現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

予想問題/『思いつきで世界は進む』橋本治 (ちくま新書)

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 2019年1月29日、作家の橋本治氏が、惜しまれつつ、死去しました。

 70歳でした。

 橋本治氏は、慈愛と反骨、スジ重視の著作者です。

 だから、読者も多かったのでしょう。

 

 橋本治氏は、入試頻出著者でもあります。

 最近では、橋本治氏の著作は、京大、愛媛大、立教大、南山大、明治学院大、二松学舎大、文教大等で出題されています。

 橋本氏の現代文明論、現代文明批判、特に、日本人論、日本社会論は、どれも切り口が巧みで、本質を深く、分かりやすく説明しています。

 だからこそ、入試頻出著者になっているのでしょう。

 

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、橋本氏の最後の著書『思いつきで世界は進む』を、橋本氏の他の著書も参照しつつ解説していきます。

 今回の記事は、「橋本治追悼特集」の第3回です。

 前回、前々回の記事も参考にして下さい。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 今回の記事の項目は以下の通りです。

 記事は約1万5千字です。

 

(2)橋本治氏の「使命感」

(3)橋本氏の「疲労」について

(4)橋本氏の嘆き、疑問、怒り

(5)AI のマイナス面・危険性

(6)「不幸な子供」としての「バカ」/自己承認欲求と平等地獄

(7)なぜ、「バカ」は「下品」なのか?/「自己主張」の意味、あり方

(8)「日本人のバカ」と「反知性主義」の関係/むしろ無思考

(9)無思考の帰結①/日本における「自己」・「個性」についての誤解

(10)無思考の帰結②/「老成」を忌避する現代日本社会の問題点

(11)対策論/「思考」/「公共」に対する「自己」の「働きかけ」

 

 

思いつきで世界は進む (ちくま新書)

思いつきで世界は進む (ちくま新書)

 

 

 

(2)橋本治氏の「使命感」

 

 橋本治氏は「啓蒙」というより、論理的な「自分の気付き」、感覚的な「自分の気付き」を他者に広めることに使命感を抱いていたようです。

 他者の人間的な存続のために。

 そして、日本、東京、故郷、自分の思い出、友、そして、自分の存続を保持するために、我が身を削り、橋本氏は奮闘したのでした。

 私は、そのような橋本治氏の姿に、津波襲来を知らせる「『稲むらの火』の物語」を感じています。

 「『稲むらの火』の物語」とは、一人の老人が地震後、津波が襲ってくると予感し、収穫後の稲むら(→当ブログによる「注」→「稲むら」{稲叢)は刈り取った稲を積み上げたもの)に火を放ち、多くの人々を救った物語です。

 1854年(安政元年)12月23日、安政の東海地震が発生し、その32時間後に襲った安政の南海地震の時の話です。

 

 橋本氏は、天性の鋭敏なセンサーを持ち、嫌なものを、はっきり嫌と言って、私達に、現代や近未来の危機を知らせてくれたのです。

 橋本氏は、自分が、不安を呼び起こすものを誰よりも、いち早く察知する「鋭敏なセンサー」を持っていることを、自覚していました。

 その才能を世のために生かすことについて、強い使命感を抱いていたのでしょう。

 この点について、橋本氏は、『たとえ世界が終わっても』の中で以下のように述べています。

 

 「 私は個人的には、「世界が終わってもかまわない」と思ってはいます。なにしろ、私の残りの人生は「どうでもいい消化試合」ですから。でも、そのまんまにしておくことはいかにも無責任です(私が誰に対して責任を感じているのかは分かりませんが)。だから私は、この本に『たとえ世界が終わっても』というタイトルをつけました。「終わっても、まだ未来はある」という意味です。

(『たとえ世界が終わっても その先の日本を生きる君たちへ』橋本治)

 

 

たとえ世界が終わっても その先の日本を生きる君たちへ (集英社新書)

たとえ世界が終わっても その先の日本を生きる君たちへ (集英社新書)

 

 

 

 また、次の発言(『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』橋本治・第一回小林秀雄賞受賞インタビュー』)にも、橋本氏の「覚悟」が感じられます。

 

「  私は賞をもらうのは「小林秀雄賞」を最後にしたいですよ。賞をもらうというのは、責任を背負うということですから。小林秀雄というのはそれを人に要求するような名前なんだと思う。私と小林秀雄がなんか関係があるとは思っていなかったけど、突然やって来られると、「小林秀雄がして来たことをある部分で受け継ぐという責任があなたにはあります」と言われたようなもんでしょう。なんか、明日の日本を創る人材をつくるために、働きなさいって言われているような気がしないでもないですね。(笑)

(『第一回小林秀雄賞受賞インタビュー 橋本治』)

 

 上記の発言は、「小林秀雄賞」の意味を理解し、「明日の人材を創るために執筆すること」を宣言しているようです。

 

 また、次の、「時代の終わり」と「人の死」の関係についての記述は、重層的な味わいがあります。

 「死」の考察と共に、橋本氏の「覚悟」が、何となく感じられるのです。

 かなり深い内容を含んでいると思います。

 私は、立ち止まりつつ、何度も精読してしまいました。

 重要な部分を抜粋して引用します。

 

「  多分、人はどこかで自分が生きている時代と一体化している。だから、昭和の終わり頃に、実に多くの著名人が死んで行ったことを思い出す。

 昭和天皇崩御の一九八九年、矢継ぎ早とでも言いたいような具合に、大物の著名人が死んで行った。一部だが、天皇崩御の一月後に手塚治虫が死に、翌月には東急の五島昇、翌月には色川武大、松下幸之助、五月には春日一幸、阿部昭、六月になって美空ひばり、二世尾上松緑、七月は辰巳柳太郎、森敦、八月に矢内原伊作、古関裕而、九月は谷川徹三、一月おいて十一月が松田優作、十二月が開高健。今となっては「誰、この人?」と言われそうな人も多いが、死んだ時は「え?! あの人も死んだの?」と言われるような大物達だった。

 昭和天皇の享年は八十七で、当時としては(そして今でも多分)高齢だった。しかしだからと言って、昭和という時代の終わりと共に世を去った人達がすべて高齢だったというわけではない。手塚治虫は六十歳、美空ひばりは五十二歳で死に、松田優作は四十歳だった。当時は「早過ぎる死」のように思われた。しかし、今になって引いて見れば、この人達は自分の仕事をやり遂げて死んだのだ。

 やり遂げて、その年齢で死んだ。時代を担い、五十代六十代で死んで行った昭和の人達を思うと、その死がなんだか潔く思える。

(「人が死ぬこと」『思いつきで世界は進む』橋本治)

 

特に、

「  昭和という時代の終わりと共に世を去った人達がすべて高齢だったというわけではない。手塚治虫は六十歳、美空ひばりは五十二歳で死に、松田優作は四十歳だった。当時は「早過ぎる死」のように思われた。しかし、今になって引いて見れば、この人達は自分の仕事をやり遂げて死んだのだ。

 やり遂げて、その年齢で死んだ。時代を担い、五十代六十代で死んで行った昭和の人達を思うと、その死がなんだか潔く思える

の部分を、橋本氏の「死」に重ね合わせて読むと、胸に迫るものがあります。

 まるで、自分の「疾走してきた人生」を語っているようにも思えるのです。  

 「自分の人生」、「自分の死」の総括のような記述にも読めるのです。
 

 

 
(3)橋本氏の「疲労」について


 
 橋本氏は、恒常的に、かなり疲れていたのでしょう。 

 今から考えてみると、痛ましい内容の文章を、さらっと書いています。

 2015年に出版された『いつまでも若いと思うなよ』には、以下のような記述があります。

 

「  他人の葬式に行って、棺の中に横たわっている仏様を見ていつも思う。「ああ、もう頑張らなくていいんだなァ」と。「死ぬとゆっくりと出来る」と私は思っているから、安らかに眠っている仏様を見ると「羨ましいな」と思う。

「  七十歳と言えば「古稀」の年で、「人生七十、古来稀れ」なんだから、人間の寿命が七十であってもいいんじゃないかという気がする。

「この人生は仕事だけということにして、死んで生まれ変わったら遊んでいるということにしよう」と思った。

(『いつまでも若いと思うなよ』橋本治)

 

 

いつまでも若いと思うなよ (新潮新書)

いつまでも若いと思うなよ (新潮新書)

 

 

 

  『いつまでも若いと思うなよ』が出版された2015年には、橋本氏は60代後半でした。

 橋本氏は、この頃から、「死」を強く意識していたのでしょうか。

 この頃の橋本氏の心中を思うと、橋本氏の覚悟、悲しみ、諦念が想像され、心が熱くなります。

 それゆえに、私達は、橋本氏の思いを無断にしないために、彼の著作を何度も読み返すべきなのでしょう。 

 

 

(4)橋本氏の嘆き、疑問、怒り


 『思いつきで世界は進む』の中には、橋本治氏が、癌になった自分の現状、人生を嘆くだけではなく、「他者」、「世の中」を心配している記述があります。

 自己が危機に陥っているのに、なお、他者のことを考えようとする、橋本氏の独特の「人のよさ」が感じられ、不思議に、しみじみとした味わいになっています。

 以下に一部を引用します。

 

「  その初めに「癌です」と言われた時、「あ、そうですか」ですませてしまった私は、癌なる病を他人事と思っている。

 しかし、癌はもう他人事ではない。今年の三月、私の友人でエージェントをしていた男が癌で死んだ。その前年の三月にもまた一人。樹木希林も加藤剛も癌で死んだ。癌はいやらしいほど静かに近付いている。今や日本人の半分が癌で死ぬともいう。なぜ癌はそんなにも近づいて来るようになったのか?

 京大の本庶佑先生がノーベル医学生理学賞を受賞された。癌の治療薬オプジーボにつながる、免疫細胞の中にある癌細胞を攻撃する仕組を解明されたのだという。それはいい。それはいいが、「癌を治す」という方向にばかり進んで、「人はなぜ癌になるか」がほとんど解明されていない。

 癌は感染症じゃない(はずだ)。それなのに、癌患者がどんどん増えて行くのはなぜなんだろう? 我々の生きている空気や環境の中に発癌性物質が増えてでもいるのか? あるいは食物に。なってからでは遅い─というか早期発見もあるが、なぜなるのか分からないと防ぎようがない。

(「なぜこんなに癌になる?」『思いつきで世界は進む』橋本治)

 

「  癌は感染症じゃない(はずだ)。それなのに、癌患者がどんどん増えて行くのはなぜなんだろう? 我々の生きている空気や環境の中に発癌性物質が増えてでもいるのか? あるいは食物に

の部分は、私達に対する警告になっています。

 私達は、各人が「癌」を強く意識して、「空気」、「環境」、「食物」に、さらに警戒をするべきなのでしょう。

 

(5)AI のマイナス面・危険性

 
 橋本治氏は、一般的にはプラス面しかない現象にも、「致命的なマイナス面」を嗅ぎわける特異な能力を備えていました。

 そして、大きなマイナス面がある以上は、その現象を断固として拒絶し、糾弾する強い意志を表明するのでした。

 小気味のよい、その態度に私は、いつも感銘を受けていました。

 大人の事情、他者の思惑、目先の計算、常識を無視した潔さは爽やかで、読んでいて、心が晴れ晴れとしていくのです。

 『思いつきで世界は進む』の中の、次の一節は、その一例です。
 

 「 子供達が人間関係を持てなくなって、人間との関係そのものが分からなくなったら、とんでもないことになると思うのだが、発展したい「経済」の方はそう考えないらしい。「AIを導入すれば、煩わしい人間関係を省略した便利な生活が手に入る(だから我が社の経済活動に利用者として参加して下さい)」と言っているような気がする。「一つの便利を手に入れれば、その分人間はなんらかの能力を失う」と私は思っているから、「これは便利」のアピールに対して懐疑的だ。

「呼べば応えてなんでもやってくれるAI」に慣れてしまえば―そういう育ち方をすれば、「言ってもなにもしてくれない!」という不満を他人に対して持つ人間も出て来るだろう。そのてのわがまま人間は、AI以前にもういくらでもいるが、AIが普及するとその内に、「あのね、人間は機械じゃないからね、ただ命令しても言うことなんか聞いてくれないの」という教育をしなけりゃならなくなるのかもしれない。

「あれ? これどう動くんだろう?」と思って、オモチャや機械を分解してしまう子供は普通にいるが、「人を殺してみたい」というのも、もしかしたらその流れの中にあるのではないか? そう考えると、「他人に対する関心の妙な希薄さ」というのも分かるような気がする。

(「人間は機械じゃない、機械は人間じゃない」『思いつきで世界は進む』橋本治)

 

 AIは、現代においては、その利便性を高く評価されている科学技術です。

 ある意味で、崇拝の対象にさえ、なっているとも言えます。
 
 その一方で、橋本氏は、「殺人事件の動機」の主な背景にAIを考えているのです。

 世間の評価に惑わされず、AIの背後に潜む重大な危険性を察知する観察眼に、私は感服します。
 
 

 また、現代日本の「宅配ブーム」を徹底的に糾弾する次の論考も、痛快です。

 宅配ブームの影の、現場の労働者の過酷な実態を我事のように考えて、無神経な利用者に反省を促しているのです。 

 バカな利用者は、反省をしないでしょうが。

 一部の「心ある利用者」に向けての記述なのでしょう。

 

「  少し前、「配達先の不在に怒った宅配便の運転手が、届ける荷物を蹴飛ばしている」というニュース映像が流れた時、「よく分かる、俺だってそうなったら、怒って荷物を蹴飛ばしている」と、運転免許を持っていなくて宅配便のトラック運転手になんかなれるはずのない私は、思った。

 自分で勝手に「届けろ」と注文をしておいて、届いた時には留守にしていて、当然のように再配達が要求されて、それが一度ならず二度三度と繰り返される。同じ人間のところへ同じ荷物を持って何度も行って、そのたんびに不在だったら、「この野郎、ぶっ殺してやろうか」になっても不思議はない。私だったらぶち切れちゃう。だから私は、自分から宅配便を頼むということをしない。

 ネット通販の最大の誤解は、「電波が荷物を運んで来る」と思い込まれていることだ。

 電波は物なんか運べないの。あんたが、「ここのどら焼きおいしそうだから」という理由で遠隔地の店に「お取り寄せ」をすると、それを運ぶために、人間が実際に動くの。あんたが外でボーッとしてれば、物を運ぶ人間は何度も何度も動くの。「この服いらないから誰かに売っちゃお」っていうんで「フリマ」なるアプリを使えば、そこでまた実際に人が動くの。どれだけの数の人間が、「便利」という名の無駄な行為のために動かされるんだろうか?「お前のどら焼き」や「蟹の脚」を運ぶために、どれだけ有為の人間が宅配ドライバーとして働かされなきゃいけないのだろうか? 「人が足りなきゃドローンで運ぶ未来もある」なんて寝ぼけたことを言っているが、「空を見上げるとドローンの大群が―」という恐ろしい未来なんか見たくない。それよりも自制しろよ。

(「電波で荷物は運べない」『思いつきで世界は進む』橋本治)
 

「  自分で勝手に「届けろ」と注文をしておいて、届いた時には留守にしていて、当然のように再配達が要求されて、それが一度ならず二度三度と繰り返される。同じ人間のところへ同じ荷物を持って何度も行って、そのたんびに不在だったら、「この野郎、ぶっ殺してやろうか」になっても不思議はない。

の部分は、説得力のある一節です。

 悪いのは、バカな利用者です。

 

 また、最後の

「人が足りなきゃドローンで運ぶ未来もある」なんて寝ぼけたことを言っているが、「空を見上げるとドローンの大群が―」という恐ろしい未来なんか見たくない。

の部分は、非現実的な未来予測、あるいは、気味の悪い未来予測に対するコメントでしょうか?

 確かに、考えたくない「未来予測」です。
 

 

 (6)「不幸な子供」としての「バカ」/自己承認欲求と平等地獄


 
 「バカ」の中には、「不幸な子供」としての「バカ」が多いようです。

 いつまでも大人になりきれない、子供のままの成人達。

 中年になっても子供のままでいられるというのは、日本が平和な証拠です。

 しかし、子供のままのオジサン、オバサンというのは、痛ましい、哀れな存在です。   
 「愚か」を絵に描いたようなものです。

 本人達は、その惨めさに気付かないのでしょうか? 

 

 そして、「自己承認欲求」という、バカバカしい幼児臭の強い、自己意識にまみれた用語。

 それに、平等思想の曲解が付加されて、現代は、世界的に「自己承認欲求」というバケモノが闊歩する時代のようです。

 世界的な幼児化現象です。

 反知性主義が世界を覆っているのです。
 

 橋本氏も、このような現象に、うんざりしているようです。 

 以下に橋本氏の見解を引用します。

 

 「 この半年くらい、気がつくと「自己承認欲求」という言葉をよく聞いていた。どうでもいい写真の類をSNSに上げるのは自己承認欲求だ、とか。分かりそうなものだが、よく考えると分からない。どうしてそれが「下らない自己主張」ではなくて、「自己承認欲求」なんだ? と考えて、「自己主張ならその受け手はなくともいいが、自己承認欲求だと受け手はいるな」と気がついた。相手がいなくても勝手に出来るのが自己主張だが、自分を認めてくれる相手を必要とするのが自己承認欲求で、そう思うと「なんでそんな図々しいこと考えるんだ?」と思う。

 世の中って、そんなに人のことを認めてなんかくれないよ。「あ、俺のこと認めてくれる人なんかいないんだ」と気がついたのは、もう三十年以上前のことだけど、気がついて、「認められようとられまいと、自分なりの人生を構築してくしかないな」と思って、「人生ってそんなもんだな」と思った。取っかかりがない、風の吹く広野を一人行くとか。そう思ってしまうと、自己承認欲求というのは、不幸な子供が求めるもので、大人が求めるようなものではないと思うのだが、今や大人は、みんな「不幸な子供」なんだろうか?

 そうかもしれない。「自分はもう一人前の大人なんだ」という明確な自覚を持てなかったら、それはもう「不幸な子供」になってしまうだろう。

 自己承認欲求というのは、今や当たり前のように広がっているらしい。ということは、「自分はその存在を誰かから認められていいはずだ」という願望を持つ人が当たり前に存在しているということで、しかもその「認められていいはずだ」で提出するものが、どうってことのないものだったりする。つまるところ、誰もが皆、「私は認められてしかるべきだ」と思う根拠を勝手に持っているということで、人間の平等はそのような形で達成されちゃったらしい。

 ということになると、ここからが難問で、みんなが「私も認められたい」状況になってしまった時、誰がその承認欲求を満たしてくれるんだろうか? 芥川龍之介の昔なら、その下が地獄の底とつながっている極楽の蓮池のふちをぶらぶらとお歩きになるお釈迦様もいて、「あの者をこのままにしておくのは可哀想だから」と思し召されて蜘蛛の糸を下ろされたりもしようけれど、みんなが平等になっちゃうと、蓮池越しに下を覗き込むお釈迦様のような特別な人もいなくなってしまう。

 他人を認められるだけの特別な立場を持つ人がいなくなっているにもかかわらず、「誰かに、誰にでも、認められたい」という欲求を持ってしまったら、その時から「誰でも自由に希望を口に出来る平等」は、「自己承認欲求のさざ波が立つ平等の血の池地獄」に変わってしまうが、どうするんだろう? と考えた。

(中略)

「これからどうするんだろう?」ということもあるが、よく考えれば、自己承認欲求というのは、平和がもたらした贅沢な産物だ。

(「自己承認欲求と平等地獄」『思いつきで世界は進む』橋本治)

 

 上記の「不幸病」は、どう見ても、反知性主義の成れの果ての、低レベルな現象でしょう。

 「不幸病」、つまり、「不幸な子供」から脱却するためには、「自己の価値観」を確立する必要がある、と以下のように、橋本氏は述べています。

 

「  「幸福」とは、余分なことを考えなくてもすむ状態です。

 他人のモノサシではなく、自分のあり方を割り出して行くのが、「自分はあんまり幸福じゃない病」 を治す道だと思います。

(『かけこみ人生相談』橋本治)

 

 他者の評価、価値観に捕らわれるから、自分は「不幸」であると考えるのでしょう。

 他者を過剰に意識することが問題なのです。

 まずは、自立することです。

 自己の価値観を確立して、それを信じることが必要なのでしょう。

 この点について、橋本氏は、以下のように述べています。

 

「  幸福は待っていてもなかなか棚から落ちては来ません。たとえ落ちてきて幸福なときがあったとしても、それは「まぐれ」で、再び幸福を味わうには訓練が要ります。

 ただ、自分で幸福の欠落を知るためには、自分の好む人間関係とは独立して自由な考えを持つこと、つまり、"孤独"を知る必要が出てきます。

 "孤独"を知る作業は、自分の過去を振り返り、評価、対象化することでわかりますが、そこにも幸福でない自分を見てしまいます。ここで安直に自分を肯定してしまうと、幸福にならなくても良い、孤独のままでいいと考えてしまう場合があります。これが「自己対象化の罠」です。

 ただ「孤独」とは「要請された自立」の別名で、自立をあまり意識しないから自己対象化の罠に嵌るのです。対象化した自分とは別の自分、現在の自分がいて、その自分は対象化した自分に甘んずることなく、何をすべきか判断出来る状態のことを自立と言うのです。

(『人はなぜ「美しい」がわかるのか』橋本治)

 ところで、「自己承認欲求」という「流行病」は、日本においては学者にまで蔓延しているようです。

 この点について、橋本氏は、『蓮と刀——どうして男は“男”をこわがるのか?』の中で、興味深い指摘をしているので、以下に引用します。

 

「  ヘンなもんに手を出したらヘンな目で見られる。だから、やらない。ヘンなもんに手を出せても、それを発表すれば確実にヘンな目で見られることが分ってる。だから、やんない。ヘンな目で見られたって構わないと思って発表したとしたって、そんなヘンなこと公けにしたのはその人が最初だから、誰にもそれを認めては貰えない。そんな無駄なことやったってしようがないと思っているだろう、日本の学者は。

 日々の生活とか世間付き合いとか、日本の先生達にも、色々事情はあるのだろう。エライ先生に睨まれると、日本では、ちょっと、生きて行きにくくなるから。

 でも、俺不思議なんだ。どうして日本の先生は、“認めてもらおう”って思うんだろう? 自分が最初なのだったら、認めてもらえる訳なんかない——“分ってもらえる”ってことはあっても。

 でも、日本の先生は、やっぱりそういうことはやらない。「俺はエライんだから分れ!」と押しつけることはあっても。“討論の結果、ここはこう修正いたしました”ということもあまりない。日本の学界は、あまり新しい説が出て来ることは期待してない。自力で“真実”探して来て、自分が真理の開祖になれるかもしれない、そういう気は、日本の学者には、ない。新しいことは、みんな、クロフネに乗って海の向うから来るとでも、相変わらず思っているのか?

(『蓮と刀——どうして男は“男”をこわがるのか?』橋本治)


 日本においては、学者の世界にまで、自己承認欲求というバカな流行病が広まっているのかと思うと、溜め息が出てきます。

 日本の集団主義崇拝の、悲しき一側面なのでしょうか。

 

 

(7)なぜ、「バカ」は「下品」なのか?/「自己主張」の意味

 

 橋本氏は『知性の顚覆』の中でも、日本人の自己主張のバカバカしさを、皮肉たっぷりに述べています。

 そして、強い自己主張が、なぜ下品なのか、について丁寧に説明しています。

 この橋本氏の見解は、現代文、小論文の入試頻出論点である「現代文明批判」、「日本人論」として、秀逸な内容になっていると思います。

 以下に引用します。

 

「  誰にでも「自己主張」だっだり「自己表明」が出来る。

 誰もがみんな自己主張をしたいーー「黙っていると自分が埋もれてしまう」ーーと思っているからなんだろうが、私はやっぱり自己主張というものの本来を、「社会の秩序を乱す不良のするもの」だと思っているので、いつそんなものが当たり前に広がってしまったのだろうと考えてもいる。考え方としては、「社会の持っていた強制力が落ちたか、あるいはなくなったから、自己主張の仕放題」ということになるのだろう。

 どうして「自分の自己」を主張したがる人が、「それぞれの違い」ではなくて、「みんなとおんなじ」を強調したがるのかという不思議である。そして、もしかしたら、それは不思議ではない。どうしてかというと、不良はあまり単独で存在しないからだ。

「欲望を包む皮」は薄い方がいいということにもなるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸分かりになる。「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。」

 「未熟」というものを野放しにしてしまえば、下品にしかならない。これは、身分制社会のあり方とは関係ない、社会的ソフィスティケイション(→(「知的に洗練された」、「優雅」、「高尚」という意味)の問題である。

(「第五章 なぜ下品になったのか」『知性の顚覆』橋本治)

 

「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう

の部分は、特に鋭い指摘です。

 大人が、あまりに強い自己主張をしていると、なぜ下品になるのか、バカに見えるのか、についての疑問が、この一節により氷解するのです。

 現代は、「欲望丸出しバカの大群」が、あちらこちらに点在している時代です。

 バカを嫌う人は、その醜悪な状況を避けるためもあって、群衆自体に近付かないようですが、橋本氏も同様の感性を持っているようです。

 

 

知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造 (朝日新書)

知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造 (朝日新書)

 

 

 

 この点に関連して、『思いつきで世界は進む』の中で、私が強く共感した一節を以下に引用します。

 

「  実はもう何年も前から思っていたことがある。NHKの天気予報で特徴的なのだが、「今この地では某の花が咲きました」という季節のトピック映像で、必ずと言っていいほど、カメラを持って咲く花に迫る中高年の男の姿が映る――しかもアップで。「映すんなら花映せよ」と思うが、それを邪魔するように中高年が出て来る。アマチュアカメラマンがきれいな季節の花を撮ってたっていいけど、そのことを季節のニュースに映し出す必要ってあるか? 「きれいな花より、カメラを構える中高年のオッサン」になると、それは中高年の男達に「皆さん、カメラを持って出て来て下さい」とアピールしているようにも思えてしまうが、それ必要?

 中高年のオッサンじゃなくて、オバサンならいいのか、若い女ならいいのかという、カメラを構えている側の見てくれの問題ではなくて、「写真を撮る」という行為が「被写体となるものを我が物とする」というような欲望丸出しの行為だから、やなの。「そんなもん、見せなくたっていいじゃないか」と、ニュースを流す方に対して思う。多分、それが「欲望を丸出しにする行為」だと思われていないからそういうことになるんだろう。

 食べ物屋で、女が出された食べ物にカメラのレンズを向けているのを見たら、昔は「変わったことをする女だな」くらいにしか思わなかったが、今はそれを見た瞬間、「これと同じことをしている女が怒濤のようにいるんだ」と思って怖気立つ。一つのどうということのない行動を多くの人が同時にやっているのを見て、うっかりとその人達の欲望を感じ取ってしまうと、そこに「収拾のつかなさ」が見えて落ち着かなくなるというか、不安になる。

    大量の人間が集まっていて、欲望が丸出しで、でもそれがなんの「物語」も持たずにそれっきりというのは、不気味でこわい。「人が行列している」と聞くと、もうそれだけで近寄りたくない。

(「度を過ぎた量はこわい」『思いつきで世界は進む』橋本治)

 

 私も、「カメラバカ」や「行列」を見ただけで、ぞっとします。

 特に、行列という、「むき出しの欲望」が従順に整列している状況は、どう考えても不気味です。


 最近は、マスコミが、「欲望丸出しのバカの大群」を、「優良な消費者」として、画像に積極的に取りあげることが多いようです。

 従って、たまにテレビを見る時には、常にリモコンを持ち、チャンネル切り替えの態勢を維持するようにしています。

 


 
(8)「日本人のバカ」と「反知性主義」の関係/むしろ無思考


 日本人の「バカ」の原因として、「徹底した思考を面倒臭がる国民性」が関係しているようです。

 橋本氏は『思いつきで世界は進む』の中で、以下のように、日本のマスコミの報道の仕方から、「日本人の思考を面倒臭がる国民性」を考察しようとしています。

 マスコミは、それ自体は、民間企業なので自己の存立のために、消費者の性向に寄り添う必要があるからです。

 

「  あまり言われないことだけれども、「自分の考えを言え」と言われた時に、かなりの数の日本人は「自分の考え」をまとめる以前に、「みんなどういう風に言うんだろう? どう言っとけば間違いがないんだろう?」という正解探しをして、「自分はちゃんと空気が読めている人間だ」という自己表明をしているように思う。

 日本の新聞がはっきりした物言いをしなくて、「ここら辺が公正中立の着地ポイントだろう」という判断で記事を書いていて、それが外の国での「言論の自由」とはズレているにしろ、国民に「この内閣の提出するこの法案にはこういう問題点がある」ということをきちんと説明し始めたら、読者の多くは面倒臭がるんじゃないのかと思う。今のメディアの最大の問題というか困難は、「受け手に関心を持たれないようなことをやって、逃げられたらどうしよう? 経営の危機だしな」というところにあるように思う。

 時々新聞を見て「なんでこんなどうでもいいようなページがあるんだろう?」とは思うけれども、読者に「少しは考えて下さい」と訴えるような紙面が続くと、読者はいやがるのかな、とは思う。寄附を募るような善意のニュースになら反応しても、「じゃ、自分はどうすればいいのか?」を考えさせるようなものだと、「どう考えればいいのか」ではなくて、「どうすればいいのか」という具体的行動が発見出来なくて、「めんどくさいから知らない」になってしまうのではないだろうか? 新聞に限らず、ニュースというものが「今日はこういうことがありました」で収まってしまう、予定調和的な「情報提供」になりつつあるような気はする。

(「世界で七十二番目」『思いつきで世界は進む』橋本治)

 

 事実を、ただ差し出すだけの、マスコミによる「予定調和的な『情報提供』」が、日本人を、ますます無思考状態にしていくのでしょう。

 羊的ロボットにならないためには、マスコミの情報提供に注意する必要がありそうです。

 橋本氏は、かつて、「無思考」、つまり思考が面倒な理由について、以下のように述べていました。

 説得力のある説明だと思います。

 

「   “答”というものは、いつも「これが答ですよ」という、親切な顔をしているわけではない。“答”というものは、時として、「これが答だけど、お前には分かるまい」という顔をして、そこら辺に転がっていることもある。答を答として理解するためには、ある程度の準備・成長が必要なんだということも、理解しておくように。

「  今、“ものを考える”ということがすごくややこしいのは、「既に出来上がってしまっている価値観を疑うこと」と、「では、ホントはどうなんだ?」と考えることと、この二つを一遍にやらなくてはいけないということがあり、しかもその上に、『あんまり大したものには見えないものが、実はすごく重要な意味を持っているもの』という、“草むらの伏兵”の発見問題もあるからだ。

(『貧乏は正しい!』橋本治)

 

 

貧乏は正しい! (小学館文庫)

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(9)無思考の帰結①/日本における「自己」・「個性」についての誤解

 

 「無思考」のうえに、集団中心主義、組織中心主義の中に安住している日本人は、「個」や「自己」について、かなり誤解しているようです。

 最近の学校教育、日本社会においても、「個性」についての誤解は著しいようです。

 橋本氏は、それらの誤解を以下のように批判しています。

 

「  学校教育を成り立たせる社会の方は、十分に豊かになっていた。「我々は十分”平均的に豊か”になっているから、もう我々の成員たちに個性の享受を認めてもいいだろう」ということになる。かくして、「個性の尊重」や「個性を伸ばす教育」が公然となるのだが、この「個性」が誤解に基づいていることは、もう分かるだろう。この「個性」は、「一般的なものが達成されたのだから、その先で個性は花開く」という誤解に基づいたものである。「個性」とは、「一般的なものが達成されず、その以前に破綻したところから生まれるもの」なのである。

 個性はそもそも「傷」である。しかし、日本社会が持ち上げたがる「個性」は、「傷」ではない。一般性が達成された先にある、表面上の「差異」である。だから、若い男女は「個性」を求めて、差異化競争に突進する。その結果、「雑然たる無個性の群れ」になる。無個性になっていながら、しかし「没個性」は目指さない。目指さないのは、彼や彼女の根本に「傷」がないからである。

(『いま私たちが考えるべきこと』 橋本治)

 

いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)

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(10)無思考の帰結②/「老成」を忌避する現代日本社会の問題点

 

 現代日本は「老成」を忌避し、「大人になりきれない大人」が激増しています。

『いつまでも若いと思うなよ』において、橋本氏は、「作家として自分の腕前を上げるためには、年を取らなくてはいけない」と述べています。

 一方で、公務員・サラリーマン等の一定の身分保障のある雇用労働者になると、「年を取ったらだめだ」という考え方になりやすい。組織に適応するため、「人生観・本質論と関連する、面倒臭いが、重要な事柄」を考えない体質になりやすいとしています。

 

 現代日本においては、サラリーマンが多数派になっているために、「老成」を忌避する人が増えているのでしょう。

 高齢化社会になっても、日本では、人間の生き方を考える場合にベースになるのは「若さ」です。

 

 明らかに、ヨーロッパ文化ではなく、アメリカ文化の影響もあります。

 「高齢者」、ひいては、「過去」、「昔」、「伝統」は、マイナスのニュアンスが強くなっているのです。

 これは、確実にやってくる「未来の自己」を前もって否定することに繋がるのですが、愚かな日本人達は、そのことに気付かないのでしょう。

 いつまでも子供でいられる日本社会の背景について、橋本氏は以下のように述べています。

 

「  町へ出れば、テキトーな値段でテキトーなものが食べられるということが当たり前になれば、「生きる」ということに対して備えなくなる。私はこれがとても由々しいことだと思う。

(『いつまでも若いと思うなよ』橋本治)

 

 そして、「伝統」を軽視している今の日本について、以下のように述べています。

 

「  温故知新じゃないけど、昔のものの中から何か引き出してくる能力というものを失ってしまうとなんにもなくなってしまうよ、というのが私のいまの日本に対する危機感です。

(『TALK 橋本治対談集』橋本治)

 

 

 (11)対策論/「思考」/「公共」に対する「自己」の「働きかけ」

 橋本氏は、「バカ」から脱却するための「思考の重要性」を様々な著書で、強調しています。

 この点については、橋本氏に関する前回、前々回の記事も参照してください。

 

「答え」とは、すべて「自分と他人とで作り上げるもの」だからである。だからこそ、人間の思考は「自分→他人→自分」と回る、メビウスの輪的グルグル状況を当然とするのである。

 今、私たちの考えるべきことは、「必要に応じて"私たち"を成り立たせるだけの思考力と、思考の柔軟性をつけること」、このことに尽きるだろうと、私は思う。

(『いま私たちが考えるべきこと』橋本治)


 また、橋本氏は、「公共」に対する「自己」の「働きかけ」の必要性も強調しているのです。

 理想論ですが、他に手段はありません。

 

「  世界は広くて、いろんな事件が起こっている。でも、自分が生きなければならない現実の世界は案外狭くて、その責任は自分にかかっている。それを忘れちゃいけないでしょう。 

「  そんなに現実がいやだったら、自分が“いやだ”と思わないですむような現実を作るようにすればいいのに」と、私なんかは思う。

(『ひろい世界のかたすみで』橋本治)

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

   

 

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