現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/「伝統的規範が支える民主主義」佐伯啓思(朝日新聞)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 佐伯啓思氏は、入試頻出著者です。

 佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。

 

 佐伯氏は、最近、「伝統的規範が支える民主主義 寛容さ失えば独裁者生む」(《異論のススメ》『朝日新聞』2018年11月2日) を発表しました。

 

 この論考は、

「民主主義」、

「デモクラシー」、

「寛容」、

「寛容のパラドックス」、

「戦う民主主義」、

「現代文明批判」、

「現代文明論」、

「近代批判」、

といった、最新の様々な頻出論点を含んでいて、注目するべき論考です。

 

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、この論考を詳しく発展的に解説します。

 

 なお、今回の記事においては、「理想論」を、ある程度支持、礼賛しています。

 「理想論」は、一種のメルヘンです。

 子供の妄想という側面があります。

 「理想論」は、通常は冷笑の対象でしか、ありません。

 

 しかし、特に政治論においては、場合によっては、「理想論」を掲げるしか方策はないということもあります。

 そして、その理想論が現実化することがあることは、歴史が証明しているのです。

 男女平等原則、民主主義等が、その一例です。

 従って、今回の記事においては、「理想論」を、一義的に単なる揶揄の対象として考えることはできないのです。

 

 記事は、約1万字です。

 記事の項目は以下の通りです。

 

 (2)予想問題/「伝統的規範が支える民主主義 寛容さ失えば独裁者生む」(佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2018年11月2日) 

(3)「民主主義」の、あるべき姿/対策論

(4)「寛容のパラドックス」

(5)「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫/1993年慶應義塾大学文学部・小論文試験・課題文

(6)「戦う民主主義」

(7)当ブログにおける「民主主義」、「デモクラシー」、「寛容」関連記事の紹介

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(2)予想問題/「伝統的規範が支える民主主義 寛容さ失えば独裁者生む」(佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2018年11月2日) 

 

(概要です)

(佐伯氏の論考は太字です)

(青字は当ブログによる「注」です) 


 2年前の11月に米国でトランプが大統領に選出された。連邦議会議員を選ぶ中間選挙ももうすぐ行われるが、概して大統領の所属政党は分が悪いというのが通例であり、共和党は苦戦を予想されている。

 それにしても、トランプ大統領の誕生は「大事件」であった。それは、今日の米国を知る上でも、また今日の民主政治を論じる上でもそうである。トランプによって米国が二つに分断されたという見方があるが、そうではない。すでに分断されていた結果がトランプを大統領に持ち上げたのである。また、トランプは民主主義の敵であり、民主政治を破壊するという見解があるが、これもそうではない。まさに今日の民主主義がトランプを大統領の地位に押し上げたのであった。

 最近、翻訳された『民主主義の死に方』という本がある。レビツキーとジブラットというハーバード大学の2人の政治学者の手になる書物で、彼らは、今日の米国の民主政治がまさにトランプという「独裁型」の指導者を生み出したと述べ、その背景を分析し、こういうことを書いている。

 1960年代の公民権運動以来、米国は多様な移民を受け入れてきた。非白人の人口比率は50年代には10%だったのが2014年には38%になり、44年までには人口の半分以上が非白人になるとみなされる。そしてこの移民のほとんどは民主党を支持した。一方、共和党の投票者は、90%ほどが白人である。つまり巨大な移民の流入という米国社会の大きな変化が、自らを「本来のアメリカ人」だと考える白人プロテスタント層に大きな危機感を生み出し、その結果、共和党と民主党の激しい対立が生み出された。当然ながら、「アメリカが消えてゆく」という危機感を濃厚にもつ共和党の方が、いっそう過激なアメリカ中心主義(白人中心主義)へと傾いてゆくことになった。

 しばしば、トランプ現象の背景には、グローバル競争のなかで、経済的な苦境を強いられる「ラストベルト」の白人労働者層があり、トランプの反移民政策は、彼らの歓心を買うためのポピュリズム(大衆迎合)だといわれる。間違いではないものの、問題の根ははるかに深い。共和党からすれば、民主党は「アメリカの解体」をはかっているように映るのである。今日、両者の対立は、もはやリベラルと保守といったイデオロギー的なものではなく、人種、信仰、そして生活様式という生の根本が分断された結果なのである。

 この著者たちによると、リベラルと保守という思想的な対立の時代には、共和党にもリベラルな政治家がおり、民主党にも保守的な考えがあった。その結果、両者の間にはまだしも共通の了解が成立しえたし、ともに、国の全体的な利益のために、過度な自己主張を自制し、相手をあまりに断罪しないという「自己抑制」の不文律があった。その上に、両派の「均衡」が成立していた。「礼節」や「寛容」を含む「自己抑制」という目に見えない規範だけが、アメリカン・デモクラシーを支えていた、というのである。

 

 

民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道

民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道

 

 

 

(当ブログによる解説)

 「トランプ現象」は、最近の難解大学入試の現代文、小論文で流行になっています。

 よく理解するようにしてください。

 

 「憲法」こそは、独裁を防ぎ、民主主義を守るための装置のはずです。 

 しかし、「トランプ現象」をきっかけとして書かれた『民主主義の死に方』では、「憲法は常に不完全だ」と述べています。

 「しっかり整備された憲法であっても、恣意的な解釈・運用が可能なので、それだけでは民主主義は護れない」と言っています。

 たとえば、フィリピンの憲法は、「合衆国憲法の忠実なコピー」でしたが、マルコス大統領により、簡単に骨抜きにされてしまったようです。

 このことは、今までの歴史からも明らかでしょう。

 

 では、なにが民主主義を守るのか。

 それは「相互的寛容」と「組織的自制心」の2つだと、本書は主張しています。
 

 「相互的寛容」とは、対立相手を自分の存在を脅かす脅威とみなさず、正当な存在とみなすことです。
 

 もうひとつの「組織的自制心」は、たとえ合法でも、明らかに法の精神に反するような行為は行わないようにすることです。

 例として出されているのが、審判がいないストリートバスケットです。審判がいないので、反則ギリギリのプレーで相手を負かすことも可能だが、それでは誰も試合をしてくれなくなる。それゆえ、両者は一定の節度を持って試合に臨む。

 「政治の世界に言い換えれば、丁寧な言動やフェアプレーに重きを置き、汚い手段や強硬な戦術を控えなければいけないということだ」と本書では述べられています。

 

 民主主義が継続できるか否かが、こうした規範、政治家の心のあり方に任されているのです。

 つまり、逆に言えば、独裁的傾向を持つ政治家が、その意志に従って、巧妙に民主主義を崩壊させようとすれば、独裁は可能なのです。

 民主主義には、脆い側面があるからこそ、政治家、国民、マスコミは、そのことを強く意識する必要があるのでしょう。


 このことに関して、本書は世界の様々な国を比較検討することにより、事前に検知しにくい独裁者の卵を見分けるための「リトマス試験紙」となる、4つの「行動パターン」を抽出しています。

 これらの基準に1つでも該当する政治家については、注意が必要ということです。

① ゲームの民主主義的ルールを拒否(あるいは軽視)する

② 政治的な対立相手の正当性を否定する

③ 暴力を許容・促進する

④ 対立相手(メディアを含む)の市民的自由を率先して奪おうとする」

 

 また、本書は、民主主義の崩壊に向けて独裁者が遂行する3つの「プロセス」についても指摘しています。

① 審判を抱き込む

② 対戦相手を欠場させる

③ ルールを変える

 以上の視点に留意して、現代の日本の政治状況を、厳しくチェックしていくことが大切でしょう。

 


(「伝統的規範が支える民主主義」)

 しかし、さらに彼らはこう指摘する。この目に見えない規範が共有されていたのは、実は米国は白人中心の国だという人種の論理が暗黙裡に共有されていたからだ、というのである。だから、60年代以降、人種差別撤廃運動が生じ、明らかに民主主義は進展した。ところが、その民主主義の進展こそが、共有された暗黙の規範を失墜させ、アメリカ社会の分断を導き、民主政治を破壊してしまっている、という。たいへんに深刻で逆説的な結論であるが、確かに事実というほかあるまい。

 この著者たちが述べるように、民主主義なら政治はうまくゆく、という理由もなければ、米国の憲法や文化のなかに民主主義の崩壊から国民を守ってくれるものがある、などという理由もない。これはもちろん、米国だけではなく、日本も含めてどこでも同じことだ。

 

 

(当ブログによる解説) 

『民主主義の死に方』では、以下のように述べられています。

 

「「相互的寛容」はいつでも善意によって構築されるわけではない。血みどろの南北戦争後に、民主党と共和党の間での敵対心が和らいだのは、アフリカ系アメリカ人から選挙権を取り上げることに両党が合意したからだ。南部における白人至上主義を保つことができたからこそ、民主党員の恐怖心が取り除かれ、共和党と建設的な議論や協力ができるようになったのである。」

「アメリカの政治システムを支える規範は、その大部分が人種の排斥の上に成立するものだった。人種の排斥は政党の礼節と協力の規範の大きな支えとなり、それが20世紀のアメリカ政治を特徴づけることになった。」

 

 「白人至上主義」により、自分達の優位が保証され、その精神的余裕が、「礼節」と「協力」という、寛容的精神の基盤になったということでしょうか?

 「民主主義」は、制度、道具にすぎないので、それを運用する人間の「心がけ」が大切だということです。

 


(「伝統的規範が支える民主主義」)

 さらに、今日、何事においても事態を単純化しようとするメディアやSNSの影響力を前にして、民主主義は、すべてを敵か味方かに色分けし、対立者を過剰なまでに非難するという闘争的なものへと急激に変化している。対立する両派とも、わが方こそが「国民の意思を代表している」として「国民」を人質にすることによって自己正当化をはかる。言い換えれば、対立者は「国民の敵」だというのだ。

 日本では、近年になって、人口減少化のなか、事実上の移民労働者数は急激に増加しているが、それが引き起こす社会の分断は米国や欧州ほど深刻ではない。しかも、宗教的対立は存在しない。だが、米国や欧州の事例から学ぶべきことは、民主主義の進展こそが様々な問題を解決してくれるなどと期待してはならない、ということである。

 ましてや、二つの陣営の激しい対決や批判の応酬こそが民主主義だなどと考えるわけにはいかない。民主主義を支える価値は、民主主義からでてくるのではなく、むしろ、非民主的なものなのである。社会の伝統的秩序のなかにある「自己抑制」「寛容」「思慮」「エリートのもつ責任感」といった価値観は民主主義とは関係ない。それは伝統的な見えない社会規範とでもいうべきものであり、それが失われたとき、民主主義こそが独裁者を生み出すという古代からの「法則」は、今日でもまた現実のものとなりうるのである。
(「伝統的規範が支える民主主義 寛容さ失えば独裁者生む」 佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2018年11月2日)

 


(当ブログによる解説)

 佐伯氏は、『反・民主主義論』の中で、「現代では、マスコミ『民主主義』の『支え』は、既に、かなり前に外れた」という趣旨で、以下のように説明しています。

 

「 ソクラテスは、『真理』が何かはわからないが、それがある、としておかなければ人間の知的活動などありえない、という。

 知的活動はともかくも『真理』へ向かおうとするものだからです。

 そして、真理を知ろうとするその態度(→つまり、「謙虚な態度」ということです)がまた善い社会を作り、善く生きようという政治活動にも反映されるべきだとしたのでした。

 そのときに、人は『真理』や『善』の奉仕者になり、政治は幾分かは謙虚なものとなったはずでした。

 しかし、ギリシャの民主主義者たち(ソフィストたち)は、ソクラテスがいうような『真理』も『善』も放棄し、人間こそがすべての尺度であり、力こそがすべてを生み出すことができる、とみなした。

 このときに、民主主義は『知』という支えを失ったのでした。」(『反・民主主義論』)

 

 

反・民主主義論 (新潮新書)

反・民主主義論 (新潮新書)

 

 

 

 人々は、自分とは無関係な、スポーツ選手の経済的欲望・社会的欲望の暴走は、「高い精神性や公共性」、つまり、「公正性」・「上品さ」・「徳」・「冷静さ」を掲げて制御・制限できても、自分自身の「経済的欲望」・「社会的欲望」の制御・制限はできないのではないでしょうか。

 「自由」、「権利」という名のもとに、人々は、自己が逸脱した行動をとっていることの「愚」に恥ずかしさを感じていない、あるいは、多少は感じていても、他者が同様な行動をとっていることから、自己の行動を容認しているのでしょう。

 「資本主義の進展」・「新自由主義」・「IT革命」などにより、「宗教的精神」・「道徳的精神」が薄まってしまったことも、背景にあるのでしょう。

 しかも、人々のその自己容認を承認する公教育、マスコミの報道が氾濫しているという現状があります。

 

 

(3)民主主義の、あるべき姿/対策論

 

 「民主主義の、あるべき姿」として、つまり、対策論として、どのようなことが考えられるか?

 参考になるのは、『反・民主主義論』における、以下の佐伯氏の見解です。

 概要を引用します。

 

「  民主主義にせよ、議会主義にせよ、可謬性(かびゅうせい)(→「ミスをする可能性」という意味」)の前提にたっていることを忘れてはならないのです。(→この部分は「謙虚さ」の重要性の強調です) 

 民主主義、「国民の意思」、手続きを踏んだ議会の決定は、暫定的に正当だというだけなのです。議会での決定が間違っていたかもしれない、という自己省察を放棄してはならないのです。

 民主主義であれ議会主義であれ、必要なものはある種の謙虚さと自己批判能力なのです。」

(『反・民主主義論』)

 

 ここで、佐伯氏が強調するのは、「ある種の謙虚さ」と「自己批判能力」です。

 つまり、「自分たちの行動を絶対化しない謙虚さ」と「冷静さ(自己批判能力)」です。


 この点は、今回の佐伯氏の論考(「伝統的規範が支える民主主義 寛容さ失えば独裁者生む」) 、『民主主義の死に方』の趣旨と一致しています。

 

 これと同様のことを、佐伯氏は、『反・民主主義論』の別の部分でも、述べています。

 以下に概要を引用します。

 

「 本来は、デモクラシーを支えるはずの、自己省察、他者への配慮、すべては暫定的な決定だという謙虚さ、声を荒げない討議。デモクラシーを支えるはずの、自己省察、他者への配慮、すべては暫定的な決定だという謙虚さ、声を荒げない討議。こうしたものを『国民主権』のデモクラシー自身が破壊してしまった。」

(『反・民主主義論』)

 


 佐伯氏は、これまで、この「民主主義の、あるべき姿」を何度も、強調しているのです。

 1997年に発行した『現代民主主義の病理』(NHKブックス)でも、以下のように主張しています。

 
「  わたしには、現代日本の『不幸』はデモクラシーが成立していないからなのではなく、むしろ、そのデモクラシーがあまりにも規律をもたず、いわば無責任な言論の横溢(おういつ)をもたらしているところにある、と思われるのだ。 

 そして、それは、現代日本に限らず、デモクラシーというものにつきものの病気なのである。自由が秩序によって牽制され、権利が義務によって牽制され、競争が平等によって牽制されるように、デモクラシーもある種の規律によって牽制されなければ、衆愚政治に堕して自壊するのである。

 そして、デモクラシーが言論による政治を柱にする限り、言論における規律をどのように確保するかこそがデモクラシー社会の課題となるであろう。」

(『現代民主主義の病理』「序 無魂無才の不幸ー日本人の『精神』はどこへ」佐伯啓思)

 

 

現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)

現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)

 

 


 以上の佐伯氏の主張は、ある意味で「理想論」ですが、追求するべき理想論でしょう。

 対策論としては、これ以外には、ないのです。

 人々は「長期的視点」を持ち、「規律」・「真理探求」・「善」・「謙虚」・「徳」、つまり、「倫理(モラル)」を、再評価するべきです。

 そのことが、ひいては、自分自身の「長期的利益」、つまりは、「確実な幸福」につながることを意識するべきです。

 言い換えれば、短期的視点、短期的利益に従って行動することは、「可謬性」が高まること、つまり、不安定な政治を招来しかねないこと、ひいては、「自分自身を不安定な場に置くこと=不幸にすること」を、理解することが重要なのだと思います。

 

 

(4)「寛容のパラドックス」

 

 

 「寛容」に関しては、「寛容のパラドックス」を理解する必要があります。

 「寛容のパラドックス」とは、カール・ポパーが1945年に発表したパラドックスです。

 ポパーは、以下のように述べています。

 

 「もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊される。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」

 原則的に「寛容」は守るべき重要な概念だが、例外を認めなければ、寛容な社会は実現不可能である、とするのです。

 

 以下に詳説します。

 ポパーは、『開かれた社会とその敵』において、このパラドックスを以下のように定義しました。

 

「「寛容のパラドックス」についてはあまり知られていない。

 無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。

 もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。

 この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。

 我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。

 しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。

 と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。

 ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。」

 

 
 同様の見解を哲学者ジョン・ロールズも正義論』において、以下のように述べています。

 

「  公正な社会は不寛容に寛容であらねばならない。

 そうでなければ、その社会は不寛容と言うことになり、そうするとつまり、不公正な社会ということになる。

  しかし、社会は、寛容という原則よりも優先される自己保存の正当な権利を持っている。

 寛容な人々が、自身の安全と自由の制度が危機に瀕していると切実かつ合理的な理由から信じる場合に限り、不寛容な人々の自由は制限されるべきだ」

 


 以上の、ポパー、ロールズに反対する説があります。

 例えば、渡辺一夫氏は、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」の中で、以下のように主張しています。

 

「  我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由でなしに、我々の憎む思想にも自由を与えることが大事である。」

「  寛容は寛容によってのみ護られるべきであり、決して不寛容によって護られるべきでないという気持ちを強められる。

 よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いとおもわねばなるまい。

 その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。

 不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容をさらにけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。

 ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせてくれる場合も多いということである。

 あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。

 僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。」

(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫)

 

 あくまでも、理想論を貫く態度は見事だと思います。

 

 
(5)「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫/1993年慶應義塾大学文学部・小論文試験・課題文

 

 上記の渡辺氏の論考は、1993年の慶應義塾大学文学部の小論文試験課題文として出題されています。

 以下に引用します。

1993年慶應義塾大学文学部・小論文・課題文

「つぎの文章は、1951年に書かれた渡辺一夫氏のエッセイである。これを読んで、以下の設問に答えなさい。

(問1) この文章の主旨を300字以内で要約しなさい。

(問2) 筆者の主張は、今日の状況においても妥当か否か、あなたの立場を明確にして、400字以内で論じなさい。」

 

「  過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。

 割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざるを得ぬことがあるであろう。これは、認める。しかし、このような場合は、実に情ない悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持は僕にないのである。

 その上、不寛容に報いるに不寛容を以てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深いひだを残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとしても考えざるを得ない。

 従って、僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために 不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。繰返して言うが、この場合も、悲しい、また呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になった例が幾多あることを、また今後もあるであろうことをも、覚悟はしている。

 しかし、それは確かにいけないことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪わしい人間的事実の発生を阻止するように全力を尽さねばならぬし、 こうした事実を論理的にでも否定する人々の数を、一人でも増加せしめねばならぬと思う心には変わりがない。

 人間は進歩するものかどうかは、むつかしろうが、人間社会全体の存続のために、人々が様々な契約を作り出し、各自の怒意による対立抗争の解決に努力している点では、確かに進歩があると言ってもよいであろう。ヨーロッパの昔 (中世前期)においては、個人間に悶着が起った時には、大名なり王者なりの前で、 当該係争者が決闘をして、勝った者が神の意に適ったものとして、正しいと判ぜられたという。これは、弱肉強食から、人間が一歩前進して、何らかの契約を求めて、弱肉強食を浄化する意志を持っている証拠のように思われる。その後、様々な法令が作られて、個人間の争闘は、法の名によって解決され、人間は死闘の悲惨から徐々に脱却しつつあると言ってもよいであろう。 

 人間は嘘をつくし、逆上して殺人もする。しかし、嘘をついたり、殺人をしたりしてはいけないという契約は、いつの間にか、我々のものになって居り、嘘をつく人や殺人犯人は、現実にはいることを、悲しく呪わしい人間的事実として認めても、これを当然の事実として認める人はいないはずである。 寛容が不寛容に対して不寛容になってはならぬ、という原則も、その意味で、強く深く人々の心のなかに、新しい契約として獲得されねばならない。たとえ、前に述たような悲しく呪わしい人間的事実が依然として起るとしても。

 いくら、こうした原則が設けられても、不寛容が横行する以上どうにもならぬではないか、とも言われよう。しかし、右のような契約が、ほんとうに人間の倫理として、しっかりと守られてゆくに従い、不寛容も必ず薄れてゆくものであり、全く跡を絶つことは、これまた人間的事実として、ないとしても、その力は著しく衰えるだろうと僕は思っている。あたかも嘘言や殺人が、現在においては、日陰者になっているのと同じように。

 寛容と不寛容との問題は、理性とか知性とか人間性とかいうものを、お互いに想定できる人間同士の間のことであって、猛獣対人間の場合や、有毒菌対人間の場合や、 天災対人間の場合は、論外とすべきであろう。人間のなかには、猛獣的な人間もいるし、有毒菌的天災的な人物もいるにしても、普通人である限りにおいでは、当然問題の範囲内に入ってくる。ただ、このような人間は、 その発作が病理学的な場合もあり無智の結果である場合もあるから、問題の範囲内に入れるとしても、これも別に論じなければならぬことになろう。ここでは、概念的すぎるかもしれないが、普通の人間における不寛容と寛容との問題だけに焦点の位置を限らねばならない。

 秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

 更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

 即ち、秩序を守ることを他人に要求する人々は、自らに とってありがたい秩序であればこそ、正に、その改善と進展とを志さねばならぬはずである。寛容が、暴力らしいものを用いるかに見えるのは、右のような条件内においてのみであろう。しかし、この暴力らしいもの、即ち、 自己修正を伴う他者への制裁は、果して暴力と言えるのであろうか?

 十字路の通行を円滑ならしめるための青信号赤信号は暴力でないし、戸籍簿も配給も暴力ではない。人間の怒意を制限して、社会全体の調和と進行とを求めるものは、契約的性格を持つが故に、暴力らしい面が仮にあるとしても、暴力とは言えない。そして、我々がこうした有用な契約に対して、暴力的なものを感ずるのは、この契約の遵守を要求する個々の人間の無反省、 傲慢或いは機械性のためである。例えば、無闇やたらに法律を盾にとって弱い者をいじめる人々、十字路で人民をどなりつける警官などは、有用なるべき契約に暴力的なものを附加する人々と言ってもよい。こうした例は無数にある。用いる人間しだいで、いかに有用なものでも、有害となり、暴力的になるように思う。このことは、あらゆる人々によって、日常茶飯のうちに考えられていなければならぬことであろう。

 寛容と不寛容とが相対峙した時、寛容は最悪の場合に、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終りまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに若干の光明もある。

 人間の歴史は、一見不寛容によって推進されているようにも思う。しかし、たとえ無力なものであり、敗れ去るにしても、犠牲をなるべく少なくしようとし、推進力の一つとしての不寛容の暴走の制動機となろうとする寛容は、過去の歴史のなかでも、決してないほうがよかったものではなかったはずである。」

(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」)

 

 上記の「課題文」の「要約」は、以下の通りです。

 

 「過去の歴史や、我々の周囲の現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称し、不寛容になった実例がしばしばある。

 しかし、だからといって、寛容は自らを守るために不寛容に対し不寛容になってよいはずはない。不寛容に報いるに不寛容を以ってした結果双方の人間が、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深いひだを残し、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えざるをえない。寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきではない。

 人間は進歩するものかどうかは、むつかしい問題である。しかし、人間社会の存続のために、人々が様々な掟や契約を作り出し、各自の怒意による対立抗争の解決に努力している点では、進歩があると言ってもよい。

 寛容が不寛容に対して不寛容になってはならない、という原則も、契約として獲得される必要がある。

 秩序は守られねばならず、秩序を乱す人間に対しては、社会的な制裁を加えてしかるべきであろう。だが、その制裁はあくまでも人間的でなければならない。

 寛容と不寛容が相対峙した時、寛容は最悪の場合に、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対し、不寛容は何の躊躇もなしに暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器は説得と自己反省しかない。寛容は不寛容に対する時、常に無力である。

 人間の歴史は、不寛容によって推進されているようにも思う。しかし、たとえ無力なものでも、寛容は過去の歴史の中で決してないほうがよかったものではない。寛容は、不寛容の暴走の制動機になろうとしてきたのである。」

(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫)

 

 そして、渡辺氏は、このエッセイの最終部分でこう記しています。


「  初めから結論が決まっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々はそれを激化せしめぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少ない犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである。」

(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫)

 

 「寛容」は、「多様性」、「グローバル化」の論点のキーワードです。

 「寛容をいかに考えるか」は、非常にデリケートな問題です。

 佐伯氏の「せめて議論の場合は寛容に」という、控え目な提案にさえ、反対する見解は根強いのです。

 受験生としては、自分の立場を決定する前に、「寛容」に関する議論を、しっかりと理解しておくべきでしょう。

 

 (6)「戦う民主主義」

 

 なお、「寛容」に関しては、「戦う民主主義」を理解しておくことも大切です。

 「戦う民主主義」とは、ドイツをはじめとするヨーロッパで顕著な、民主主義理念の一つです。 

 民主主義を否定する自由、民主主義を打倒する権利を認めない「民主主義」です。


 民主主義体制を維持するためには、国民に、思想の自由、表現の自由を保障することが不可欠です。

 しかし、国民が、何らかの説得・誘導により、自分の政治的自由を自ら放棄し、民主主義的手続きにより、民主主義制度廃止の手続きをした場合はどうなるのでしょうか。

 このような民主主義体制の自滅の結果として、独裁制が成立する危険性があります。

 そこで前もって、「民主主義体制を敵視する自由」を制限し、民主主義体制維持を自国民に義務付ける、という防御手段を採用しておくことが考えられます。

 このように、民主主義的手続きで民主主義体制を否定しようという勢力から、民主主義体制を守るという発想が「戦う民主主義」です。

 

 これは、「ナチズム」の教訓に沿った思想です。

 「ナチズム」が民主主義の中から発生してしまった歴史を直視し、熟考した結果の思想なのです。

 これは、寛容を重視する伝統的リベラリズムにおいて、「人はすべての場合に寛容であるべきという必要はなく、不寛容な者には不寛容であるべき」という例外的処置が肯定されていることとも対応しています。

 

 しかし、「民主主義」の具体的内容は、一義的に決められるものではありません。

 歴史的に見て、国、宗教、民族等により、多様な内容を含んでいます。

 現在でも、民主主義の具体的内容として統一的な見解が得られているわけではありません。

 

 民主主義の内容・定義のこうした多様性を無視して、特定の思想を「ナチズム」として排除することは、場合によっては、権力者によって濫用され、「表現の自由」(→自由主義の根幹であり、民主主義の前提)が侵害されるおそれがあります。

 つまり、「ナチズム的」という、極めて曖昧なレッテルを貼れば、容易に「表現の自由」を制限することが可能になります。

 

 さらに、特定の価値に優劣はなく、また、優劣をつけるべきではないという、価値相対主義的な立場からも、「戦う民主主義」の思想には、異議が唱えられています。

 これらの点から、「戦う民主主義」の思想を採用している国は多くはありません。

 

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

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