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予想問題/「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 佐伯啓思氏は、入試頻出著者です。

 佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。

 

 佐伯氏は、最近、「現代文明批判」(現代文明論)」、「近代批判」、「死生観」、「日本人論」、「グローバル化」に関する「死を考えること 人に優しい社会への一歩」(《異論のススメ》『朝日新聞』2018年8月3日)を発表しました。

 この論考は2018年7月に出版した『死と生』に関連しています。

 

 「現代文明批判(現代文明論)」、「近代批判」、「死生観」、「日本人論」、「グローバル化」は入試頻出論点です。

 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、この論考を『死と生』や、佐伯氏の他の著作等を参照して解説します。

 

 記事は約1万字です。

 

 

死と生 (新潮新書)

死と生 (新潮新書)

 

 

 

(2)予想問題/「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思〈異論のススメ〉『朝日新聞』2018年8月3日

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

(問題文本文)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です) 

 

 この7月に私は『死と生』(新潮新書)という本を出版した。評論のようなエッセーのような内容であるが、ここで私なりの「死生観」を論じてみたかった。人口の減少と医療の進歩のおかげで、日本では高齢化がますます進展し、独居老人世帯も2025年には700万世帯になるとみられる。

 こういう現状のなかで、いやおうもなく、どこでどのように死ぬかという「死に方」にわれわれは直面せざるをえず、さらには「死とは何か」などということを考えざるをえなくなってきた。「死を考える」といえば、いかにも陰気で憂鬱でうんざりという感じであるが、別にそういうわけでもない。これほど人間の根源的な事実はなく、誰にもまったく平等にやってくる。そもそも死を厭(いと)い、面倒なものには蓋をしてきた今日の社会の風潮のほうが奇妙なのではなかろうか。

 人々の活動の自由をできる限り拡大し、富を無限に増大させるという、自由と成長を目指した近代社会は、確かに、死を表立って扱わない。死を論じるよりも成長戦略を論じるほうがはるかに意義深く見える。しかし、そうだろうか。かつてないほどの自由が実現され、経済がこれほどまでの物的な富を生み出し、しかも、誰もが大災害でいきなり死に直面させられる今日の社会では、成長戦略よりも「死の考察」のほうが、実は必要なのではなかろうか。

 

 

(当ブログによる解説)

 私たちは、高度情報社会、新自由主義社会の中で、雑事に追われ、「生と死の問題」に関心を持てなくなっているようです。

 およそ、「死」という哲学的問題に心を向ける精神的余裕がないのです。

 このことは、戦後の日本社会、近代の合理主義に問題があるようです。

 

 この問題に関して、佐伯氏は、『反・幸福論』の中で以下のように述べています。

「  考えてみれば、日本の伝統的な価値観は、決して個人の自由礼讃や富の称賛をしてきたわけではありません。それどころか、『個人の自由』や『経済的な富』に対しては随分と警戒的だったのです。その意味では、日本の価値観の根本には、近代主義とはどうしてもなじまないところがあります。戦後日本の価値とは対立しあう面があるのです。

 それに代わってわれわれがもともともっていたものは、独特の人生観であり、死生観であり、自然観だったのです。国民の価値とは、本来、人生観、死生観、自然観、それに歴史観によって組み立てられます。ところが、この人生観や死生観、自然観が戦後日本ではすっかり忘れさられてしまいました。

 自由や富はいくら積み上げても人生観や死生観の代わりにはならないのです。もっといえば、人生観や死生観や自然観を見失ったために、どれだけ自由を求めても、経済を成長させても、幸せ感がなかなか得られないのではないでしょうか。 

「  終末の迎え方、「死に方」は、知恵や努力やカネやコネで人為的に操作できるが、「死」そのものは、まったく人間を超えたものなのです。人は、「死」を前にして、まったく無力であり、ただ頭を垂れるほかない。ここでは、全ての人間の営みも文明も一気にすべての意味を失ってしまう。どれほど、人間が壮大な建造物を建て、富を築き上げても、「死」を目の前にしたら何の意味もない。

 近代人が理想とする「自由」も「幸福追求」もすべてが死を目の当たりにすると、色あせてしまう。あらゆる存在を無意味化してしまうという点で、「死」は「絶対的無意味」というしかありません。

(『反・幸福論』佐伯啓思)

 

 

反・幸福論 (新潮新書)

反・幸福論 (新潮新書)

 

 

 

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思)

 もっとも、いくら考えたとしても、「死とは何か」など答えのでるものではない。だから考えても意味がない、という側にも言い分はありそうにもみえる。しかし、私はそうは思わない。われわれが自分たちの生の意義を問おうとし、この現実社会の意味を問おうとすれば、いったんは、この現実の生から離れ、それから抜け出さねばならず、死を前提にして生を見直さねばならない。だから、死を考えることはまた、生を考えることでもあり、家族や社会のありかたを考えることでもある。つまり、自分なりの「死生観」を論じることである。

 

 

(当ブログによる解説)

 「死生観」は、「家族観」、「社会観」、「人生観」等に密接に関連しているのです。

 さらに言えば、「死生観」は、様々な「価値観」の根本です。

 「死生観の確立」こそが、人生の最大目標とも言いえるのでしょう。

 

 『死と生』(佐伯啓思)には、次のような記述があります。

 赤字部分に注目して、熟読してください。

「  死を論じるということは、実は生を論じることにもなるのです。

 人間は死すべき存在である、という命題はまた、人間は死を意識しつつ死へ向かって生きる、ということも意味し、これはまさに生き方を論じることでもあるのです。

 「死」と「生」は対の問題です。にもかかわらず、往々にして、「死」はただ「生」の切断であり、「生」を終わらせるものだ、と考えられがちです。

 そうではなく、「死」、正確には「死への意識」が「生」を支え充実させることもあるのです

「生も死も無意味だ」から出発して、その「無意味さ」こそが、自我への執着を否定したうえで、現実世界をそのまま自然に受け止めることを可能にするのです。

 われわれは、草木のように土から生まれ、また土に戻ってゆき、そしてまた別の命が芽を出す。すべての存在がこうした植物的な循環のなかにあることをそのまま受け止めるほかありません。とすれば、われわれは特に霊魂はあるのかないのか、あるいは来世はあるのかどうか、などということに悩まされる必要はない。

 確かに、生も死もどちらでもよい、などと達観することはできません。しかし、この達観に接近しようとしたのが日本的な死生観のひとつの大きな特徴だったのであり、それは現代のわれわれにも決して無縁ではないでしょう

 人間は死すべき存在である、という命題はまた、人間は死を意識しつつ死へ向かって生きる、ということを意味し、これはまさに生き方を論じることでもあるのです。

(『死と生』佐伯啓思)

 

【「死生学」について】

 「死生観」に関連して、「死生学」の解説をします。

 「死生学」(しせいがく)( 英 : thanatology)は、ギリシャ語の「タナトス」と、「学」ないしは「科学」を結びつけた学術用語です。

 「死についての科学」と定義することができます。

 死と死生観についての学問的研究のことです。

 「死生学」が対象とするのは、「人間の死」です。

 「死生学」の創始者の一人、アリエスによると、「人間は死者を埋葬する唯一の動物」です。

 埋葬儀礼は、ネアンデルタール人から始まり、歴史の流れの中で、人類は「死に対する態度=死生観」を構築してきました。

 「死生学」は、このような「死生観」を、哲学・医学・心理学・民俗学・文化人類学・宗教などの研究を通して分析、解明しようとしています。

 そして、その視点から、「死への準備教育」を模索している学際的学問です。

 「死生学」は、「尊厳死問題」、「医療告知」などを背景として、1970年代に一応の確立を遂げた新たな学問分野です。

 

 「死生学」は、死をタブー視し、死を非日常的なものとして、これを遠ざける現代社会に疑問を提示する、新たな学問領域です。

 つまり、「死に対して取るべき心構え」という観点から、「生の価値」を再認識しようという試みです。

 死を自分の将来の必然として見詰めることで、「自己の生」において真に大切なものを考察する営みを提唱するのです。

 

 また、「死生観」に関しては、「メメント・モリ」について理解しておくことも大切です。

 「メメント・モリ」は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。

 「死を想え」と訳されることもあります。

 

 「メメント・モリ」に関しては、京都学派の哲学者として著名な田辺元氏が、「死の哲学(死の弁証法)」と称される哲学を構築しました。

 その哲学の概要を提示した論文は「メメント モリ」です。

 田辺氏は、この論文の中で、現代を「死の時代」と規定しました。

 近代人が「生」の快楽や喜びを無反省に追求した結果、「生」を豊かにするための科学技術が、「生」を脅かすという矛盾的状況を招来し、現代人をニヒリズムに追い込んだ、というのです。

 田辺氏は、この悲惨な現状を打開するために、「メメント・モリ」の警句に立ち戻るべき」と主張しています。

 

 「メメント・モリ」については、古代ローマの哲学者、セネカの言葉も知っておくべきでしょう。

 以下に引用します。

「何かに忙殺されている人間は、忙殺されているうちに、稚拙な精神をもったまま、何の準備もなく、いきなり老年に襲われる。そこで、あわてて、この老人は、わずか数年の余命を乞い求め、空しい若作りで老いをごまかそうとする。しかし、それでも病気や衰弱がやってきて、死を思い知らされる。その時になり、怯えながら末期を迎え、自分の人生は愚かだったと後悔するのだ」

 

 上記は、「ゆるキャラ」やテーマパークに歓喜し、単なる運動会であるオリンピックを崇め、医者や栄養士の根拠不明な託宣の操り人形に成り下がった、現代の幼児的な日本人そのもの、の描写の感じがします。

 

 

 

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思)

 「死生観」は、ひろい意味での宗教意識と深くつながっている。なぜなら、多くの宗教意識は、この現実を超越した聖なるものを想定し、その聖なるものによって人々を結びつけ、また、この聖性によって、人々の現実の生に意味を与えるものだからである。

 そして、たいていの社会には、漠然としていても、何らかの宗教意識がある。イスラムはかなり明白であるが、アメリカはプロテスタント中心のいわば宗教大国であり、西欧では、かなり薄められたとはいえ、西欧文化のいわば母型としてキリスト教があるし、そもそも無宗教とは、多くの場合、意思的な無神論を意味する。それらが、ゆるやかに西欧人の死生観を形づくっている。

 では、今日の日本における宗教意識とは何なのだろうか。『NHK放送文化研究所』の調査(2008年)によると、「死後の世界を信じる」という人の割合は44%もあり、特に若者層では多い。しかも確実にこの割合は増えている。「祖先の霊的な力を信じる」人は47%ほどもいる。だがそれでは、このうちのどれくらいの人が、神道であれ、仏教であれ、その教義や教説を知っているのだろうか。 おそらくは、その内容はさして知らないが、何となく宗教への関心がある、ということであろう。

 明治の近代日本では、神道の国家化と反比例して仏教は排斥された。そして、戦後になると、すべて宗教の立場は著しく低落した。宗教は、近代社会の合理主義や科学主義、自由主義や民主主義とは正面から対立するとみなされた。そして、近代以前に人々が自然にもっていた死生観も失われていった。

 先日、オウム真理教の元幹部たちが死刑に処せられたが、もしも、われわれが、多少なりとも仏教の教説を知っておれば、この団体が若い人たちにこれほど大きな影響力をもつことはなかったのではないかと思う。また、前近代にあったような、神道的、あるいは仏教的な死生観がある程度共有されておれば、そもそもこのような団体が生まれたかも疑問に思う。もっとも過激な行動に駆り立てられた元幹部に高学歴のいわば合理的な科学に浸された人たちが多いというのは確かに考えさせられることなのである。戦後の宗教意識の排除が、逆に、秘教的なカルトへと安易に寄りかかる道を開いたとも思われる。

 仏教の教えの根底には、現世の欲望や我執を否定し、無我や無私へ向かい解脱を願うという志向がある。さとりを開くことによって生への執着や死の恐怖を克服しようとするところがある。これは、西洋のような絶対神をもってきて、神との契約の絶対性や神の教えの道徳的絶対性を説くやり方とはかなり異なっている。西洋では人は神に従属している。しかし、日本の宗教意識においては絶対的な神は存在しない。むしろ、清明心であれ、静寂であれ、無常観であれ、「無」へ向かう性向が見られることは間違いないであろう。

 


(当ブログによる解説)

 西洋と日本の「宗教意識」や「宗教観」の違いを知ることは、グローバル化における他者理解、自己理解のために、不可欠です。

 また、これらの違いを意識していないと、グローバル化、欧米化により、目に見えない悪影響を受けることになります。

 この点に関して、佐伯氏は、『学問の力』で以下のように述べています。

「   知識には、われわれが意識していないものがあって、人間は、無意織のなかでこそ、 寝たり歩いたりボーッとしたりしているなかでこそ、 考えているし、また感じているのです。 そこに感受性がでてきます。 物事を、特にそれと意識したり、 分析したりするのではなく、それ以前に、 ある種の感勧をもち、 ある印象をもち、 こころを動かされることです。 そして、感受性というのは文化のなかからしかでてこない。 また、文化というものは歴史観や宗教観のなかからしかでてきません。

 日本人の学術的な能力というものも、日本の文化と切り離せない。ということは、日本の歴史観や宗教観と切り離せないということです。 この歴史観や宗教観も、そうと意識してもち歩いているものではありません。 ほとんど無意識のうちにわれわれに刷り込まれているものであり、われわれの感受性の基盤となっているものです。

 もし、それを失ってしまったら、操り人形みたいな、腹話術のようなものになってしまう。(→現代の日本人のほとんどが、まさにグローバル化の「操り人形」になっているようです)機械的に外国人の言葉をただ日本語に翻訳しているようなものです。戦後、日本人の言語感覚は大変ひどくなってしまって、自分の実感というものが言葉で表せない。 そのことと、 感受性の問題は決して無関係ではないのです。

 面白いことに、 日本語には「こころが通じる」という言い方がありますが、 たぶん英語にはありません。 そもそも「こころ」という言葉が英語には翻訳しにくい。

 スピリットもマインドも少し違うし、 ソウルは近いのかもしれないけれど、 やはり違います。 強いていえば、 アダム・スミスがいうようなシンパシーに近いのかもしれません。

(『学問の力』佐伯啓思)

 

 上記に関連して佐伯氏は、『自由と民主主義はもうやめる』中で、現代のわが国における共通的な価値について考察し、戦後に喪失してしまった「日本的精神」を復活すことを主張しています。

 つまり、「日本的精神」を取り戻すことによってのみ、現代文明を覆うニヒリズムを克服することが可能になると述べています。

 この対策論については、以下で詳説します。

  

 

学問の力 (ちくま文庫)

学問の力 (ちくま文庫)

 

 

 

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思)

 私には、もしもこのような宗教意識が今日のわれわれにある程度共有されておれば、これほど騒々しく他人の非を責めたて、SNSで人を誹謗し、競争と成長で利益をえることばかりに関心を向ける社会にはならなかったのではないかと思われる。今年から学校では道徳が教科化されたのなら、ぜひとも、日本人の宗教意識や世界の宗教の簡単な解説ぐらいはすべきではなかろうか。

(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」佐伯啓思〈異論のススメ〉『朝日新聞』2018年8月3日)

 

 

(当ブログによる解説)

 佐伯氏の言うように、 「他者尊重」のために、学校の道徳の授業で「日本人の宗教意識」や「世界の宗教」を教えていくことは必要です。

 その際には、西田幾多郎の「無私の思想」の概要も教授するとよいでしょう。

 

 佐伯氏は、『西田幾多郎 無私の思想と日本人』の中で、西田幾多郎の「無私の思想」を、以下のように分かりやすく解説しています。 

「  日本の思惟には、ゆく川のごとく、次々と時が去り、また来るという趣があると言えよう。「今」が生起する次の瞬間には無へと消えていく。形を持たない無が、今の瞬間に形あるものを現出させる。それを感じ取ることは、「もののあわれ」を感じることである。これを感じるゆえに、人との出会いを大切に思うのである。

「  この世は本質的に矛盾をはらんでいる。この矛盾こそが、人生の実相というべきものではないか。根源的矛盾にあえて目をつむり、「存在するものの論理」をまっすぐに展開したのが、通常のわれわれの思考である。

 無へ向かう志向とは、すべてを「無」のなかに投げ込み、しかし、その生を受け入れようとする態度である。

 日本人の「無」は、必ずしも「有」の否定ではない。日本的な精神の「無常」という観念により、一方で諦念があり、他方で覚悟が出てくる。一方で「はかなさ」があるとともに、「美」を求めようとする。人とのつながりに恬淡とするとともに、定めや縁を感じ取る。

「  日本の精神では、私自身を含め、いかなる「物体」「モノ」もいずれは消えてなくなると考える。これは決定的な宿命、さだめである。その論理でいけば「モノがある」とは、「・・・・に於いてある」ということであり、究極的には「無の場所」に於いてあるということになる。モノの本質は、いずれそこへと帰っていく「無」の世界にこそある。「私自身」も、いずれ確実に「無」へと帰する。つまり、現在の「生」は「死」によって支えられているといえる。このことから、いったん私を滅して「無」へと送り込むことで、そこから改めて私の本当の姿が見えてくる。つまり、自己とは「絶対無の場所」に自己を映すものだというわけである。

 すべての物的存在は、その背後に「無」を漂わせる。

 存在を存在たらしめているのは、西洋思想が考えるように、なにか絶対者のような究極的存在ではない。最終的にすべてを包摂する「絶対無の場所」というものを考えれば、すべての存在は「無」から生まれ、「無」に帰していく。「無」から出てきて、「無」に帰っていくだけである。

 それだからこそ、私たちは、ある場所であるモノとほとんど偶然の出会いを経験できるという意味で「一期一会」や「縁」という言葉を使う。(→だからこそ、他者を尊重するのです。エチケット、節度が重要になるのです)そして、そこには「悲哀」も伴う。

(『西田幾多郎 無私の思想と日本人』佐伯啓思)

 

 

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

 

 

 

 上記は、「日本人の伝統的な感受性」の解説です。

 日本の「無私の思想」が、いかに「一期一会の精神」と密接に関連しているか、を説明しています。

 ところが、現代の日本人は、精神的余裕をなくし、上記の、かつてのような、素晴らしい繊細な感受性を喪失しているようです。

 この悲しむべき状況について、佐伯氏は、以下のように解説しています。


「精神の余裕失った日本」佐伯啓思「日の蔭りの中で」『産経新聞』2015年12月28日

「  グローバルな大競争の時代になり、どの国もゆったりと成長できる世の中ではなくなった。競争は、国の単位においても、企業や組織の単位においても、あるいは個人を単位としても、勝者と敗者を作り出してゆく。構造改革で、勝てるところにカネをまわせ、勝てないところは切り捨てよといった政策を続けた結果も手伝い、この十数年のうちに、われわれは、すっかり余裕を失ってしまった

 余裕を失ったのは、十分な経済成長を生み出すことができなくなった富の世界だけではなく、われわれの精神の方も同じである。

 いや、停滞の20年などといっても、日本は依然、経済大国である。富は十分にある。しかしこの豊かさのなかで、われわれは、精神的な安寧や余裕を失っている自分を支えるために、少しでも自分に敵対する(と思われる)ものを攻撃し、自分を傷つける(と感じられる)ものを罵倒し、自己の存在を示すために大声で自己主張をする、という風潮へとなだれ込んでしまった。

 こうしたことは、もともと、われわれ日本人がもっとも忌み嫌ってきたことではなかったろうか。大声で言挙げしない。強引な自己主張は控える。相手の気持ちを忖度(そんたく)する。ことにあたって冷静でいる。友を裏切らず、他人を誹謗しない。仁や義を重んじる。こういったことがらは日本人の精神文化の核にあったはずだ。

 それが、このグローバルな大競争の時代に失われつつある。古都奈良にも海外からの観光客がかつてなくやってきている。中宮寺にもやってきているのであろう。しかし、この観音の微笑(アルカイック・スマイル)は観光のためにあるのではない。われわれ自身の精神を映すものなのである。 

(「精神の余裕失った日本」佐伯啓思「日の蔭りの中で」『産経新聞』2015年12月28日)

 

 上記の由々しき問題の対策論として、佐伯氏は、以下のような秀逸な主張(『自由と民主主義をもうやめる』)を展開しています。

 佐伯氏は、日本人のとるべき方策として「無常観を理解し、現代文明社会に蔓延しているニヒリズムから脱する」ことを提案しているのです

「  自由を極端に主張しない。自然権としての平等や人権ということも声高には主張しない。欲望の気ままな解放も主張しないし、競争というものも節度を持った枠内でしか認めない。これが本来の日本的精神です。調和を求め、節度を求め、自己を抑制する事を知り、他人に配慮する。これを、今の世の中で実践するのは非常に難しいことです。しかし、これら日本的な精神に基づいた価値観を打ち出していく以外に、われわれの取るべき道はありません

(『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思) 

 

「これほど騒々しく他人の非を責めたて、SNSで人を誹謗し、競争と成長で利益をえることばかりに関心を向ける社会」(「死を考えること 人に優しい社会への一歩」)

から脱却するためには、つまり、他者尊重のためには、「脱成長主義」を考慮することも必要でしょう。

 「脱成長主義」については、佐伯氏の次の論考(「『人生フルーツ』と経済成長 脱成長主義を生きるには」佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2017年6月2日)かなり参考になります。

 

「  先日、『人生フルーツ』(東海テレビ・東風)というドキュメンタリー映画をみた。東京では盛況と聞いていたが、遅れて上映された京都のミニシアターも満員であった。『日本住宅公団』で戦後日本の団地開発を手掛けた建築家・津端修一さんと、その妻・英子さんの日常生活の記録である。1960年代の高度成長時代に、津端さんは次々と日本のニュータウンを手掛けた。その1つが愛知県の『高蔵寺ニュータウン』であるが、自然との共生を目指した彼の計画は受け入れられなかった。そこで彼は、このニュータウンの一角に土地を購入し、小さな雑木林を作り、畑と果樹園を作り、毎日の食事は基本的に自給自足するという生活を送ってきた。畑では70種類の野菜、果樹園では50種類の果物を育てているという。映画は、90歳になった修一さんと3歳年下の英子さんの日常を淡々と描いているのだが、しみじみとした感慨を与えてくれる。

 大抵の建築家は、ニュータウンや団地の設計を手掛けても、そこには住まない。大都市からやって来て仕事を済ませると、それで終わりである。津端さんは、思い通りにならなかった愛知のニュータウンに住み、小さいながらもその土地に根を張り、そこで自然の息吹を聞こうとする。風が通り、鳥がやって来る。四季が巡る。時には台風が襲いかかる。その全てが循環しながら、土地を育み草花や野菜を育て、この老夫婦の生活を支えている。いや、この夫婦の生活そのものも、この生命の循環の中にあるように見える。

 かつては、日本の彼方此方にこういう場所がごく自然に存在していた。1960年代でも未だ、都市の郊外や地方を行けば、人々は自然の循環の中で野菜を作り、半ば自給しながら生活していた。その後、1960年代から1970年代にかけての高度成長は終息し、1980年代のバブル経済も崩壊した。にも拘わらず、四季の移ろいや自然の息吹と共に生きることは、今日、大変に難しくなっている。この映画を見ていると、自給的生活はかなり忙しいことがよくわかる。労力がいるのである。自給といっても、コメや肉まで手に入る訳ではない。90歳の津端さんは、自転車に乗って買いだしに出る。畑や家の手入れも大変だ。毎日同じことを繰り返すにも労力がいる。「できることは自分たちでやる」という独力自立の生活は、映画館でこれを見ている我々に与える清々しさからは想像できないエネルギーを必要とするのであろう。1990年代になって、日本は殆どゼロ成長に近い状態になっている。にも拘わらず、我々は相変わらずより便利な生活を求め、より多くの富を求め、休日ともなればより遠くまで遊びに行かなければ満足できない。政府も、AIやロボットによって、人間の労力をコンピューターや機械に置き換えようとする。住宅もIT等と結び付けられて、生活環境そのものが自動化されつつある。外国からは観光客を呼び込み、国内では消費需要の拡張に腐心している。それもこれも経済成長の為であり、それはグローバル競争に勝つためだというのだ。

 日本がグローバルな競争に曝されていることは私も理解しているつもりではあるが、その為に自然や四季の移ろいを肌で感じ、地域に根を下ろし、便利な機械や便利なシステムにできるだけ依存しない自立的生活が困難になっていくのは、我々の生活や経済のあり方としても本末転倒であろう

 この5月末に、私は『経済成長主義への訣別』(新潮選書)という本を出版した。私は、必ずしも経済成長を否定する「反成長論者」ではない。また、所謂「環境主義者」という訳でもない。

 しかし、これだけモノも資本も有り余っている今日の日本において、「グローバル競争に勝つ為にどうしても経済成長を」という「成長第一主義」の価値観には、容易には与することはできない。現実に経済成長が可能かどうかというより、問題は価値観なのである。

 経済成長によって、「より便利に、より豊かに」の追求を第一義にしてきた戦後日本の価値観を疑いたいのである。それよりもまず、我々はどういう生を送り死を迎えるか、それを少し自問してみたいのである。

 実は、東海テレビが人生フルーツを製作中に、急に津端さんが亡くなる。その直前まで、元気にいつもと同じ生活をしており、実に静かで自然な死であったようだ。こういう死を迎えることは、今日、中々難しい。我々はグルメ情報を片手に、美味いものの食べ歩きに精を出し、旅情報を基に秘境まででかけ、株式市場の動向に一喜一憂し、医療情報や健康食品に、やたら関心を持ち、そしてその挙げ句に、病院のベッドに縛り付けられて最後を迎えることになる。こうした今日の我々の標準的な生と死は、本当に幸せなものなのだろうか?(→当ブログによる「注」→私たちは、「死と生」を真剣に考えるべきではないか、と佐伯氏は問いかけているのです)

 確かに、「より多くの快楽を得たい」「より便利に生活したい」というのは、現代人の本性のようになっている。経済成長も、我々の生活に組み込まれている。しかし、この映画はまた、その気になれば、このグローバル競争の時代に、都市のニュータウンの真ん中で、細やかながらもこのような生が可能なことをも示している。

 経済成長を否定する必要はないが、その傍らで、脱成長主義の生を部分的であれ、採り入れることはできる筈であろう。

(「『人生フルーツ』と経済成長 脱成長主義を生きるには」佐伯啓思《異論のススメ》『朝日新聞』2017年6月2日)

 

 

 (3)当ブログにおける「佐伯啓思」関連記事の紹介

 

 佐伯啓思氏は、入試頻出著者です。

 

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 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

 

   

 

 

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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