予想問題「脳の中の古い水路」福岡伸一『世界は分けてもわからない』
(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?
「私たち」とは何か?
人間とは何か?
世界とは何か?
「見る」とは、どういうことか?
世界認識とは何か?
「人間と世界の関係」を、どのように考えるべきか?
科学とは何か?
分析とは何か?
「部分と全体の関係」を、どのように考えるべきか?
これらの哲学的科学論、人間論は、現代文(国語)・小論文における入試頻出事項、入試頻出論点です。
これらの論点についての秀逸な論考としては、『世界は分けてもわからない』(福岡伸一)が挙げられます。
この論考は、最近の入試頻出著書です。
そこで、今回は、この著書の中の「脳の中の古い水路」を題材とした予想問題の解説をします。
なお、今回の記事の項目は以下の通りです。
記事は約1万字です。
(2)予想問題/「脳の中の古い水路」福岡伸一『世界は分けてもわからない』/2012明治大学過去問
(3)補足説明①/『世界は分けてもわからない』について
(4)補充説明②/『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(日高敏隆)について
(5)福岡伸一氏の紹介
(2)予想問題/「脳の中の古い水路」福岡伸一『世界は分けてもわからない』/2012明治大学過去問
(問題文本文)
(概要です)
(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
【1】空耳、というものがある。実際には音がしていないのに、音が聞こえたり、呼ばれてもいないのに名を呼ばれたような気がすることである。あるいは最近では、外国語の歌詞が変な日本語に聞こえたりすることも若い人たちのあいだでは空耳というそうで、それを集めた番組やサイトもあるという
【2】実は、それと同じようなことは目で見ていることに対しても起こりうる。それを仮にここでは「空目(そらめ)」という風に呼んでみたい。百聞は一見にしかず、あるいは、自分の目で実際確かめなさい、とはよくいわれることだが、これまでたどってきたとおり、実は、私たちがこの目で見ていると思っていること自体、私たちの内部で、あらかじめ水路づけされたものの上に成り立っている。ただし、私がここでいう空目とは、全く存在しないものが見える、いわゆる幻視のことではない。本当は全く偶然の結果なのに、そこに特別のパターンが見えてしまうとき、それを空目と呼びたいのである。
【3】私は、小さい頃から、自動車や列車の前面が、人の顔に見えてしかたがなかった。外車や改造車は、いかにもそれに乗っている人間に似て、居丈高な顔や怖そうな顔に。古い車は、まぬけなカエルに。世界は不思議な顔に満ちている。いつしか、私は、空目の画像をコレクションするようになった。
【4】尊敬してやまない昆虫写真家の 海野和男さん。彼の撮影したカメムシ。二人の、あまり強そうではないお相撲さんが仲よく並んでいる。ちょっと前には、アメリカですごいトーストが見つかった。トースト、つまりただの焼いたパンである。これが、オークションに出品されて2万8千ドルもの高値がつけられたという。なぜ? それはトーストの中央に、奇跡のマリア像が浮かび上がっているからである。すごい。なにがすごいかといえば、そういわれてみると、確かにそう見えるところが。今頃、パンはカビだらけになってしまっていないだろうか。
【5】マリアだけではない。恩寵は私たちのすぐそばにある。 1 ただそれがあまりに身近すぎるところに起こるというのもどうだろうか。マーマイト(というケチャップみたいな調味料)のフタの裏にもキリストは立ち現れるのだ。
【6】1996年に打ち上げられたNASAの探査衛星マーズ・グローバル・サーベイヤーが火星に最接近し、その表面に鮮明な映像を捉えた。そこには複雑で、奇妙な起伏が広がっていた。それをじっと眺めていると、そこには実にたくさん人工的な意匠が隠されていることに気づく。ゴリラに似た横顔、ぬりかべ、マスクをかぶった怪人、はたまたなどが見えると話題にもなりました。たまたまオバQまで。実にさまざまな顔が潜んでいる・・・・。
【7】私たちは、本来、ランダムなはずのものの中に〔 X 〕を見出す。いや、見出さずにはいられない。顔は、火星の、あるいは岩壁の表面にあるのではない。私たちの意識の内部にある。
【8】コンピュータ・グラフィック技術によって、非常に滑らかに変化する表面を描いたとする。例えば、超未来的な宇宙船。恒星からの強い光を浴びて船首はまぶしく輝き、他方、船尾は暗い宇宙に溶け込んでいる。そんな画像である。コンピュターは計算によって、暗黒と輝きとのあいだに、濃淡の階調がほんのわずかずつ、精密に減少するような完全に数学的なグラデーションを作り出す。
【9】むろん、人間の眼は、ある段とその前後の段との階調の差は、あまりにも微妙すぎて気づくことができない。つまり、どこを見てもトーンジャンプを検出することはできない。だから、このようにして描出された宇宙船は、あたかも天使の布で磨きぬかれた大理石のように、かぎりなく滑らかで美しい表面を体現するはずである。理論的には。
【10】ところが事実は全く異なる。このようにして正確に計算されて作り出された宇宙船は、しばしばギザギザや縞模様が浮かび上がった、極めて汚い表面をもってしまうのだ。
【11】私は、このようなことをセガの技術者、平山尚氏が書いている一文を興味深く読んだ。一体、何が起こっているのだろうか。ギザギザや縞模様は、数学的な処理の問題に起因しているのではない。また、コンピュータの液晶はや画像表示の仕組みに問題があるからでもない。私たちの認識のあり方に由来するのだ。その証拠に、しばしばギザギザや縞模様は、ゆらぎ、あちこちに移動し、見るたびに変幻自在に動く。
【12】おそらくそれは、私たちの内部にある眼が、あまりにも滑らかすぎる光景にいらだち、右往左往しているのである。そのあげくに無理矢理、境界線を、トーンジャンプを作り出し、そこに何らかの〔 Y 〕を見出すべく必死にもがいているのである。私たちの脳に貼りついた水路づけは、ここまで頑迷なものなのである。
【13】網膜上にはたくさんの視細胞が稠密(ちゅうみつ)に並んでいる。それはちょうどデジタル・カメラの画素のようなもので、おのおのレンズを通してやってくる光の強度を認識する。視細胞は認識した光の強度を神経繊維を通じて脳に伝える。一方、視細胞は互いに隣どうしの細胞と連携をとって、情報を交換している。ある視細胞にことさら強い光が入ってきたとする。この細胞はそれを信号に変えて、強い光が入ってきたことを脳に伝達する。そのとき同時に、隣の視細胞に対して、抑制的な情報を送る。「この光は俺が受け取ったから、おまえたちはそんなにさわがなくていいよ」と。ちょうど外野フライを捕球する野手が他の人間の動きを抑制するように。
【14】すると、どのようなことが起こるだろうか。周りが静まることによって、強い光を受け取った視細胞からの信号がことさら強調されることになる。つまり、2 コントラストがより明確化され、そこに境界線が作り出される。細胞と細胞のあいだのこのようなやりとり、つまり強い信号をより際立たせるための仕組みは、側方抑制と名づけられている。
【15】全く同じように説明できるわけではないが、滑らかすぎる変化に、人工的なギザギザや縞模様が出現してしまう空目も、このような細胞間の側方抑制的な仕組みが作用していると考えることができる。輪郭のないところに輪郭を求めるあまり、視細胞は、変化する階調のあらゆる場所で、側方抑制をかけてははずし、かけてははずすことを繰り返して、縞模様を 3 消長させているのだ。
【16】かつて私は、私の本の若い読者からこんな質問を受けたことがある。
なぜ、勉強をしなければならないのですか、と。そのとき、私は、十分答えることができなかった。もちろん今でも十分に答えることはできない。しかし、少なくとも次のようにいうことはできるだろう。
【17】連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。
【18】かつて私たちが身につけた知覚と認識の 4 水路はしっかりと私たちの内部に残っている。しかし、このような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。
【19】私たちは見ようと思うものしか見ることができない。そして、見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。
【20】世界は分けないことにはわからない。しかし、分けてもほんとうにわかったことにはならない。つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。
【21】滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。
【22】【ラスト段落】5 そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。
(福岡伸一『世界は分けてもわからない』)
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(設問)
問1 傍線部 1 「ただそれがあまりに身近すぎるところに起こるというのもどうだろうか」という表現には、筆者のどのような気持ちが表されているか。最適なものを、次の中から選べ。
A 高貴な方々の姿形が、安っぽいものに出現することに対する罪悪感。
B 神聖なものが、卑俗なものの中に出現することに対する戸惑い。
C 聖なる人々が、日常品の中に出現することによって、汚れてしまうという不安。
D 尊い聖人の姿形が、本当に現実の世界に出現するのだろうかという猜疑心。
問2 空欄X・Yに共通して当てはまる言葉として最適なものを次の中から選べ。
A 映像 B 認識 C リアル D パターン
問3 傍線部 2 「コントラスト」とはどういうことか。最適なものを次の中から選べ。
A 対照 B 対象 C 対称 D 対症
問4 傍線部 3 「消長」の使い方として、最適なものを次の中から選べ。
A ランプが消長するのは、注意の合図である。
B 文明の消長は、歴史の中で証明されている。
C 彼の姿が消長してから、もう10年近くなる。
D 火事がようやく消長したので、ひと安心だ。
問5 傍線部 4 「水路」という比喩の意味として、最適なものを次の中から選べ。
A 連続 B 存在 C 推移 D 関係
問6 傍線部 5 「そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない」とは、どういうことか。
A 無関係なことに因果関係を見出そうとするヒトの習性を、学ぶことによって追求し、「空目」と呼ばれる現象について、いつかその成り立ちを解明しようとすること。
B ヒトの認識の多くは妄想でしかなく、ほとんどが「空目」であることをよく理解し、その欠点を補うためには常に勉強し、努力をしなければならないということ。
C ヒトが見ることのできる世界の姿は、常に一部分でしかないことを自覚し、そうであるがゆえに、理性的で冷静な思考と判断を心掛けなければならないということ。
D 滑らかに見えるものと毛羽立って見えるものが、実は同一のものであることを判断できるようにするためには、常に新しい知識を吸収する必要があるということ。
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(解説・解答)
問1(傍線部説明問題)
傍線部直前の「恩寵」(→①神や主君から受ける恵み・慈しみ。②キリスト教で、人類に対する「神の愛」・「神の恵み」。恩恵)とは、【4】段落の「奇跡のマリア像」、【5】段落の「マリア」、「キリスト」をさしています。
このことを読み取った上に、以下の段落に注目してください。
【4】「尊敬してやまない昆虫写真家の 海野和男さん。彼の撮影したカメムシ。二人の、あまり強そうではないお相撲さんが仲よく並んでいる。ちょっと前には、アメリカですごいトーストが見つかった。トースト、つまり、ただの焼いたパンである。これが、オークションに出品されて2万8千ドルもの高値がつけられたという。なぜ? それはトーストの中央に、奇跡のマリア像が浮かび上がっているからである。すごい。なにがすごいかといえば、そういわれてみると、確かにそう見えるところが。今頃、パンはカビだらけになってしまっていないだろうか。」
【5】「マリアだけではない。恩寵は私たちのすぐそばにある。 1 ただそれがあまりに身近すぎるところに起こるというのもどうだろうか。マーマイト(というケチャップみたいな調味料)のフタの裏にもキリストは立ち現れるのだ。」
の文脈に注目すると、「恩寵があまりに安直に出現すること」に対する筆者の「戸惑い」(B)が感じられます。
(解答)B
問2(空欄補充問題)(キーワードを問う問題)
空欄X・Yの直前・直後を精読することが必要です。
その上で、特に注目するべき段落は【2】・【12】・【17】段落です。
【2】「実は、それと同じようなことは目で見ていることに対しても起こりうる。それを仮にここでは「空目(そらめ)」という風に呼んでみたい。百聞は一見にしかず、あるいは、自分の目で実際確かめなさい、とはよくいわれることだが、これまでたどってきたとおり、実は、私たちがこの目で見ていると思っていること自体、私たちの内部で、あらかじめ水路づけされたものの上に成り立っている。ただし、私がここでいう空目とは、全く存在しないものが見える、いわゆる幻視のことではない。本当は全く偶然の結果なのに、そこに特別のパターンが見えてしまうとき、それを空目と呼びたいのである。」
【12】「おそらくそれは、私たちの内部にある眼が、あまりにも滑らかすぎる光景にいらだち、右往左往しているのである。そのあげくに無理矢理、境界線を、トーンジャンプを作り出し、そこに何らかの〔 Y 〕を見出すべく必死にもがいているのである。私たちの脳に貼りついた水路づけは、ここまで頑迷なものなのである。」
【17】「連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。 」
(解答)D
なお、「空目」は古文の世界でも使用されています。
意味としては、以下のようになっています。
① 見まちがえ。
② 見そこない。
③ ありもしないことを見たように思うこと。
『源氏物語』の中でも、以下のように空目は使われています。
「光ありと見し夕顔の上露(うはつゆ)にたそかれ時の空目(そらめ)なりけり」(『源氏物語』「夕顔」)
(光り輝いていると見た夕顔(の花)の上の露のようなお顔は、夕暮れ方の見間違えでございました)
問3(傍線部説明問題)(単語力・語彙力を問う問題)
「コントラスト」の辞書的意味は、
「①対照。対比。②写真・テレビ画像などで、明るい部分と暗い部分との明暗の差。明暗比」です。
この辞書的意味をもとにして、以下の文脈を精読すると、Aの「対照」が正解になります。
【13】「網膜上にはたくさんの視細胞が稠密(ちゅうみつ)に並んでいる。それはちょうどデジタル・カメラの画素のようなもので、おのおのレンズを通してやってくる光の強度を認識する。視細胞は認識した光の強度を神経繊維を通じて脳に伝える。一方、視細胞は互いに隣どうしの細胞と連携をとって、情報を交換している。ある視細胞にことさら強い光が入ってきたとする。この細胞はそれを信号に変えて、強い光が入ってきたことを脳に伝達する。そのとき同時に、隣の視細胞に対して、抑制的な情報を送る。「この光は俺が受け取ったから、おまえたちはそんなにさわがなくていいよ」と。ちょうど外野フライを捕球する野手が他の人間の動きを抑制するように。」
【14】「すると、どのようなことが起こるだろうか。周りが静まることによって、強い光を受け取った視細胞からの信号がことさら強調されることになる。つまり、2 コントラストより明確化され、そこに境界線が作り出される。」
(解答)A
問4(傍線部説明問題)(単語力・語彙力を問う問題)
消長の意味は「勢いが衰えたり盛んになったりすること。盛衰」です。
「消長」は入試頻出語句です。
(解答)A
問5(傍線部説明問題)(キーワードを問う問題)
以下の二つの段落を熟読すると、Dの「関係」が正解だと分かります。
傍線部直前の
【17】「連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。」、
傍線部を含む
【18】「かつて私たちが身につけた知覚と認識の 4 水路はしっかりと私たちの内部に残っている。しかし、このような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。」
(解答)B
【17】段落に関して、『世界は分けてもわからない』の中に興味深い記述があるので、以下に引用します。
「私たちヒトの祖先がこの地球上に出現たのは今から七百万年も前のことである。700万年の時間のほとんどを、ヒトは常に、怯え、警戒しながら暮らしてきたはずだ。いつ、どんな危険に直面するかわからない。いかなる未知と遭遇するか予想できない。
だから、私たちは、遠い草原のかなたに、あるいは森の暗がりの中に、いち早く、生物の有無を見出し、かつその敵味方を判別することが求められた。」
見た途端にある形が浮かぶのは、周囲の世界を秩序立てようと勝手に、ある輪郭を作り、線引きをしてしまう、人間の習性が原因のようです。
人間の祖先が、外敵をいち早く察知しようとした、生存戦略上の防御反応の名残なのでしょう。
問6(傍線部説明問題)
以下の段落を熟読すれば、C(→「ヒトが見ることのできる世界の姿は、常に一部分でしかないことを自覚し、そうであるがゆえに、理性的で冷静な思考と判断を心掛けなければならないということ」)が正解ということが分かります。
【19】「私たちは見ようと思うものしか見ることができない。(→「ヒトが見ることのできる世界の姿は、常に一部分でしかないこと」→C)そして、見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。」
【20】「世界は分けないことにはわからない。しかし、分けてもほんとうにわかったことにはならない。つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。」
【21】「滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。」
【22】【ラスト段落】「 5 そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。」
A・B・Dについては、このような記述は本文にはないので、誤りです。
(解答)C
本文の趣旨、この設問から思い出されるのは、カエサルの以下の言葉です。
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない(カエサル)」
有名なこの言葉は、『ローマ人の物語』(塩野七生)の中で、以下のように紹介されています。
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」
(3)補足説明①/『世界は分けてもわからない』について
『世界は分けてもわからない』の「エピローグ」で、福岡伸一氏は、以下の文章で締めくくっています。
「この世界のあらゆる要素は、互いに関連し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界には部分が無い。部分と呼び、部分として切りだせるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、本当の意味での因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。
分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである」
上記を読むと、何とか「世界の真理」に接近しようとする、福岡氏の一途な気持ちが、よく分かります。
また、『世界は分けてもわからない』という題名の由来は、次のように説明されています。
「生命現象において部分と呼ぶべきものはない。このことは古くから別の表現でずっと言われ続けてきたことでもある。
たとえば次のように。
全体は部分の総和以上の何ものかである。
たしかに生命現象において、全体は、部分の総和以上の何ものかである。この魅力的なテーゼを、あまりに素朴に受け止めると、私たちは、すぐにでもあやういオカルティズムに接近してしまう。ミクロなパーツにはなくても、それが集合体になるとそこに加わる、プラスαとは一体何なのか。
それは実にシンプルなことである。生命現象を、分けて、分けて、分けて、ミクロなパーツを切り抜いてくるとき、私たちが切断しているものがプラスαの正体である。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報の効果にこそある。」
上記の
「生命現象を、分けて、分けて、分けて、ミクロなパーツを切り抜いてくるとき、私たちが切断しているものがプラスαの正体である。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報の効果にこそある。」
の部分は、何度も読み直すべきでしょう。
(4)補充説明②/『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(日高敏隆)について
動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)
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『世界は分けてもわからない』を読み、すぐに思い出されるのは、『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(日高敏隆)(筑摩書房)です。
日高敏隆氏は、入試頻出著者であり、『動物と人間の世界認識』は入試頻出著書です。
この本の要旨は、「物質として存在する客観的な世界があっても、動物と人間では見えているものが違う」ということです。
動物が何を見て、それぞれ、いかなる「環世界」を持っているか、を探るために行われたネコ、イヌ、ハエ、チョウなどの生態観察・研究が、分かりやすく紹介されていて、興味深い内容になっています。
『世界は分けてもわからない』に関連している記述は、以下の通りです。
「それぞれの動物は、それぞれの環世界を持っていて、それは我々が見ている客観的な世界とは違ってそのごく一部分を切り取って見ている」
「それぞれの動物は、音、匂い、光、色などへの自分の知覚の枠内で、周りの環境の中から自分に意味のあるものを認識し、それらの組み合わせによって自分の世界を構築している」
「彼らは環世界を構築して、その中で生きているのであって、自分たちの周りに如何にさまざまなものが実在していようとも、自分たちの環世界にないものは、彼らにとって存在しないに等しい
「人間以外の動物たちも身の回りの環境をすべて本能によって即物的に捉えているわけではなく、むしろ本能があるゆえに、それによって環境のなかの幾つかを抽出し、それに意味を与えて自らの世界認識を持ち、その世界の中でのみ行動している。それら世界は決して客観的な存在ではなく、あくまで個々の動物主体により抽出、抽象された主観的なものである。」
「それぞれの動物が見ている世界は、みな客観的な認識ではなくて、イリュージョン(→「錯覚」)による認識ということなる」
つまり、「あらゆる生物は人間を含め、それぞれ『色眼鏡』なしには、ものを見ることはできない。人間が客観的に、つまりは、科学的に事象を見ることができると思うのは誤りであり、思い上がり」だということです。
そして、日高敏隆氏は、人間の「イリュージョン」の特質に注目します。
見えているものがイリュージョンである動物たちの中で、人間は「概念によるイリュージョン」を持っています。
人間は知覚の枠を越えて理論的にイリュージョンを構築できるのです。
それが、「概念によるイリュージョン」です。
「概念によるイリュージョン」により、見えないものを見えるものに転化(→「空目」、「奇跡のマリア像」、「マーマイトのフタの裏のキリスト」など)することがあるのです。
ある意味で、私たちは、視覚の世界では、「概念によるイリュージョン(錯覚)」に拘束・支配されている、と評価できるのでしょう。
(5)福岡伸一氏の紹介
福岡伸一(ふくおか しんいち)
1959年東京生まれ。京都大学卒。
米国ハーバード大学研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学理工学部 化学・生命科学科教授。分子生物学専攻。専門分野で論文を発表するかたわら、一般向け著作・翻訳も手がける。
2007年に発表した『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、サントリー学芸賞、および中央公論新書大賞を受賞し、ベストセラーとなる。
他に『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス・講談社出版文化賞)
『ロハスの思考』(ソトコト新書・木楽舎)、
『生命と食』(岩波ブックレット)、
『できそこないの男たち』(光文社新書)、
『動的平衡』(木楽舎)、
『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、
『ルリボシカミキリの青』(文春文庫・文藝春秋)、
『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書・集英社インターナショナル)
など、著書多数。
最新刊は『ツチハンミョウのギャンブル』(文藝春秋)。
『動的平衡』は現在3巻まで刊行されている。
また、対談集『動的平衡ダイアローグ』が出版されている(いずれも木楽舎刊)。
美術ではヨハネス・フェルメールの熱心なファン。
現存画は必ず所蔵されている場で鑑賞することをポリシーとしていて、著書の発表や絵画展の企画にも携わっている。
ーーーーーーーー
今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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