予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹/驚く人
(1)はじめに/なぜ、この記事を書くのか?
「胆力」、「驚くこと」、「驚くけど驚かないこと」は、入試頻出論点であり、人生の重要課題の一つです。
人間の「胆力」を考える上で、秀逸な論考(「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹)がありますので、この記事で解説します。
入試頻出著者・内田樹氏のメインテーマは、「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」です。
内田氏は、このメインテーマに関連した著作を、最近でも何冊も発行しています。
「胆力」は、内田樹氏のメインテーマである「成熟とは何か」「大人になるとは、どういうことか」に密接に関連しているのです。
内田氏は、「胆力」に関連した著作を、最近、何冊も発行しています。
内田氏のブログ(『内田樹の研究室』)でも、「胆力」のテーマ・論点に関連した記事が多いようです。
そこで、上記の論考(「胆力について」『私の身体は頭がいい』)を 、内田氏の他の著作、ブログ記事
(『内田樹の研究室』)を参照しつつ、解説することにします。
なお、今回の記事の項目は以下の通りです。記事は約1万字です。
(2)予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹
(3)補充説明①/「胆力の内容」①
(4)補充説明②/「胆力の内容」②
(5)補充説明③/「胆力は計測不可能ということ」について
(6)補充説明④/「胆力」をつけるために
(7)補充説明⑤/「危機管理」における「胆力」の必要性
(8)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介
(2)予想問題/「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹
(問題文本文)(概要です)
(赤字は当ブログによる「強調」です)
(青字は当ブログによる「注」です)
(「胆力について」本文)
「「胆力」というのは簡単に言えば「びっくりしない」ということである。
生物は「びっくりする」とその身体能力が急激に低下する。感覚も判断力も想像力もすべて鈍磨する。非常に弱い動物の場合は、びっくりしただけで死んでしまうことだってある。
だから「驚かない」ということは生物の生存戦略上たいへん大切なことなのである。
では、どうやったら「驚かない」ようになるのか。
これが矛盾しているように聞こえるであろうが、「驚く」ことによってなのである。
かつてロラン・バルドは真に批評的な知性の本質は驚く能力に存すると書いたことがある。考えてみれば当然のことだけれど、「何を見ても驚かない」というのは、要するに知性が鈍感だということである。自分の枠組みにしがみつき、どんな出来事に遭遇しても、「あ、これは『あれ』ね」と既知に還元して説明できてしまう人間は、たしかに驚くことが少ないだろう。けれども、その代償として、そのような人は決して未知に遭遇することができない。世界のすべての事象が既知のものはであり、出会うすべてのものの意味をあらかじめ知っているとしたら、それはたしかに心安いだろう。けれども、それはそれで危険な生き方のような気がする。「人間、尽きるところ、色と慾よ」と言ってはばからないタイプの人がこれに当たる。
その反対に、日常経験することのいちいちに、あたりまえの事象のうちに「あれ? 何だろうこれは?」とひっかかりを感じ、何にでも「驚き」の種を見つけることができる人がいる。「あれ? どうして甲陽園とか苦楽園とか甲東園とか甲子園とか香炉園とか・・・・西宮市には『園』のつく駅名が多いんだろう? 不思議だなあ」と思う人と、そういうことにまるで気づかない人がいる。
西宮市内の駅名に「園」の名が多いことが気になる人は、やがて小林一三という人物がどのようにして箕面有馬電気軌道の敷設から始めて、阪急百貨店、宝塚歌劇などのアミューズメント・センターを核とした田園都市構想を立てたかをしるだろう。
「え? これ何なの? どうして?」という驚きが知的探究を動機づける。
(当ブログによる解説)
「驚く」能力とは、「問題発見能力」ということです。
ここでは、「センス・オブ・ワンダー」の重要な価値を再認識する必要があります。
「センス・オブ・ワンダー」とは、一定の対象に触れることで受ける、ある種の不思議な感動・心理的感覚を表現する概念・用語です。
「センス・オブ・ワンダー」の価値については、レイチェルの最後の著書『センス・オブ・ワンダー』で丁寧に述べられているので、以下に引用します。
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしも、わたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性』を授けてほしいとたのむでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる怠慢と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。」
「 地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。」(『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・L.カーソン)
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古代ギリシャの哲学者プラトン、および、その弟子のアリストテレスは、哲学の起源は「驚くこと」である、と言っています。
プラトン、アリストテレスが言う「驚くこと」は、「能動的な驚き」でしょう。
哲学者は、多くの人々が「常識」・「当然」と考えていることにも、能動的に驚くことができる人なのです。
プラトンは『テアイテトス』の中で、自分の師のソクラテスの発言として、次のように記述しています。
「なぜなら、実に、その驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求知(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ。」 (『テアイテトス』プラトン/ 田中美知太郎訳 )
プラトンの弟子であるアリストテレスは、『形而上学』の中で、「哲学と驚異」の関係を次のように述べています。
「けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただし、その始めには、ごく身近の不思議な事柄に驚異の念を抱き、それからしだいに少しずつ進んで遥かに大きな事象についても、疑念を抱くようになったのである。たとえば、月の受ける諸相だの太陽や星の諸態だのについて、あるいはまた全宇宙の生成について。」 (『形而上学』アリストテレス/出隆訳 )
「哲学の根本」が「驚き」であるという見解は、近代や現代文の哲学者たちも主張しています。
たとえば、キルケゴール、ヘーゲル、ハイデッガーなどです。
(「胆力について」本文)
「驚かない人」は自分の前にある現実を現実としてそのまま受け入れる。だから、どのような歴史的所(しょよ)(→)に条件づけられ、どのような偶然によって、その現実が現実になったのかを探ろうという気にならない。
「驚かない人」というのは言い換えれば、世界は「このようになるべくしてなっている。」というある種の宗教的信憑(しんぴょう)(→)性のうちに安らいでいるのである。
「驚く人」はそうではない。
「驚く人」というのは、私達は「この現実とは違う現実」を生きる可能性もあったのだという事を想像することができる人である。「この現実とは違う現実もありえたのでは・・・・」と思えるからこそ、目の前の現実に「何か、ちょっと変かな」という違和感も覚えるのである。
なぜ、ある出来事が起こり、そうでない出来事は起こらないのか? どうして、「この現実とは違う現実」の可能性について人々は進んで語ろうとしないのかのか?
そのような発想をする人が「驚く人」である。
「驚かない人」は世界には秩序があり,「神の見えざる手」がただ一つの最良の可能性だけを選択し続けていると無意識のうちに信じ込んでいる。
「驚く人」は世界が「今のようではなかった」無限の可能性があることを感知している。だから、どこに分岐点があったのか、どのような「一撃」によって、現実は「このように」なり、「それとは違うように」ならなかったのかについて想像をめぐらせる。
さて,ここで驚天動地の大事件が起きたときに、「肝を潰す」のはどちらだろう。より適切に対処できるのはどちらだろう。
当然、「驚くこと」に慣れている人間である。というのは、この人にとって「驚く」ことは主体的、能動的に選び取られた世界とのかかわりの基本姿勢だからである。
だから、「驚く人は驚かされない」。
その逆に、日頃その堅牢で鈍重なフレームワーク(→「枠組み」という意味)のなかに安住している人は、よほどのことがないと驚かない代わりに、その人が驚くときというのは、そのフレームワークが「壊れた」ときであるからパニックに陥る。何の準備もなく、いきなり丸裸で、想像を絶した命がけの事件に直面させられることになるのである。
だから、「驚かない人は、驚かされる」。
(当ブログによる解説)
上記の「その人が驚くときというのは、そのフレームワークが「壊れた」ときであるからパニックに陥る。何の準備もなく、いきなり丸裸で、想像を絶した命がけの事件に直面させられることになるのである。」
の部分の「パニック」を、内田樹氏は「居着き」と表現しています。
これは、「真に驚いた瞬間に全身が硬直してしまう状態」を、武道の世界で「居着き」と言うことに、由来しています
「居着き」については、以下の内田氏の解説が明快です。
「「先手を取る」ということばを「相手より早く動く」ことと理解している人がいるけれども、これは正確ではない。武術的な意味での「先手」は物理的な速度や時間とは関係がないからである。
目の前にいる人が「そうすることによって何をしようとしているのかがわからない」ときに、私たちは頭上に「?」を点じたままに、その場に凍り付いてしまう。これが 「居着き」と呼ばれる状態である。
「居着く」というのは、「相手は次にどう出るのか?」という待ちの姿勢に固着してしまうことである。一度、この状態に陥ったものは相手から「答え」が届くのをひたすら待つことしかできなくなる。これが「先手を取られる」という必敗の様態なのである。 」
(「勝者の非情・弱者の瀰漫」『内田樹の研究室』2005年9月13日)
次の内田氏の解説も、参考になります。
ぜひ、熟読してください。
「 武道における「隙」というのは文字通り空間的・時間的な「隙」のことであり、また「心の隙」のことである。身体の隙も心の隙も、居着きによってもたらされる。身体の一部の過緊張は他のどこかの部位の過弛緩をもたらし、思念の一点への居着きも隙を作る。
居着くというのは、点としての入力に点として「反応」することであり、これは自他を含む場全体を平らかに「観察」することを妨げる。観察とは時間の流れ、場の布置におけるおのれの位置を鳥瞰的に把持することである。これは武道において最も重要な能力である。どれほど凄まじい攻撃であっても、その一瞬前にその場を通り過ぎていれば、その一寸遠くに身をかわしていれば、人を害することができない。
それゆえ、武道では「機」と「座」を重く見る。
「機」とは「しかるべきとき」のことであり、「座」とは「しかるべき場所」のことである。その時以外にありえないような必然的な時に、その場以外にはありえない必然的な場において、果たすべきことを果す。それが兵法修業のめざすところである。」
(「機と座」『内田樹の研究室』2017年10月12日)
(「胆力について」本文)
胆力をつけるというのは、「危機に臨んで肝を潰さない」ための訓練のことである。
私たちが学問研究をし、武道の稽古をするのは、煎じ詰めれば、「胆力をつける」ためである。
「この現実とは違う現実の可能性」について、つねに想像をめぐらせ、「そうありえた現実の可能性」をできるだけ多く列挙しうること、これは学術的知性の条件
である。
武道の稽古では「命がけの局面」というものを想定して、そういう場合に心身はどういう反応をして、どのように判断力や身体能力が低下するか、ということを繰り返しシミュレートする。そして、そのシビアな「能力低下のシミュレーション」に想像的に身体をなじませてゆきながら、それを生き延びる技術を学習するのである。
驚く経験を自主的に積み重ねることによって、驚かされない心身を構築すること、それが多田先生のおっしゃっている「胆力をつける」ということの意味だと私は勝手に解釈している。
胆力がある人というのは、ぼけっとした鈍感な人間のことではない。
世界の唐突な崩壊、自分の生命の不意の終わりを、当然の可能性としてつねに勘定に入れている、想像力に富んだ人間のことなのである。」
(「胆力について」『私の身体は頭がいい』内田樹)
(当ブログによる解説)
本文の冒頭部分の解説をします。
「 「胆力」というのは簡単に言えば「びっくりしない」ということである。
生物は「びっくりする」とその身体能力が急激に低下する。感覚も判断力も想像力もすべて鈍磨する。非常に弱い動物の場合は、びっくりしただけで死んでしまうことだってある。
だから「驚かない」ということは生物の生存戦略上たいへん大切なことなのである。
では、どうやったら「驚かない」ようになるのか。
これが矛盾しているように聞こえるであろうが、「驚く」ことによってなのである。」
の部分は、重要な内容を含んでいます。
特に重要なのは、最後の二つの文です。
一見「矛盾」していることの中に、真理があるということです。
このことは、よくあることなのです。
「驚くけど驚かない」、「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」については、『身体を通して時代を読む』の中の、甲野嘉紀氏と内田氏の対談が分かりやすいので、以下に引用します。
「甲野/私は武術を「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」と説いています。武術家はすごく敏感でなくてはいけないのですが、それと同時に、驚かない、動じないというのは、ある面からすれば鈍いとみえるような対応も必要なことですからね。
つまり、生起するさまざまな状況に振りまわされないためには、矛盾した存在であることが必要だということです。
内田/そこがむずかしいところだと思うんです。胆力は「驚かないこと」だというと、鈍感になることだと勘違いする人がいます。鈍感な人間というのはたしかに細かいシグナルには反応しないので、ふだんは泰然自若としている。でも、生死の境のようなところで起きる地殻変動的な衝撃には対処できない。ある日いきなり「驚愕の閾値」を超えた入力がドカンと入ってくると、これまで「驚いたこと」がないので、「驚き方」がわからない。こういう人は「驚かされる」。変化に対して受け身になっている。
それに対して敏感な人というのは、毎日毎時あらゆる新しい入力があるたびに「驚いている」。だから、「驚き方」に精通してくる。こういう人は、「驚く」けれど、もう「驚かされない」。「驚く」という動詞が能動態となっていて、受動的なものとしては経験されない。
だから、日常的なフレームが壊れるような激動に際会しても、きちんと「驚いて」対処できる。胆力というのはどういうことじゃないかと思うんです。
まめに驚く人間はあまり驚かされない。矛盾してますけど。」
(『身体を通して時代を読む』甲野嘉紀・内田樹 )
(3)補充説明①/「胆力の内容」①
「胆力」の類語は、勇敢、胆っ玉(きもっ玉)、 根性、度胸、豪勇さ、勇猛、勇気、剛毅、気概です。
ただ、「胆力」を背景にしているだけに、「胆力の内容」は、少々、分かりにくい側面があります。
以下の内田氏の説明を熟読すれば、理解が進むはずです。
💙💙胆力=時間意識→リラックス「この球は唯一無二の一球なり」『内田樹の研
「 リラックスを担保する心的条件は『胆力』です。
『胆力』というのは端的に言えば、『時間意識』です。
『自分が死んだとき』まで想像力を延長して、そこから今の自分を回顧する『逆流する時間意識』をもつ人間はあまり驚いたり、不安になったりしません。
武道の場合は、そのつど『死ぬこと』を想定して、想像的に死んだ時点から動きを反省的に構築するわけです。
別に形稽古の最中に死ぬわけではなく、ほんとうにあと何十年かあとに死んだときの自分を想定して、そこから現在の自分が 『ここにいて、ある動きをしていること』の歴史的必然性を見いだしてゆく、という手順を踏みます。
つまり、『ただしいときに、ただしい場所で、ただしいやり方』で生きている 、ということについて確信が持てるならば、そのとき自分がしている動きは完全にリラックスしているベスト・パフォーマンスのはずなのです。
オレはこんなところでこんなことやってていいんだろうか? というような疑問を抱いている人間のパフォーマンスが高いということは論理的にありえません。」
(「この球は唯一無二の一球なり」『内田樹の研究室』2005年4月8日)
上記の説明は、胆力を「時間意識」、「死」、「人生」の視点から分析していて、分かりやすいと思います。
武道は「死ぬこと」を前提としていることを考えれば、上記の説明は、きわめて妥当です。
(4)補充説明②/「胆力の内容」②
次の成瀬雅春氏と内田樹氏の対談は、「胆力の内容」に関連しています。
ぜひ、参考にしてください。
「 成瀬/ヨーガをきわめようと思えば、胆力を練らないといけない。なぜかといえば、生き抜く覚悟、死ぬ覚悟というものに直結しているからです。どんな情況にあっても、「ここを生き抜く」という胆力は、技術的なものよりずっと大切なんです。
内田/多田宏先生(内田氏の合気道の師匠)も、よく「胆力」という言葉をお使いになります。同じ意味で 「断定する」ということも言われます。
自分が、あるとき、ある場所にいて、何かをしているときには、「私がここにいることは、宇宙が始まって以来宿命づけられていた必然の出来事である」と断定しなければいけない
「胆力」というのは別に「負けないぞ!」と力むことじゃないんです。断定することなんです。」
(『身体で考える』内田樹・成瀬雅春 )
(5)補充説明③/「胆力は計測不可能ということ」について
胆力は、計測不可能です。
従って、近代的な教育プロセスの対象になりにくい、という視点も重要です。
この点について、内田氏の以下の指摘は、興味深いです。
「「胆力」というのは、つよいストレスに遭遇したとき、その危地を生き延びる上で死活的に重要な資質だが、それは危機的状況にあっても「ふだんと変わらぬ悠揚迫らぬ構え」をとることができるという仕方で発現される。
つまり、外形的に何も変わらない、何も徴候化しないということが胆力の手柄なのである。だから、「チカラ」をもっぱら外形的な数値化できる成果や達成によって計測することの望む人の眼に「胆力」はたぶん見えない。
当然ながら、彼らは「胆力を練るための教育プロセス」というようなものについては考えない。
そのようなものがありうるということさえ考えない。」
(「言葉の力」『内田樹の研究室』2010年5月14日)
(6)補充説明④/「胆力」をつけるために
胆力をつけるためには、胆力をつけさせるには、どうしたらよいのでしょうか?
これは、アイデンティティの確立、教育の場面における重要なポイントです。
内田氏は、以下のように述べています。
かなり説得力のある見解です。
「 日本のスポーツ界は「日本の旧軍型」の心身開発体系を採り入れた。でも、この追い詰め型教育には深刻な難点がある。
それは「胆力」がつかないことです。
たしかに人間を追い詰めると、恐怖や苦痛や不条理に対して「鈍感」にはなる。でも、入力に対して鈍感になることと「胆力がある」ことは違う。
胆力があるというのは、極めて危機的な状況に陥ったときに、浮き足立たず、恐怖心を持たず、焦りもしないこと。どんなに破局的な事態においても、限定的には自分のロジックが通る場所が必ずあると信じて、そこをてがかりにして、怒りもせず、絶望もせず、じわじわと手をつけてゆく。とんでもなく不条理な状況の中でもむりやりに条理を通していく。胆力とはそういう心構えではないかと僕は思っているんです。
頭に血が上って鬼になってしまうということと胆力があるということは方向がまったく違う。
僕は日本型教育の最大の問題は、人を鈍感にはするけれど、胆力がつかないことにあるんだと思う。それが現代の日本人にいちばん欠けているものですよね。
胆力を鍛えるというのはたぶん幕末から明治初期までの教育では重要なプログラムだったと思うんです。でも、それから後は体系的には整備されていない。「追い詰めて鬼にする」型の教育プログラムの方が短期的には効果があるから、時間的余裕がなかった近代日本は修羅場で鼻歌まじりに「ふつう」にふるまうにはどうすればいいか、というノウハウの開発には教育資源を投じてこなかった。
どうすればいいのか。僕は10年くらい前からそのことをずっと考えてるんです。合気道に限らず、学問においても、若い人にはどうも胆力がない。
スマートな知性は備えているんだけれど、学問の世界だったら、すぐに権威や査定を怖がる。そして、怖がったあげくに自分自身をミニチュアの権威や査定者に造型し直して、「恐怖させる側」に回り込もうとする。オリジナルな学者がさっぱり出てこない理由の一つは、若い人が権威を怖がり過ぎていることがあると思う。胆力がないんですよ。
胆力をつけるという教育課題において、僕がいつも念頭においているのは、「その人が生まれつき持っているキャラを強める方向に伸ばす」ということ。やたらゲラゲラ笑う子に対しては「もっと笑え」という方向に持っていく。静かで内省的な子に対してはさらに内省的になるように促す。その人のキャラを加速させること、とにかく自分が人より過剰にもっている点を「いいところ」だと思い込めることが、胆力をつける上でもとても有効だと思うんですよね。」
(「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」内田樹 2009年11月25日『現代ビジネス』講談社)
内田氏の主張は、胆力を養成するためには、要するに、自己確信を得ること、自信を得ることが必要だ、ということです。
(7)補充説明⑤/「危機管理」における「胆力」の必要性
現在、様々な場面で、「危機管理」の重要性が注目されています。
実は、「危機管理」においてこそ「胆力」が必要不可欠なのです。
このことについて、日本社会、日本人は、悲しいことに、まるで無自覚のようです。
この悲劇、喜劇、幼児性について、内田氏は、以下のように痛烈に批判しています。
内田氏の見解によれば、現代の日本の閉塞的状況の根本原因の一つは、エリート層の「胆力」不足にあるようです。
「 もう一つ、火力発電から原子力発電へのシフトに「地球温暖化キャンペーン」が深く関与していたこともここで指摘しておく必要があるだろう。
炭酸ガスが排出されると地球環境は壊滅的な被害を受けるというあのキャンペーンは「炭酸ガスを出さない、安全でクリーンなエネルギー」である原子力発電への評価をじりじりと押し上げた。だが、「北極のシロクマさんのために」火力発電を止めて原発に切り替えると、今度は「日本の人々」が放射性物質の被曝を恐れなければならないリスクが発生しますということを「温暖化キャンペーン」に携わった人たちは誰もアナウンスしなかった。炭酸ガスが増えると、光合成がさかんになって植物が繁茂し、炭酸ガスの吸収が進み、濃度を下げる。そういうふうにして自然界はバランスを取っている。けれども放射性物質については、そんな牧歌的なバランスは存在しない。
《危機時に「正解」はない》
ここまでは震災「以前」の危機管理について述べてきた。実際に災害が起きた「以後」の東電と政府の対応についても、私たちは人災的な瑕疵を指摘しないわけにはゆかない。
危機管理の条件は「ありもの」しか使えないということである。手元にある資材、人材、資源、そして時間しか使えない。その中でやりくりしなくてはいけない。それは危機の時には「正解がない」ということである。危機的状況というのは、必要な資材がなく、必要な人員がなく、必要な情報がなく、必要な時間がないということである。いちばんきびしいのは「時間がない」ということである。とくに原発事故の場合は、放射性物質がいったん漏出し始めると、人間がそこにいって作業できなくなるから「打つ手」が一気に限定される。今なら選択できるオプションが一時間後には選択できなくなるということがありうる。その場合の「今できるベスト」は「正解」とはほど遠いものとなる。
けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズ(→「凍結。凍りつく」という意味)して待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。
だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要(しゅよう。すよう)(→「欠くことができないこと。必須(ひっす)」という意味)の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。
「胆力がある」ということは別に際だった知的・人格的資質ではない。「胆力のある人間」は「胆力のある人間を育成する教育プログラム」によって組織的に育成することができる。例えば武道や宗教はほんらいそのためのものである。けれども、日本の戦後教育は「危機的状況で適切な選択を自己決定できる人間」の育成に何の関心も示さなかった。教育行政が国策的に育成してきたのは「上位者の命令に従い、マニュアル通りにてきぱきと仕事をする人間」である。それだけである。
たぶんこの後、次第にあきらかにされると思うけれども、事故の現場には「今はこうするのがベストだ。すぐに動こう」という具体的提案をした人がいたと私は思う。現場の人間は「正解」を待つことなく、「今できる最適のこと」を選ぶ訓練を受けている。でも、「上の人間」がその決断にストップをかけた。「軽はずみに動くな。上からの指示があるまで待て」ということを言った人間が必ずいたはずである。そして指示を求められた「上の人間」はまたさらにその「上の人間」に指示を仰いだ・・・・そんなふうにして初動の貴重な数時間、数十時間が空費され、事故は手の付けられないところまで拡大していった。」
(「阪神・淡路大震災との違いは『人災』であること」 内田 樹『中央公論』2011年5月号)
(8)当ブログにおける「内田樹」関連記事の紹介
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今回の記事は、これで終わりです。
次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。
ご期待ください。
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