「公共」と行政とは、村では必ずしも一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。 

 そして、村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは、自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった 。つまり、自分との関係がわかる広さといってもよいし、それは、おおよそ、「村」という広さであるといってもよい。 

 つまり、村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられていた。そして、私には、その方が社会の自然なとらえ方のように思われた。「公共」とは、自分たちが共同で作りだしている世界だととらえる考え方も、行政は公共のある部分を代行しているにせよ、決して行政イコール公共ではないという見方も、社会とはそれぞれの地域の人々が責任を負っている場所の連合体だというとらえ方も、である。 

 私には、近代国家はこのような社会観をつき崩してきたように思われる。近代国家は、すべての人々を国民として共通化、平準化しようとしてきた。国民としての画一化をは図ったといってもよい。おそらく、その理由は、近代国家というものが、ヨーロッパの絶対王制の時代状況下で生まれたからであろう。すなわち、度重なる戦争をくり返していたヨーロッパ絶対王制の国家は、戦争に勝利するためには、臣民の国民としての統一と、国家統一のための国民的アイデンティティーの確立、共通意識をもった国民としての画一化が、どうしても必要であった。そして、この国民としての共通化が、後に市場経済形成にも役立っていった。 

 この国民国家が、近代化の過程で日本にも移入されてきたのだとするなら、村人の感じている「公共」の世界と国家との間には、ずいぶん大きな隔たりがあることになる。そのどちらに重心を置くことが、自然と人間の未来にとってよいのか。それは、私たちが考えてもよい課題である。 」(内山節『「里」という思想』) 

 

 上野村では、「公共哲学」が自然な形で実践されているのです。

 日本の農村地域で普通に行われている「地域の助け合い」、「地域の共同作業」が、「公共哲学」という学問領域の雛型になっている感じです。

 まさに、「ポストモダン」、「脱近代」の時代における「伝統社会の再評価・見直し」の一環と言えるでしょう。

 伝統の中に、人類の知恵が潜在していることが多いのです。

 

 内山氏が、上野村に滞在するようになり、内山氏は伝統社会の素晴らしさを知ることになりました。

 このことは、内山氏の幸運であり、それにより上記の論考を読めることは、私たちの幸運です。

 

 特に、以下の部分は重要です。熟読するべきです。

 

 「 村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のこと」

 

「  「公共」と行政とは、村では必ずしも一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。」

 

「  村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは、自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった。」

 

「  村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられていた。そして、私には、その方が社会の自然なとらえ方のように思われた。」

 

「里」という思想 (新潮選書)

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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