『君たちが知っておくべきこと』佐藤優②・現代文・小論文予想出典
(1)この記事は、「現代文・小論文・予想問題・実戦的解説・『君たちが知っておくべきこと・未来のエリートとの対話』(佐藤優)(新潮社)①」の続編です。
今回の記事の理解を深めるためにも、前回の記事を、ぜひ、参照してください。
(2)「真のエリートになるために」の解説
本書は、灘高生の質問にこたえる形で、佐藤氏が行った講義をまとめたものです。
全体は、
① 「真のエリートになるために」(→2013年に実施)
② 「戦争はいつ起きるのか」(→2014年に実施)
③ 「僕たちはナショナリズムから逃れられない」(→2015年に実施)
の、3部構成になっています。
今回の記事は、①「真のエリートになるために」の中から、「真のエリートの必須条件」を中心に解説します。
つまり、
「権威に惑わされるな」、
「なぜ信頼し、順応してしまうのか」
について、
寺田寅彦氏(夏目漱石の門下生。入試頻出著者)、
河野哲也氏の論考(2012年東大国語に出題)、
内田樹氏の論考(2016年東大国語に出題)、
の論考を参照しながら解説します。
上記の「権威」「信頼」「順応」は、すべて難関大学の現代文(国語)・小論文の頻出論点・テーマです。
今回の記事は、一般の大人にも、タメになると思います。
(3)「権威に惑わされるな」ー「なぜ信頼し、順応してしまうのか」の解説
本書は、灘高生の質問に対応する形で、佐藤氏が講義をしています。
以下では、佐藤氏の講義の概要を記述します。
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(佐藤氏の講義の概要)
「人は、なぜ権威を信用してしまうのだろうか。
ニクラス・ルーマン(→本書による注→ドイツの社会学者(1927ー98)。行為の意味づけやコミュニケーションを重視した社会システムを構想した。他の主著に『社会システム理論』)は『信頼ー社会的な複雑性の縮減メカニズム』という本の中で、このメカニズムを説明している。
複雑なシステム、つまり複雑系の中でわれわれは生きている。この自分を取り巻く複雑な事柄を一つ一つ解明するために割(さ)く時間やエネルギーはない。でも、複雑性には、縮減するメカニズムがある。法律・マニュアルを作るというのは、その一つです。
そして、人間が持つ、一番重要かつ効果的に複雑性を縮減するメカニズムは「信頼」だというのがルーマンの仮説です。信頼によって、相当程度、判断する時間と過程を省略できます。
一方、ユルゲン・ハーバーマス(→本書による注→ドイツの社会学者、哲学者。社会における理性に基づくコミュニケーション、行為の重要性に着目した。他の主著に『公共性の構造転換』)も『晩期資本主義における正統化の諸問題』の中で「順応のメカニズム」ということを言っています。
世の中の複雑さを構成する一つ一つの要素を一から自分で情報を集め、理屈を調べ、解明していくと時間が足りなくなってしまう。もちろん、面倒くさくもある。だから、自分に納得できないことがあるとしても、「誰か」が発した「これはいいですね」「これは悪いですね」という意見をとりあえず信頼しておく。それが続くと「順応の気構え」が出てきて、何事にも順応してしまうのです。
順応と信頼はコインの裏表です。一度信頼してしまうと「これ、おかしいんじゃないの?」と思っても、なかなかそこを突き詰めることができなくなってしまう。なぜかというと、信頼した人に裏切られたという意識を持つことによって、なんてつまらない人を信頼してしまったのかと、自分で自分が情けなくなるからです。」
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(当ブログによる解説)
① この講義では、第一に、「複雑性を縮減するメカニズム」として、「信頼」があることを説明しています。
「信頼」とは、「判断する時間・過程の省略」であり、要するに、「思考の放棄」です。
つまり、「思考」自体を、他者に「依存」するということです。
② 第二に、「権威」に対する「信頼」が続くと、「順応の気構え」が出てきて、何事にも順応してしまうことを説明しています。
つまり、完全な「依存状態」に慣れてしまう現象が発生してしまうのです。
③ 第三に、一度信頼してしまうと、疑問を感じても、その疑問を突き詰めることができない、つまり、疑問を徹底的に追及しにくくなることを指摘しています。
すなわち、このことこそが、「権威に惑わされている」状態なのです。
言い換えれば、「権威にコントロールされている」状態です。
これは、「マインド・コントロール」と言ってもよい状態です。
さらに言えば、「自己喪失」状態とも言うべき、最悪な状態なのです。
分かりやすく言うならば、「人間のロボット化」、「反知性主義の極致」です。
これは、かなり危険な、受動的な状況です。
このような、精神面において受動的な状況下にある人間は、真のエリート(指導的地位にある者)とは言えないことは、明白です。
④ では、このような「順応の気構え」、つまり、受動的状態から脱するには、どのような「対策」を取れば、よいのでしょうか?
これは、かなり難しい問題です。
この点に関して、『国家と神とマルクス』の中で、佐藤氏は、「『読書と思索』が『順応気構え』から脱する、よい契機になった」と言っています。
確かに、「読書と思索」こそは、「順応気構え」という最悪の「受動的状態」から脱出する「最良の対抗策」と言えます。
「自分の考え」をしっかりと保持し、「自分の思考」に自信を持っていれば、たとえ、思考の時間やエネルギーがそれほど確保できないとしても、簡単に「順応気構え」の状態に陥ることはないでしょう。
【「自己確立」について】
そういう「自己確立」のためには、「読書と思索」が不可欠です。
それに加えて、「レベルの高い友人との議論」も必要です。
「ハイレベルな友人との議論」については、佐藤氏も本書の講義の中で、その必要性に言及しています。
以下に概要を引用します。
(なお、赤字は当ブログによる強調です。)
「幅広い教養を身につけでいこうと思ったら、まず自らの意志を持つこと、それからいい先生を見つけること。
あとは切磋琢磨できるいい友だちを見つけること。皆さんの場合、この中学、高校で築いた人間関係は一生続いていくと思う。その一生続く人間関係の中でいろんな形で切磋琢磨し、お互いに教養を高めていけばいい。」
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(当ブログによる解説)
【「自己(アイデンティティ)確立と教養の関係」について】
なお、ここで、念のため、「自己(アイデンティティ)確立と教養の関係」について、説明します。
本書を読むと、佐藤氏は、「教養は自己(アイデンティティ)確立の重要な基盤」と考えているようです。
佐藤氏の、この見解は、通説と言ってよいでしょう。
この点について、私も同意見です。
ちなみに、以下の見解(文部科学省答申案概要)は、「教養」の重要性を強調しているので、参考になります。
(なお、赤字は当方ブログによる強調です。)
「教養は、個人の人格形成にとって重要であるのみならず、目に見えない社会的インフラでもある。教養ある社会を作ることは、一人一人が生涯にわたって自らを高め、それぞれの多様な生き方を個人としても社会としても認めあいながら、社会の一員としての責任と義務の自覚を持ってともに生きることのできる社会を築くことである。このような社会を目指すことは、国際社会の中で尊敬される「品格を備えた社会」の形成にもつながる。」(文部科学省、中央教育審議会、配布資料「新しい時代における教養教育のあり方について」(答申案概要))
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(さらに、当ブログによる解説)
ここまでは、【「権威」に対する「一般的な心構え」の問題】でした。
【それでは、「具体的な場面や問題」において、「権威」に対して、どのような態度を取るべきでしょうか?】
ここで参考になるのが、 寺田寅彦氏の「科学上における権威の価値と弊害」です。
寺田氏は、最近でも、早稲田大学(政経)、慶応大学(小論文)等に出題されている頻出著者です。
以下に、寺田氏の論考の概要を記述します。
(なお、
①【1】【2】【3】・・・・は、当ブログで付記した段落番号です。)
②赤字は当ブログによる強調です。)
「【1】権威というのは元来相対的なものである。小学校の生徒の科学知識に対しては中等教育を受けた者は大抵は権威となり得る資格があるはずである。大学卒業者はその専門では先ず社会一般の権威となり得るはずである。物理学者と称せらるるものなどはその修むる専門の知識においては万人の権威であるべき訳である。しからばあらゆる大学教授の学殖はすべて同一であるかというに、そういう事は不可能であるが、同じ物理学の中でもそれぞれの方面にそれぞれの権威があってこれらの人々の集団が一つの理想的な権威団を形成すると考えてよい。この権威の財団法人といったようなものの権威の程度はどのようであろう。これとても決して絶対的なものではない。」
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(当ブログによる解説)
冒頭文の「権威というのは元来相対的なものである」は、この論考のキーセンテンスと言えます。
「権威を絶対視しては、いけない」ということです。
日本人の弱点は、権威をすぐに絶対化してしまうことです。
単に、「素直」なのでしょうか?
「反知性主義的な傾向」が、あるのでしょうか?
「素直さ」は、長所でもあり、短所でもあります。
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(寺田氏の論考)
【2】「つまり各部門においては現在既知の知識の終点を究め、同時に未来の進路に対して適当の指針を与え得るものが先ず理想的の権威と称すべきものではあるまいか。」
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(当ブログによる解説)
「理想的な権威」とは、「滅多に存在していない」というニュアンスがあることに、注意してください。
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(寺田氏の論考)
【3】現在既の科学的知識を少しの遺漏(いろう)もなく知悉(ちしつ)(→当ブログによる注→「知り尽くしている」という意味)するという事が実際に言葉通りに可能であるかどうか。おそらくこれは六(む)つかしい(→当ブログによる注→「むつかしい」を使う時の当て字。夏目漱石の作品にも使用例があります)事であろう。しかし特殊の題目について重(おも)なる学術国の重なる研究者の研究の結果を up to date(→当ブログによる注→「最新式、現代的」という意味) に調べ上げて、その題目に対する既得知識の終点を究める事は可能である。これを究めてどこまでが分っているかという境界線を究め、しかる後その境界線以外に一歩を進めるというのが多くの科学者の仕事である。科学上の権威者と称せらるる者はなるべく広い方面にわたってこの境界線の鳥瞰図を持っている人である、そして各方面からこの境界を踏み出そうという人々に道しるべをするのである。しかしどこまでも信用の出来る案内者はあり得べからざるものである。如何に精密なる参謀本部の地図でも一木一草の位置までも写したものはない。たとえ測量の際には正確に写したものでも、山の中の木こり径(みち)などは二、三年のうちにはどうなるかもしれない。そこまで地図をあてにするのはあてにする方が悪いのである。権威者の片言隻語(へんげんせきご)(→当ブログによる注→「ほんのちょっとした短い言葉」という意味)までも信ずるの弊は云うまでもない事であるが、権威を過信する弊害はあながちこれらの枝葉の問題に止まらない。もっと根本的な大方針においてもまた然(しか)りである。
【4】あらゆる方面で偉大な仕事をした人は自信の強い人である。科学者でも同様である。しかし千慮の一失は免れない。その人の仕事や学説が九十九まで正鵠(せいこく)を得て(→当ブログによる注→正解には「正鵠を射る」の方が正しい。「一番大切な所を把握する」という意味)いて残る一つが誤っているような場合に、その一つの誤りを自認する事は案外速やかでないものである。一方、無批判的な群小は九十九プロセントの偉大に撃たれて一プロの誤りをも一緒に呑み込んでしまうのが通例である。権威の大なる危害はここにあるのである。このような実例は科学史上枚挙(まいきょ)に暇(いとま)ない(→当ブログによる注→「枚挙に暇がない」とは「いちいち列挙できないほどに多い」という意味)ほどである。ニュートンが光の微粒子説を主張したという事がどれだけ波動説の承認を妨げたかは人の知る所である。またラプラスが熱を物質視したためにエネルゲチックの進歩を阻害した事も少なくない事は史家の認める所である。あえて昔に限った事はない、現在でもそういう例は沢山あろうと思う。大家と称せらるる人の所説ならばずいぶんいかがわしい事でも過信されるのは日常の事である。甲某は何々のオーソリチーであるとなれば、その人の所説は神の託宣のように誤りないと思われるのが通例である。想うにこれらは権威の罪というよりはむしろ権威者の絶対性を盲信する無批判な群小の罪だと考えなければなるまい。もとより一般から権威と認められる人がその所説を発表し主張するについては慎重でなければならぬ事は勿論であるが、如何なる人でも千慮の一失は免れ難い。万に一つの誤りをも恐るるならばむしろ一切意見の発表を止めねばならない。万一の誤りを教えてならないとなれば世界中の学校教員は悉皆(しっかい)(→当ブログによる注→「残らず」という意味)辞職しなければならない。万一の危険を恐れれば地震国の日本などには住まわぬがよいというと一般なものである。恐るべきは権威でなくて無批判な群衆の雷同心理でなければならない。
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(当ブログによる解説)
この部分は少々長く、読みにくいですが、具体例が多いことが原因です。
赤字の文に注目して読んでいけば、分かりやすくなると思います。
特に、重要な文は、
「恐るべきは権威ではなくて無批判な群衆の雷同心理でなければならない。」
という一文です。
「無批判な群衆の雷同心理」、つまり、「無批判な群衆」の「受動的態度」が、「権威」の「絶対化」を促進させてしまうのです。
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(寺田氏の論考)
【5】「本当の科学を修めるのみならずその研究に従事しようというものの忘るべからざる事は、このような雷同心の芟除(さんじょ)(→当ブログによる注→「取り除く」という意味)にある。換言すれば勉(つと)めて旋毛(つむじ)を曲げてかかる事である。如何なる人が何と云っても自分の腑(ふ)に落ちるまでは決して鵜呑(うの)みにしないという事である。この旋毛曲(つむじまが)りの性質がなかったら科学の進歩は如何(どう)なったであろうか。」
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(当ブログによる解説)
① この段落では、「雷同心の芟除(除去)」は科学者の「課題」だと主張しています。
(もちろん、「雷同心の除去」は一般人にも必要なことです。)
② 「『雷同心の除去』のためには、『つむじ曲がり』になることが必要である」、と寺田氏は強調しています。
「つむじ曲がり」になるとは、寺田氏によれば、「『自分の腑に落ちること』を重視する」ということです。
「心身からの納得」の重視ということです。
「頭」だけで、論理的に、さらっと判断するだけでは足りないのです。
全身をかけて、真剣に判断するべきなのです。
③ なお、注意するべき点は、「つむじ曲がり」は、一般的には「へそまがり」「偏屈」という、マイナスのニュアンスで使用されていますが、ここでの意味は違うということです。
つまり、「如何なる人が何と云っても自分の腑に落ちるまでは決して鵜呑みにしないという事」という意味で、プラス的に使っていることに注意する必要があります。
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(さらに、当ブログによる解説)
【「腑に落ちる」について】
「自分の腑に落ちる」という表現は、最近の大学入試現代文(国語)・小論文の「流行キーワード」になっています。
最近の、「心身二元論」に関する議論、つまり、「身体の見直し・再評価」「身体重視」の議論が背景にあります。
この議論については、このブログで、以前に記事化(→「東大現代文対策ー3・11後の最新傾向分析①ー2012・河野哲也」)したので、それを参照してください。
下に、リンク画像を貼っておきます。
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(さらに、当ブログによる解説)
「腑に落ちる」について、さらに解説を続けます。
この表現は、例えば、2016年度東大国語第一問に出題された内田樹氏の論考(「反知性主義者たちの肖像」(『日本の反知性主義』所収))にも、キーワードとして使用されています。
以下に、このキーワードが使われている東大の問題文本文(一部)の概要を記述します。
「ロラン・バルト(→当ブログによる注→フランスの文芸批評家、記号論者)によれば、「無知」とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。ァそのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人(→2016年度の東大の問題(設問1)では、この傍線部について、「どういう人のことか、説明せよ」と聞いています。解答・解説については、このブログの記事〈→「20016年東大国語ズバリ的中報告記事」→この下に、リンク画像を貼っておきます〉を参照してください)を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情熱を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。」
この「腑に落ちる」という表現は、これから出題される現代文(国語)・小論文問題においても、キーワードとして使用される可能性が大です。
しっかり理解しておくべきです。
以下に、「腑に落ちる」の同義語のうちで、入試現代文・小論文において重要なものを列挙します。
「得心する」
「合点が行く」
「氷解する」
「胸にストンと落ちる」
「心に落ちる」
「身に染みて分かる」
「目からウロコが落ちる」
「膝を叩く」
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(さらに、当ブログによる解説)
【「『論理』にのみに頼らないこと」について】
「腑に落ちる」に関して、本書で、佐藤氏は、とても参考になることを述べています。
「『論理中心主義』は、古来からの伝統ではない」ということについての説明です。
以下に、概要を引用します。
「論理の外に、「見えない世界」、「ひと昔の言葉で言うと、先験的、超越的な感覚」があることをつかんでおくことは、リーダーには意外と大事です。
エリートの条件の一つは、A=B、B=Cだったら、A=Cであると物事を論理的に考えられることです。
ところが、物事を論理的に考えるということに価値が置かれるようになったのは、比較的最近です。中世までは、理性や理屈によって物事が分かる、というのはレベルが低いことだと思われた。では、レベルが高いとは? パッと見た瞬間に事柄の本質が分かるということ。
インプレションに含まれる「プレス」、つまり、「印字する」がポイントになる。昔は、目に見えない〈事柄の本質〉が空中を飛んでいて、それがペタッとわれわれにくっつくと、理解できる、認識が可能になる、と考えられていた。
この辺に関して興味のある人は、東大の哲学の先生だった廣松渉(ひろまつわたる)さんの『新哲学入門』、『哲学入門一歩前・モノからコトへ』を読むといい。」
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さらに、寺田氏の論考の概要を記述します。
引用としては、これが最後です。
(寺田氏の論考)
「【6】スコラ学派(→当ブログによる注→11世紀以降に主にローマ・カトリック教会の神学者・哲学者達によって確立された学問形式)時代に科学の進歩が長い間全く停滞したのは、全くこの旋毛曲りが出なかったために外ならない。レネサンスはすなわち偉大な旋毛曲りの輩出した時代である。ガリレーはその執拗な旋毛曲りのために縄目(→当ブログによる注→「罪人として縄をかけられる」という意味)の苦しみを受けなければならなかった。ニュートンがデカルト派の形而上学(→当ブログによる注→世界の普遍的原理について研究する学問・哲学)的宇宙観から割り出した物理学を離れて 、あのような偉業をしたのもそうである。Huyghens, Young が微粒子説を打破したのもファラデーが action at a distance(→当ブログによる注→遠隔作用)を無視したのでも、アインスタインが時と空間に関する伝習的(→当ブログによる注→「伝統、習慣」という意味)の考えを根本から引っくり返して相対率原理の基礎を置いたのでも、いずれにしても伝習の権威に囚(とら)われない偉人の旋毛曲りに外ならないのである。」
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(当ブログによる解説)
【「懐疑精神」と「偉大な業績」】
この段落では、偉人の「旋毛曲がり」、言い換えると、「懐疑精神」が「偉大な業績」の契機になったことが述べられています。
要するに、偉大な科学者達は、今までの理論に対して「腑に落ちること」がなかったので、「懐疑の気持ち」を持った。そこで、懐疑の対象を突き詰めた結果、偉大な理論構築が可能になった、ということです。
つまり、「偉大な発見」は、上記の佐藤氏の講義で言及されている、「おかしいと思ったことを突き詰めた」結果なのです。
その結果の、偉大な「業績」・「改革」なのです。
私達は、この歴史を参考にする必要があると思います。
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以上、佐藤優氏の密度の濃い講義を元にして、「真のエリートになるための必須条件①」について、発展的に(重要な寄り道が多数)、解説してみました。
次回の記事は、今回の続編、「真のエリートになるための必須条件②」の予定です。
私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。
https://twitter.com/gensairyu2