現代文最新傾向LABO 斎藤隆

入試現代文の最新傾向を分析し、次年度の傾向を予測する大胆企画

2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)解説・IT化社会

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 2015年度センター試験国語(現代文・評論文)に出題された佐々木氏の論考(『未知との遭遇』)は、「IT化社会の問題点」、つまり、「歴史の崩壊」・「歴史意識の衰退」・「系譜学的(体系的)知の衰退」を鋭く指摘しています。この論点、言い換えれば、「反知性主義化」は、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」として、最近、問題化しています。佐々木氏の論考は、とても参考になるので、ここで紹介します。

 

 また、センター試験国語(現代文・評論文)対策として、役に立つように、丁寧な解説をしていきます。

 

 今回の記事は、以下の項目について書いていきます。記事は、約1万字です。

(2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)・『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

(3)問題文本文の構成

(4)当ブログにおける「IT化社会」関連記事の紹介

(5)当ブログにおける「反知性主義」関連の記事の紹介

(6)当ブログにおける「センター試験国語(現代文・評論文)」関連の記事の紹介

(7)佐々木敦氏の紹介 

 

未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

 

 (2)2015センター試験国語第1問(現代文・評論文)・『未知との遭遇』佐々木敦・の解説

 

(問題文本文)(佐々木敦氏の論考)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は、本文に付記されている段落番号です)

 

【1】ネット上で教えを垂れる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです。たとえば掲示板やブログに「○○について教えてください」などという書き込みをしている「教えて君」みたいな人がよくいますが、そこには必ず「教えてあげる君」が現れる。自分で調べてもすぐわかりそうなのに、どういうわけか他人に質問し、そして誰かが答える。そして両者が一緒になって、川が下流に流れ落ちるように、よりものを知らない人へ知らない人へと向かってしまうという現象があり、これはナンセンスではないかと思います。ツイッタ―でも、ちょっとしたつぶやきに対して「これこれはご存知ですか?」というリプライを飛ばしてくる人がいますが、つぶやいた人は「教えてあげる君」に教えられるまでもなく、それは知っていて、その上でつぶやいていたのかもしれない。だから僕は A  「教えて君」よりも「教えてあげる」の方が、場合によっては問題だと思います。自分より知識や情報を持っていない方に向かうよりも,自分が知らないことを新たに知ることができる方向に向かっていったほうがいいに決まっている。啓蒙するよりも啓蒙される側に回ったほうが,自分にとっては利があると思うのです。

  

ーーーーーーーー

 

(設問・解答・解説)

問2(傍線部説明問題・理由説明問題)

傍線部A「『教えて君』よりも『教えてあげる君』の方が、場合によっては問題だと思います」とあるが、それはなぜか。 

①「教えてあげる君」は「教えて君」に対して無責任な回答をすることによって、質問をただ繰り返すばかりの「教えて君」の態度の安直さを許容してしまっているため、「教えて君」の知的レベルを著しく低下させる弊害をもたらすことにもなるから。

②「教えてあげる君」は「教えて君」に知識を押しつけるばかりで、その時点での相手の知的レベルに応じた回答をしているわけではないため、「教えて君」をいたずらに困惑させてしまい、自らの教える行為を無意味なものにしてしまうことにもなるから。

③「教えてあげる君」は自身の知識を増やそうとすることがなく、「教えて君」の知的好奇心を新たに引き出すこともないため、「教えて君」もまた「教えてあげる君」と同様の状況に陥り、社会全体の知的レベルが向上していかないことにもなるから。

④「教えてあげる君」は社会全体の知的レベルを向上さえなければならないという義務感にとらわれており、「教えて君」の向上心に直接働きかけようとして教えているわけではないため、自分自身の知的レベルが向上していかないことにもなるから。

⑤「教えてあげる君」は「教えて君」を導くことで得られる自己満足を目的として教えているに過ぎず、「教えて君」の知的レベルを向上させることには関心がないため、「教えて君」と「教えてあげる君」との応答がむだに続いてしまうことにもなるから。

 

 …………………………

 

(解説)

 理由説明問題なので、傍線部前後から理由説明の箇所を探します。傍線部直前の「だから」に注目して、「だから」の前を精読します。

 直前の「自分で調べてもすぐにわかりそうなのに、どういうわけか他人に質問し、そして誰かが答える。そして両者が一緒になって、川が下流に流れ落ちるように、よりものを知らない人へ知らない人へと向かってしまうという現象があり、これはナンセンスではないかと思います。」の部分が理由の説明になります。

 この部分を言い換えている③が正解になります。

 

(正解)  ③

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)(概要です) 

【2】ではどうして自分が考えたことをすでに考えた誰かが必ずといっていいほど存在するのか。それは要するに、過去があるから、大袈裟に言えば、人類がそれなりに長い歴史を持っているから、です。もちろん今だって新しい発想や知見が生まれているわけですが、いろいろな分野において、過去のストックが、ある程度まで溜(た)まってしまった。だから何らかの事柄にかんして考えてみようとすると、大概は過去のどこかに参照点がある。しかしわれわれは過去のすべてを知っているわけではない。だからオリジナルだと思ってリヴァイバルをしてしまうことがある。それゆえ生じてくる問題にいかに対すればいいのか。

【3】単純な答えですが、順番はともかくとして、自力で考えてみること、過去を参照することを、ワンセットでやるのがいいのだと思います。知っていることと、わかっていることは別物なのだから、独力で理解できた方が、他者の言説を丸呑(まるの)みするよりもましに決まっています。しかしその一方で、人類はそれなりに長い歴史を持っているので、過去には思考のための潤沢な資産がある。それを使わない手はない。だから自分が考えつつあることと、他人が考えたことを、どこかのタイミングで付き合わせてみればいい。そうすることによって、現在よりも先に進むことができる。

【4】「君の考えたことはとっくに誰かが考えた問題」と、ちょっと似ていますが、盗作、パクリをめぐる問題というものがあります。これは多くのひとが気付いていると思うのですが、ある時期以後、たとえば音楽においても、メロディラインが非常に似通った曲が頻出し、しかもそれがヒットしてしまったりするという現象が起こってきました。僕は意図的な盗作よりも、むしろ盗作するつもりのなど全然なくて、つまりオリジナルを知らないのにもかかわらず、なぜかよく似てしまう、そのことの方がむしろ問題だと思います。

【5】人類がそれなりに長い歴史を持っているということは、当然ながら人類は、これまでに沢山の曲を作ってきたわけです。メロディも沢山書いてきた。だから誰かがふと思いついたメロディが過去に前例があるということは、確率論的にも起き易(やす)くなっていることであって、ある意味で不可避だと言ってもいい。新しいメロディが、なかなか出てこないということは、それだけ過去に素晴らしいメロディが数多く紡ぎ出されたということです。それは別に悪いことではない。もちろん B  メロディを書こうとする音楽家にとっては、これはなかなか厳しい問題かもしれません。でも、「君の考えたことはとっくに誰かが考えた問題」と同じように、自分で考えたということは自分にとっては意味のあることだけれど、それでも何かに似てしまうということはあり得る、と端的な事実を認めるしかない。自分の口ずさんだメロディが、見知らぬ過去の誰かによって奏でられていたとしても、めげる必要はない。でも、それを認めることは必要です。知らなかったんだから何が悪い、誰が何と言おうとこれは自分のものだ、ということではない。知らないより知っていた方がいい、でも知らなかったこと自体は罪ではない、ということです。

 

ーーーーーーーー

 

問3(傍線部説明問題・理由説明問題)

傍線部 B「メロディを書こうとする音楽家にとっては、これはなかなか厳しい問題かもしれません」とあるが、それはなぜか。その説明としてその説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

 

正解は②です。

②  音楽家は、新しい曲を作ることを期待されているが、多くの曲が作られてきたことで、自分が考え出したメロディに前例がある可能性が高くなるため、オリジナルな曲を作ることが困難になってきているから。

 

(解説)

 傍線部の「これ」という指示語の内容を明確化する必要があります。「これ」は、「これはなかなか厳しい問題」に着目すると、直前部分の「新しいメロディーが、なかなか出てこないということ」を、さしています。

 オリジナルな「新しいメロディー」が作り出せないことが問題なのです。

 

 ーーーーーーーー

 

 (問題文本文)(概要です)

【6】「意識せずして過去の何かに似てしまっているものに、誰かが気付いて「これって○○だよね」という指摘をする。それを自分自身の独創だと思っていた者は、驚き、戸惑う。しかし、その一方では、意識的な盗作をわからない人たちもいるわけです。明らか意識的にパクっているのだけれども、受け取る側のリテラシー(→本文の(注)→「リテラシー」→「読み書き能力。転じて、ある分野に関する知識を活用する基礎的な能力」)の低さゆえに、オリジナルとして流通してしまう、ということもしばしば起こっている。それが盗作側の利益になっていたりするならば、やはり一定のリテラシーが担保されなければならないとも思います。けれども、無意識的に何かに似てしまうというのは、これはもうしょうがないことだと思います。人類はそれなりに長い歴史を持っているのだから。 

【7】以上のような問題はいずれも、累積された過去と呼ばれる時間の中で、さまざまなことが行なわれてきてしまった、すなわち「多様性」が、ある閾値(いきち)(→本文の「注」→「限界値」)を越えてしまったということから生じています。人類がそれなりに長い歴史を持っているがゆえに、それだけ多くのコト/モノが積み重なったということに過ぎない。しかし、われわれが「多様性」を、何らかの意味でネガティブに受け取ってしまうのは、時間の流れとは別に、それがひと塊のマッス(量)として、いきなり自分の前に現れたかのように思えるからではないでしょうか。それはナンセンスなことだと思うのです。

【8】われわれは、ある事象の背後に「歴史」と呼ばれる時間があると考えるわけですが、ネット以後、そういった「歴史」を圧縮したり編集したりすることが、昔よりずっとやり易くなりました。時間軸を抜きにして、それを一個の「塊=マッス」として、丸ごと捉えることが可能になった。そういう作業において、ネットは極めて有効なツールだと思います。

【9】ただ、そのことによって、たとえば「体系的」という言葉の意味が、決定的に変わってしまった。しかし、「物語」としての「歴史」の記述/把握という営みは、少なからず行われてきたし、今も行われている。過去から現在を経て未来へと流 れてゆく「時間」というものが、そのあり方からして「物語」を要求してくる。「物語」とは、因果性の別名です。だからひとは「歴史」を書くつもりで、ついつい「物語」を書いてしまう。

【10】 しかしネット以後、このような一種の系譜学的な知よりも、「歴史」全体を「塊」のように捉える 、いわばホーリスティック(→本文の「注」→「全体的、包括的」)な考え方がメインになってきたのではないかと思うのです。これはある意味では C   「歴史」の崩壊でもあります。まず「現在」という「扉」があって、そこを開けると「塊」としての「歴史」がある。その「歴史」を大摑(おおづか)みに摑んでしまって、それから隙間を少しずつモザイク状に埋めていくことが、「歴史」の把握の仕方としては、今やリアルなのではないかと思うのです。

【11】先ほど「リテラシー」という言葉を出しましたが、リテラシーが機能していないと、何をわかってもらおうとしても空回りしてしまうことがあるので、最低限のリテラシーを形成するための啓蒙の必要性が、とりわけゼロ年代(→本文の「注」→「西暦2000年以降の最初の10年間」)になってからよく語られるようになってきました。たとえば芸術にかんしても、ある作家や作品に対する価値判断に一定の正当性を持たせるためには、どうしても啓蒙という作業が必要になってくるという意見があります。時間軸に拘束されない、崩壊した「歴史」の捉え方が、90年代以後、少しずつメインになってきて、僕はそれは基本的に良いことだと思っていたのですが、ゼロ年になってくると、その弊害も起こってきた。そのひとつの例が「意図的なパクり」だったりします。だから、ここまでくると、啓蒙も必要なのかもしれないという気持ちが、僕にも多少は芽生えてきました。けれども、やはり僕自身は、できれば啓蒙は他の人に任せておきたいのです。啓蒙を得意とする、啓蒙という行為に何らかの責任の意識を持っている人たちがなさってくれればよくて、僕はそれとは異なる次元にある、未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をやはりしたい。けれどもそれも今や受け手のリテラシーをある程度推し量りながらする必要がある。そこが難しい所であるわけですが。」

 

ーーーーーーーー

 

問4(傍線部説明問題) 傍線部C「『歴史』の崩壊」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

① インターネットによる情報収集の普及にともない、過去の出来事と現在の出来事との類似性を探し出すことが簡便にできるようになったため、両者の本質的な違いに着目することによって得られる解釈を歴史と捉える理解の仕方が成り立たなくなってしまったということ。

② インターネットによる情報収集の普及にともない、累積された過去に内在する多様性を尊重することが要求されるようになったため、多くの出来事を因果関係から説明し、それから構成された物語を歴史と捉える理解の仕方が人々に共有されなくなってしまったということ。

③ インターネットによる情報収集の普及にともない、過去の出来事を重要度の違いによって分類することができるようになったため、重要であるか否かを問題にすることなく等価なものとして拾い出された過去の出来事の集合体を歴史と捉える理解の仕方が根底から覆ってしまったということ。

④ インターネットによる情報収集の普及にともない、過去の個々の出来事を時間的な前後関係から離れて自由に結びつけられるようになったため、出来事を時間の流れに即してつなぐことで見いだされる因果関係を歴史と捉える理解の仕方が権威を失ってしまったということ。

⑤ インターンネットによる情報収集の普及にともない、累積された膨大な情報を時間の流れに即して圧縮したり編集したりすることが容易になったため、時間的な前後関係や因果関係を超えて結びつく過去と現在とのつながりを歴史と捉える理解の仕方が通用しなくなってしまったということ。

 

……………………………

 

解答・解説・問4

(問題の解答・解説)

 →選択肢は少々長いですが、「傷・ミス」を発見するようにしてください→「消去法」

 

 正解は④です。

 傍線部直前の「これ」は、直前の文の「『歴史』全体を『塊』のように捉える、いわばホーリスティック(「全体的、包括的」)な考え方」を、さしています。

 本来は、「歴史」を「時間軸」に沿った(「時間」が介在した)、「因果性」のある「物語」と捉えるべきです。

 これが、「系譜学的な知」です。

 ところが、「ネット以後」、「このような系譜学的な知よりも、『歴史』全体を塊のように捉える考え方がメインになってきたのではないか」、と筆者は主張しているのです。 

 

①は、「類似性を探し出すこと」の部分が、

②は、「過去に内在する多様性を尊重することが要求」の部分が、

③は、「過去の出来事を重要度の違いによって分類」の部分が、

⑤は、「因果関係を超えて結びつく」の部分が、

それぞれ、本文に、このような記述がなく、誤りになります。 

 ④は、「傷・ミス」がなく、「傍線線部、および、その前後」を言い換えているだけでなので、これが最も適当であり、正解となります。

 このように、各選択肢の「傷・ミス」をチェックしていくと、早く解答することができます。→「消去法」

 すぐに、選択肢を見るべきです。

 

(当ブログによる補充的解説)

〔1〕【  「『因果性』の軽視」は、「『論理性』の軽視」ということ】

 「因果性」、つまり、「原因・結果の流れ」を意識しないということは、「論理」を意識しないということです。

 これは、深刻で重大な問題です。

 「歴史の崩壊」だけでは、すまない問題です。

 「共同体」・「社会」・「人類」の「崩壊」、そして、「『ホモ・サピエンス(賢い人間)としての人間存在』の崩壊」につながる危険性があります。

 当ブログの第2回記事に取り上げた土井隆義氏の論考(『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』)の中に、「現代の若者たちは、自らのふるまいや態度に対して、言葉で根拠を与えることに、さしたる意義を見出だしにくくなっている。」という記述がありました。

 要するに、「現代の若者は、言葉を尊重しない」ということです。

 以上の点から考えると、これからの人間は「論理性」や「言葉」を軽視し、主に、動物のように、「本能」、「感性」、「直感」、「好き嫌い」で生きるのでしょうか?

 これも、一種の「反知性主義の蔓延」ということになるのでしょうか。

 

ーーーーーーーー 

 

問5 (キーワード説明問題) この文章全体を踏まえ、「啓蒙」という行為に対する筆者の考えをまとめたものとして最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

 

 正解は②です。②は、以下のような記述になっています。

 

②膨大な情報に取り囲まれ、物事の判断基準が見失われた現代では、正当な価値判断を行うためのリテラシーを形成する啓蒙という行為の必要性は高まり続けている、と筆者は思っている。しかし、みずからその作業を率先して担うよりは、好奇心を呼び起こすことで人が自力で新たな表現を生み出すよう促す側に身を置き続けたいと考えている。

 

 (解説)

【11】段落後半部の「啓蒙は必要」だが「啓蒙は他の人に任せておきたい」、「僕はそれとは異なる次元にある、未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をやはりしたい。」という記述がポイントになります。

①は、「単に他者を啓蒙するだけにとどまらず」の部分が、啓蒙はしないので、誤りです。

②は、上記の【11】の後半部分のポイント部分に合致しているので正しく、正解になります。

③は、「あえて地者を啓蒙する場にとどまり続けたい」の部分が、誤りです。

④は、「啓蒙という行為に積極的に関わる」の部分が、誤りです。

⑤は、「あえて啓蒙の意義を否定し」の部分が、誤りです。

 

以上からすると、問5は、標準レベルの問題です。

 

 ーーーーーーーー

 

問6 (文章表現説明問題)  この文章の表現に関する説明として適当でないものを、次の①~⑧のうちから二つ選べ。 

①  第1段落に出てくる「教えて君」「教えてあげる君」のような「君」付けの呼称は、それらの人たちに対する親しみではなく、軽いからかいの気持ちを示している。

②  第3段落の前半にある丁寧の助動詞「ます」がその段落の後半に出てこなくなるのは、読み手に対する直接的な気配りよりも内容そのものの説明に重点が移っているからである。 

③  第4段落の末尾の文中にある「そのこと」という指示表現は、それを用いず「なぜかよく似てしまうことの方が~」と続けた場合に比べて、次の段落への接続を滑らかにする働きをしている。 

④  第5段落の後半になって「~ない」という打消し表現が目立つようになるのは、同じ話題に関する議論を深めるために、肯定の立場から否定的な立場に転じて論じているからである。

⑤  第7段落の第4文で「しかしだからといって、~ありません。」は、第3文と同じく「しかし」という接続詞で始まっているが、どちらの「しかし」も第2文に対して逆接関係にあることを示している。

⑥  第8段落の第1文になって初めて「歴史」という語をカギカッコ付きで表示するようになったのは、従来の捉え方による歴史であることを際立たせるためである。

⑦  第10段落の第2文「これはある意味では~あります。」の「ある意味では」という表現は、一文全体を婉曲(えんきょく)な言い回しにするという働きをしている。

⑧  第11段落の第7文「啓蒙を得意とする、~したい。」の中の「なさって」という尊敬表現によって示される敬意には、その人たちに対して距離を置こうとする働きが含まれている。

 

 ……………………………

 

 (解説・解答)

この設問は、本文を読む前に見ておくと、効率的に問題を処理することができます。

 
①  筆者はネット上の「啓蒙」教え合いを問題視しています。「軽いからかい」という解釈は問題ないでしょう。 

②  第3段落後半から、筆者は自説を詳説しています。この②は正しいです。

③ 「そのことの方が」という表現は、直前を強調するためです。次の段落との接続を意識したものでは、ありません。この③は、適当では、ありません。

④  確かに、「~ない」という表現は多いですが、肯定の立場から否定の立場に転じてはいないので、この④は適当では、ありません。

⑤  この選択肢は正しいです。

⑥  カギカッコ付きの「歴史」は、「物語」、「因果性の別名」であり、それがネット社会の中で「崩壊」しているというのが筆者の主張です。従って、カギカッコ付きの「歴史」は「従来の捉え方による歴史」と言えます。正しいです。

⑦  この選択肢は問題ありません。

⑧  筆者の立場からすると、「啓蒙を得意とする」人たちは筆者とは「異なる次元」にいる人たちなので、「距離を置こう」としているという解釈は適切と言えます。

 

(解答)  ③・④ 

 

 (3)問題文本文の構成

 

【1】段落→筆者は、自分の知識より低いレベルに合わせてしまう「教えてあげる君」が、「教えて君」問題だと説明しています。

 

【2】段落~第【6】段落→盗作(パクリ)についてです。 筆者は、盗作が起こるのは、歴史の中に、潤沢な資産、溢れるばかりのストック、があるのが原因だと言っています。盗作の中には、偶然的なものと、意図的したものがあります。

  

【7】段落~【10】段落→盗作問題の解決方法について、筆者は、創作をしたら、過去に遡って同じような物がないかの検証をすることを提案しています。

 

【11】段落→最低限のリテラシーが機能しなくなったので、啓蒙の必要性が問題になっている。ネットの発達によって人々の「知」の在り方は変質し、系譜学的な知よりも、包括的なとらえ方がメインになった。それは良いことではあるのだが、既存の知識の積み重ねがないので、「意図的なパクリ」に気付かないなどの弊害も生じる。今は、筆者も啓蒙の必要を感じる。しかしながら、筆者は、啓蒙とは異なる次元にある、僕未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することを、やはりしたいと考えている。

 

(4)当ブログにおける「IT化社会」関連記事の紹介

 

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(5)当ブログにおける「反知性主義」関連の記事の紹介

 

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(6)当ブログにおける「センター試験国語(現代文・評論文)」関連の記事の紹介

  

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(7)佐々木敦氏の紹介 

佐々木敦(ささき・あつし1964年生まれ。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学卒業。批評家音楽レーベルHEADZ主宰。雑誌『エクス・ポ』編集発行人。

 

【著書】

『映画的最前線  1988-1993』(水声社・1993)

『カルト・ムービーズ  こだわりの映画読本』(キーワード事典編集部共編・洋泉社・1993)

『ゴダール・レッスン あるいは最後から2番目の映画』(フィルムアート社・1994)

『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社 2001)

『「批評」とは何か?  批評家養成ギブス』(メディア総合研究所・2008・ブレインズ叢書)

『ニッポンの思想』(講談社現代新書・2009)

『文学拡張マニュアル  ゼロ年代を超えるためのブックガイド』(青土社・2009)

『未知との遭遇   無限のセカイと有限のワタシ』(筑摩書房・2011)

『批評時空間』(新潮社・2012)

『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』(慶應義塾大学出版会・2014)

『ニッポンの音楽』(講談社現代新書・2014)

『ゴダール原論   映画・世界・ソニマージュ』(新潮社・2016)

『ニッポンの文学』(講談社現代新書・2016)

  

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今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

    

  

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未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

未知との遭遇【完全版】 (星海社新書)

 

 

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

 

 

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「極大化した不安 共に過ごす時間を」山際寿一・現代文明論

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 以下に紹介する山際寿一氏の論考(「極大化した不安 共に過ごす時間を」・耕論・〈私たちはどこにいるのか〉2017・1・1朝日新聞」)の一節、

「土地とも人とも切り離され、社会の中で個人が孤立している時代です。人類はどうやって安心を得たのか、生身の体に戻って確かめるために、霊長類学(→当ブログによる注→「文化人類学の一分野」)が必要とされているのでしょう」

は、私の心に響きました。

 最近では、文化人類学者、霊長類学者の、著作がかなり人気になっているようです。

 そして、長い間、文化人類学者、霊長類学者の論考は、入試頻出です。具体的には、青木 保、梅棹 忠夫、川田 順造、多田 道太郎、中根 千枝、波平 恵美子、正高 信男、山口 昌男、吉田 憲司、山際 寿一などの各氏の論考が、難関大学の入試現代文(国語)・小論文に頻出です。

 「人間とは何か」を考える際には、文化人類学の視点は重要であり、不可欠とさえ言えます。

 文化人類学者・霊長類学者のこれらの論考を熟読・精読することは、入試に役立つ上に、自分の人生の糧になります。

 最近、入試頻出著者である山際寿一氏の、上記の素晴らしい論考が発表されたので、今回は、この論考を、山際氏の他の著作等を引用しながら解説することにしました。

 

「サル化」する人間社会 (知のトレッキング叢書)

 

 

(2)「『極大化した不安 共に過ごす時間を』・山極寿一・耕論・〈私たちはどこにいるのか〉2017・1・1朝日新聞」の解説

 

(太字が山極寿一氏の論考です)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

【1】安心が消え、不安が極大化した時代。私はいまを、そうとらえています。

【2】人類の進化の歴史を振り返ってみましょう。アフリカでチンパンジーとの共通祖先から枝分かれしたのは700万年前。大型肉食獣に襲われる恐れのない樹上空間があり、実り豊かな熱帯雨林の中でした。450万年前頃からサバンナ(→「サバンナ」とは明瞭な雨季・乾季をもつ、熱帯・亜熱帯地方にみられる低木が点在する草原。雨季にはイネ科の高い草が茂る)へ進出した。霊長類ヒト科の中でヒトだけが世界中に散らばるきっかけです。サバンナは逃げ場がなく、さぞ不安だったでしょう。

【3】狩猟具を持ったのは50万年前、大きな獲物を協力して狩るようになったのは20万年前です。人類の歴史のほとんどは、肉食獣から逃げ隠れし、集団で安全を守り合う時間でした。安全イコール安心です。だから人間の体の奥底には、互いに協力しないと安心は得られないことが刻み込まれ、社会性の根深い基礎になっています。安心は決して一人では得られません。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「人類の歴史のほとんどは、肉食獣から逃げ隠れし、集団で安全を守り合う時間でした。

 の一文は、この論考の、最初のポイントになっています。

 この文については、『ヒトは食べられて進化した』 (ドナ・ハート著、ロバート・W・サスマン著、伊藤伸子訳・化学同人)が参考になります。

 本書には、

 「熱帯雨森を出て、サバンナ(草原)で生きる暮らすようになった初期人類は肉食獣に襲われ餌食にされた。肉体的に非力なヒトは、何とか生きのびるために知能と言語を発達させるしかなかった」

という記述があります。

 かなり、衝撃的な内容ですが、弱肉強食という自然界の掟の中で生きることの厳しさが、よく分かります。

 

 次に、「人間の体の奥底には、互いに協力しないと安心は得られないことが刻み込まれ、社会性の根深い基礎になっています。安心は決して一人では得られません。 」

については、山際氏の『人類進化論』に、より詳しい説明があります。

 以下に引用します。

「世界中の狩猟採取民を調査した人類学の結果から、狩猟採取民の社会は極めて平等であり、群れの内のメンバーは相互に助け合い、自己を犠牲にしても他のメンバーを仲間として助ける行動規範・社会規範が強いことが確認されている。そうでなければ生き残れなかったのが、狩猟採取生産段階の現実だった。助け合いルールが生活にインプットされていた。」 (『人類進化論』)

 

(当ブログによる解説)

 このことは、私たち人類の遠い祖先の話です。私たちの人類は、自己の生存のために、「助け合いルール」を不可欠のものとしていたのです。この点からみると、自己、アイデンティティ、自己主張、自己実現、個性尊重などは、副次的なものであることは、明白でしょう。生存が確保されて、初めて、これらの副次的なものは問題になるからです。このことを、現代の日本社会は誤解しているようです。反知性主義の蔓延、幼児化現象の蔓延と言えるでしょう。

 

ーーーーーーーー 

  

(山極寿一氏の論考)

【4】安心をつくり出すのは、相手と対面し、見つめ合いながら、状況を判断する「共感力」です。類人猿の対面コミュニケーションを継承したもので、協力したり、争ったり、慮(おもんぱか)ったりしながら、互いの思いをくみ取って信頼関係を築き、安心を得る。

【5】脳の大きさは、組織する集団の人数に比例します。構成人数が多いほど高まる社会的複雑性に、脳が対応しました。現代人と同じ脳の大きさになったのは60万年前で、集団は150人程度に増えていました。言葉を得たのは7万年前ですから、言葉なしに構築した信頼空間です。日頃言葉を駆使し、人間関係を左右していると思うのは、大きな間違いです。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「言葉を得たのは7万年前ですから、言葉なしに構築した信頼空間です。日頃言葉を駆使し、人間関係を左右していると思うのは、大きな間違いです。 」

については、山際氏は、『季刊・考える人』 (2015年冬号・新潮社)の中で以下のように、さらに詳しく述べています。

「  家族やコミュニィを支えてきたのは、言葉ではなかった。言葉以前のコミュニケーションによる付き合い方だったと思います。そして、それは、今でも、同じなのです。人間関係については、だんだんと視覚を使うコミュニケーションが減って、逆に、遠距離間のコミュニケーション、相手の顔が見えないコミュニケーションがふえてきた。もう一つ言えば、視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚の五感のうち、触覚を使ったコミュニケーションは、人間のコミュニケーションのなかで非常に重要だった。だが、そういう接触を頻繁に使ったコミュニケーションも薄れてきました。もともと、人間は会うことでお互いの信頼関係を高め、維持してきたわけですが、今はそのことそのものが省略されるようになっている。食事もそう。昔は長い時間をかけて食事の準備をし、そして長い時間をかけて、みんなで楽しく語らいながら食べるものでした。家族の団欒というのは、必ず食事の席にあったのです。」(『季刊・考える人』)

 

 そして、「家族の崩壊」について、山際氏は、『家族進化論』の中で、

「霊長類の集団でのコミュニケーションの基本は、歌と身振りであり、人間でもそれは言葉以上に信頼や安心をもたらす効果を持つ。今、家族の崩壊が見られるのは、この対面でしか成立しないコミュニケーションが希薄になっているからだ」(『家族進化論』)

と主張しています。

 

 私(斎藤隆)は、卓見だと思います。

 IT化が進行している現代社会においてこそ、「対面でしか成立しないコミニュケーション」の再評価・見直しをしていくべきでしょう。

    

 ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【6】現代はどうでしょう。集団とのつながりを断ち、集団に属することで生じるしがらみや息苦しさを軽減する。次々にマンションが建ち、個人は快適で安全な環境を得ましたが、地域社会の人のつながりはどんどん薄れた。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 上記の論考に関連して、山際氏は、『「サル化」する人間社会』の中で、以下のように、人間社会における「極端な個人主義化」を、「人間のサル化」と同視しています。

 「ゴリラの社会には上下関係や「負け」がない。喧嘩をしても敗者を作らない。誰も負けない状態で問題を解決する。誰も勝たない、誰も負けない、ということは、優劣をつけず、全員が対等であるというルールがあるからです 

 一方、サルは個人の利益優先の序列社会で、平等とは無縁です。自分より強いサルの前では、決して食べ物に手を出さない。食べているところを見られると、優位なサルに食べ物を取られてしまう。食べる時は分散し、互いに目が合わないようにします。サル社会では、相手の目を見ることは威嚇をあらわすことになります。従って、サル社会は食べ物を分かち合うことは出来ない。サルは群れてはいるが、所属する集団に愛着を持たないのです。

 人間が勝負にこだわり、個人の利益ばかりを追求し、家族や共同体に愛着を持たないようになれば、それはゴリラ社会よりもサル社会に近くなったことになります。スマホ・テレビで気分転換をして、一人暮らしが良いとなると、家族や共同体への愛着は消えて行くでしょう。」(『「サル化」する人間社会』)

 

(当ブログによる解説)

 この、「ゴリラ的社会→サル的社会」の変化という視点は、説得力があります。

 確かに、現代社会は、ある意味で非人間的な、「個人の利益優先の序列社会」になりつつあるようです。

 「グローバル化」は、まさに、そういう方向への変化です。

 「個人の利益優先の序列社会」は、特に、東京、大阪のような大都会で、顕著に見られる現象です。

 

 ちなみに、本書の主張は、『「サル化」する人間社会』 というタイトルに明示されています。著者によれば、家族が解体が進行し、個人主義的傾向が強くなっている現代文明において、ヒトの社会は「サル化」の傾向が顕著です。そして、このような現代社会においては、優劣を基準とした序列社会化が進み、平等の価値、信頼関係の価値が低下する可能性が高いと予測しているのです。このような人類の危機的未来に対して、著者は本書を通し、疑念を提示しているのです。

 

 ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【7】直近では、人々はソーシャルメディアを使い、対面不要な仮想コミュニティーを生み出しました。現実世界であまりにもコミュニティーと切り離された不安を心理的に補う補償作用として、自己表現しているのかも知れません。でも、その集団は、150人の信頼空間より大方は小さく、いつ雲散霧消するかわからない。若者はますます、不安になっています。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

    上記の論考に関連して、山際氏は、『「サル化」する人間社会』の中で、「IT化社会の問題点」を鋭く指摘しています。

 以下に引用します。

「  IT化によって、対面的なコミュニケーションが失われかけていることは、人間社会に大きな影響を与えます。人間の脳が許容できる集団の最大の人数は150人程度であり、これをマジックナンバーと言います。この程度の人数なら、人間はそれぞれの顔と性格を覚えていられます。 しかし、フェイスブックでは友達の数が400人、500人という人も珍しくはありません。若い世代ほど友達の数は増え、1000人、2000人とつながっている人もいます。果たして、それを人間は受け止めることができるのだろうか?  私には疑問です。」(『「サル化」する人間社会』)

 

 上記においては、山際氏は、現代の情報化社会、IT化社会の中では、真の「信頼関係」の構築は無理ではないのか、と主張しているのです。

  

 「信頼関係を作るには、視覚や接触によるコミニュケーションに勝るものはない」

 ことについては、山際氏は『「サル化」する人間社会』の中で、以下のような主旨の内容を述べています。

「人間は、生身の体をなかなか乗り越えられないものです。生物学的な体と生物学的な心が常に基盤にあり、昔からその部分はあまり変化していま せん。現在はインターネットが隆盛し、生身ではないコミュニケーション に傾いていますが、どこかで自然回帰的な動きが生じてくるだろうと思います。

 SNSを通して、ボランティアや会食の場がセッティングされたり、あるいはセミナーのような行事が開かれたりしているのは、直接顔を合わせることの重要度を感じている人が増えていることの表れではないでしょうか。」(『「サル化」する人間社会』)

 

(当ブログによる解説)

 上記の「直接顔を合わせることの重要度」については、確かに、最近は再評価されているようです。例えば、マドンナなどの欧米の歌手達が、最近は、ライブのコンサートに力を入れ始めているようです。

 

  ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考) 

【8】クリスマスを一人で過ごす若者の中に「一生懸命働いた自分へのご褒美 」に、自分に高級レストランを予約する人もいると聞いて考え込んでしまいます。人間は他人から規定される存在です。褒められることで安心するのであって、自分で自分を褒めるという精神構造をずっと持たなかった。それがいま、少なからぬ人々の共感を呼んでいる。やはり人間関係が基礎部分から崩れていると感じます。

 

  ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

  「自分へのご褒美」は、「承認欲求」の論点に関連しています。

  「承認欲求」、つまり「他者による『自己のアイデンティティの承認』」については、当ブログで最近、解説しました(→「予想問題ー労働観・自己・『人はなぜ働かなくてはなりないのか』小浜逸郎 」)

 その記事のポイントを再掲します。

 

 ………………………………

 

 「人間が自分のアイデンティティを承認されるためには、労働が必須条件、言い換えれば、必要条件だ」と言うことです。

 「労働」は、賃金を得るためだけのものではないのです。

 自分の、人間としての「アイデンティティ」を他者に承認してもらうために、あるのです。

 逆に言えば、自分の「アイデンティティ」を、他者に承認され、尊重されるためには、自分の労働を丁寧に遂行する必要がある、ということになります。

(再掲終了)

 

 ………………………………

 

 (当ブログによる解説)

 また、鷲田清一も、『「聴く」ことの力』の中で、「他者による自己承認の価値」を力説しています。

 この点については、最近の当ブログの記事(→「予想問題『じぶん  この不思議な存在』鷲田清一・ 他者の他者としての自分」) で発表したので、以下に再掲します。

  

………………………………

 

「  だれかに触れられているということ、だれかに見つめられていること、だれかからことばを向けられているということ、これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、いいかえると『他者の他者』としてじぶんを体験するなかではじめて、その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、他者によって見出されるものとしてある。」 

「  『わたし』、という(一般的な、社会的な)言葉を使うときわたしという存在はすでに集団の中に消えていく。『わたし』が『わたし』を見つけられるのは、『他者から他者として見られたときだけ』である。」(『「聴く」ことの力』)

(再掲終了)

 

 ………………………………

 

(当ブログによる解説)

 要するに、「他者の他者として自己」と「他者」の「関係」は、「自他の補完性」、あるいは、「自己と他者の関係性」とみることができます。

 

 「自分へのご褒美」が、いかに奇妙で歪んでいるものか、は以上の論考を熟読すれば、よく分かると思います。

 「人間は他人から規定される存在です。褒められることで安心するのであって、自分で自分を褒めるという構造をずっと持たなかった。

と、山際氏が述べるのは、当然のことなのです。

 

 なお、小浜逸郎氏も鷲田清一氏も、トップレベルの入試頻出著者です。上記の論考も、よく理解しておいてください。下に、リンク画像を貼っておきます。

 

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  ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【9】土地とも人とも切り離され、社会の中で個人が孤立している時代です。人類はどうやって安心を得たのか、生身の体に戻って確かめるために、霊長類学が必要とされているのでしょう。

【10】大気汚染や原発事故など、安全と安心を与えてくれると期待された科学技術への信頼は低下しました。一方で遺伝子を組み換えて食料の生産性を上げ、AI(人工知能)は人間の思考力を早晩上回るという。自ら開発したものを制御できるのか、「人間はこのままでいられるか」という、壮大な不安のただ中にいる。しかも、その不安を解消する手段を持ちません。

【11】ビジネスも、不安をあおり立てることで成り立っています。保険や防犯システムに限りません。「ファッションが流行遅れかも」といった、他人から下に見られるかもしれない、社会の負け組になるかもしれないといった不安を、企業はあの手この手で刺激し、解消策を商売のタネにする。

【12】種々の不安は大きくなり続け、とどまることがない。「不安の極大化」とは、そういう意味です。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「種々の不安」については、上記の山際氏の指摘したもの以外に、さらに多くものが挙げられるでしょう。

 具体的には、地球環境問題、大地震、自然の脅威、デフレ経済の悪化、現代資本経済の崩壊、国家財政の破綻の不安、高齢化社会、国防問題、福島原発事故などです。

 もっとも、いつの時代にも、不安はあったはずです。情報化社会により、マイナス情報が氾濫しているために、「不安が極大化」している側面もあるのでしょう。

 それにしても、確かに、各個人にとって、現代は、かつてないほどの「不安の極大化」している時代と言えるのです。

 

 なお、「霊長類学の定義」について、ここで解説します。

 霊長類学は、ヒト以外の霊長類を対象とした学際分野のことです。ヒトは、霊長類の一種です。したがって、種々の霊長類を調べることは「人間とは何か」という問いに迫ることでもあります。霊長類学の研究は、動物行動学、生態学、遺伝学、心理学、文化研究、社会学などと方法論を一致しています。しかし、研究手法について特に決まったやり方があるわけではないようです。霊長類学の研究は薬理的、外科的実験を伴う解剖学的研究、野生状態での行動や生態に及びます。霊長類学は、人類の進化の理解に多大な貢献をもたらしています。日本では、モンキーセンター (愛知県犬山) や,京都大学付属・霊長類研究所が創設されるにつれて,霊長類学は、最近急速に発展しています。

 

 ーーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【13】人々が信頼をつむぎ、安心を得るために必要なのはただ一つ。ともに時間を過ごすことです。その時間は「目的的」(→目的的とは「目的のために、目的に沿った」という意味)であってはなりません。

【14】目的的とは「価値を得られるように過ごす」こと。いまは短時間でより多く価値を増やすことが求められますが、安心を得るのに必要なのは、見返りを求めず、ただともに過ごすこと。互いに相手に時間を捧げる。赤ちゃんに対するお母さんの時間がよい例です。

【15】昨今は同窓会ブームだそうですが、長い時間をともにした同級生となら、顔を合わせるだけで信頼関係を取り戻せる。心の底に安心できない自分がいる裏返しです。

【16】類人猿にはない、人類の進化の謎の一つに「プラトニックラブ」があります。子を残せないから生物学的にはムダなのに、熱い情熱と長い時間を注ぐのは、思い合うことが信頼や安心をもたらしてくれるから。人間は、一人ではどうにも生きられない存在なのです。

 

  ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 「人間は一人では生きられない存在」

に関連して、山際氏は、2014年9月28日の『東京新聞』で以下のように述べています。

 味わい深い文章です。ぜひ、じっくり読んでみてください。

「人間がサルと違うのは、社会や集団のために何かしたいと思えること。そこに自分が加わっている幸福感が、いろんな行動に駆り立ててきたんです。サルは自分の利益を最大化するために集団をつくります。今は人間も自分の利益を増やしてくれる仲間を選び、それができなくなったら仲間はいらない、となっています。人間とゴリラは五感がほとんど変わりません。そういう五感を中心につくられる社会には、それほど大きな差はないと思います。ゴリラの群れは十頭前後で、これを共鳴集団というんですが、人間でも家族やスポーツチームがこれにあたります。仲間の癖、性格を心得ているから、試合に出れば、声はかけるけれど言葉は交わさない。何を求めているか、目配せでわかる。われわれは家族や、家族のように親しく接している人との共鳴集団があることで安らぎや幸福感を得ていると思います。

 

   ーーーーーーー

 

(山極寿一氏の論考)

【17】グローバル化で社会が均一化すると、逆に人々の価値観は多様化する方向へ向かいます。個人が複数の価値観を備え、自分が属する複数の集団でそれぞれのアイデンティティーを持つようになります。そうした時代には、五感をフル出動させた人間関係のつくり方がさらに重要になるでしょう。

 

   ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 「グローバル人材育成」について、山極氏は、『京大式 おもろい勉強法』(朝日新書)の中で、以下のように述べています。

 グローバル化、高度消費社会、IT 化社会、マスメディアなどに翻弄されている、私たち社会人にも参考になる見解だと思います。

「モノにしても、人にしても、交流は多岐にわたっている。昔に比べたら、考えられないほどの勢いで、多様な物が私たちの目の前を通り過ぎています。つまり、多様なものを認めつつ、自分というものをきちんと持っていないといけない時代をすでに迎えていると言えます。私は、それこそが重要なグローバル人材の素養だと思います。多様なものの存在を認めつつ、それを自分にうまく合わせつつ、なおかつ自分を失わずにいることができる人間。こういう素地は対話力のなかから鍛えられます。いろいろな人と会い、同調しながらも、自分が信じている、あるいは自分の身にまとっている教養をきちんと表現できる。そのためには、自らのアイデンティティをしっかり持つこと(→自己確立、アイデンティティ確立)です。

「グローバル人材とは、みんなにおもろいやんと言わせる人です。柔軟に他者を受け入れつつ、自己を鍛えて表現する。まわりを『おもろい』と思わせ、人を動かす対人力を身につけることが必要ではないか。」(『京大式おもろい勉強法』)

 

京大式 おもろい勉強法 (朝日新書)

京大式 おもろい勉強法 (朝日新書)

 

 

 

 以下は、当ブログにおける「文化人類学」・「霊長類学」関連記事、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」関連記事の紹介(リンク画像)です。

 「文化人類学」・「霊長類学」、「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」は、いずれも、最近の流行・頻出論点です。

 

(3)当ブログにおける「文化人類学」・「霊長類学」関連記事の紹介

 

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(4)当ブログにおける「IT化社会のマイナス面」・「IT化社会の影・闇」関連記事の紹介

  

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(5) 山際寿一氏の紹介

 

山極寿一(ヤマギワ  ジュイチ) 1952年、東京都生まれ。霊長類学・人類学者。京都大学総長。京都大学理学部卒、京大大学院博士課程単位取得退学、理学博士。人類進化を研究テーマに、ゴリラを主たる研究対象にして人類の起源をさぐる。ルワンダ・カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンターのリサーチフェロー、京大霊長類研究所助手、京大大学院理学研究科助教授をへて同教授。2014年10月から総長。

日本アフリカ学会理事、中央環境審議会委員、日本学術会議会員、国立大学協会副会長。

 

【著書】

『森の巨人』(歩書房・1983年)

『ゴリラ   森に輝く白銀の背』(平凡社・1984年)

『ゴリラとヒトの間』(講談社現代新書・1993年)

『ゴリラの森に暮らす  アフリカの豊かな自然と知恵』(NTT出版・1996年)

『父という余分なもの  サルに探る文明の起源』(新書館・1997年・のち新潮文庫)

『ゴリラ雑学ノート 「森の巨人」の知られざる素顔』(ダイヤモンド社・1998年)

『ゴリラ』(東京大学出版会・2005年)

『暴力はどこからきたか   人間性の起源を探る』(日本放送出版協会・NHKブックス・2007年)

『家族進化論』(東京大学出版会・2012年)

『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル・知のトレッキング叢書・2014年)

『ゴリラが胸をたたくわけ』(福音館書店・たくさんのふしぎ傑作集・2015年)

『京大式おもろい勉強法』(朝日新書・2015年)

『現代思想 2017年3月臨時増刊号  総特集◎人類学の時代  ムック』(共著・青土社・2017年)

『現代思想 2017年6月号 特集=変貌する人類史  ムック』 (共著・青土社・2017年)

『都市と野生の思考 』(共著・集英社インターナショナル インターナショナル新書・2017年)

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わります。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

  

   

 

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「サル化」する人間社会 (知のトレッキング叢書)

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人類進化論 霊長類学からの展開

人類進化論 霊長類学からの展開

 

 

朝日新聞デジタル

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「広告の形而上学」岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 現在は、消費動向の低迷、不景気、デフレ経済、経済のグローバル化、新自由業主義的経済など、様々な経済的論点が、現代文(国語)・小論文で問題化しています。 

 こういう時には、経済学の基本的な論点、特に、「消費社会」・「広告」の基礎理論などが出題されることが多いようです。
 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、入試頻出著者・岩井克人氏の、頻出出典     『ヴェニスの商人の資本論』の中の「広告の形而上学」についての解説記事を書きます。
 題材としては、最近の関西学院大学現代文(国語)の過去問を使用します。

  

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

 

(2)「広告の形而上学」(『ヴェニスの商人の資本論』)岩井克人ー関西学院大学・国語(現代文)・過去問の解説

 

 

(岩井克人氏の論考・問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

 

【1】マルクスはどこかで、商品世界のなかにおける貨幣 の存在は、動物世界のなかでライオンやトラやウサギやその他すベての現実の動物たちと相並んで(1)  「動物」なるものが闊歩しているように奇妙なものだと書いている。貨幣とは、それによってすベての商品の価値が表現される一般的な価値の尺度でありながら、同時にそれらの商品とともにそれ自身人々の需要の対象にもなるという(2)二重の存在なのである。

【2】「広告の時代」とまで言われている現代において、広告とは一見自明で平凡なものに見える。だが、その実、広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。 

【3】英語のどの受験参考書にも例文としてのっているように、"The proof of the pudding is in the eating."  すなわち、プディングであることの証明はそれを食べてみることである。だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、プディングは普通お金で買わなければ食べられない。(買わずに食べてしまったら、それは食い逃げか万引きである。)プディングがプディングであることの証明、いや、プディングがおいしいプディングであることの証明は、お金と交換にしか得られない。 

【4】たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを買おうかと考えているとき、あるいは喫茶店でプディングを注文しようかどうか考えているとき、人はプディングそのものを比較しているのではない。人が実際に比較しているのは、ウィンドーの中なかのプディングの外見であり、メニューの中のプディングの写真であり、さらには新聞、雑誌、ラジオ、テレビ等におけるプディングのコマーシャルである。これらはいずれも広い意味でプディングの[ 3 ]にほかならない。

【5】すなわち、資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告と媒介を通じてはじめて商品を比較することができるのである。

【6】資本主義社会とは、マルクスによれば「商品の巨大なる集合」である。しかし、広告を媒介にしてしか商品を知りえない消費者にとって、それはまずなによりも「広告の巨大なる集合」として立ち現れるはずである。そして、この広告の巨大なる集合の中において、あらゆる広告は広告として同じ平面上で比較され競合する。

【7】もちろん、広告とはつねに商品についての広告であり、その特徴や他の商品との差異について広告しているように見える。だが、人がたとえばある洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、あるいは、ある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、それは広告されているプディング同士の差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に、「広告の巨大なる集合」の中における (4)広告それ自体のあいだの差異を問題にしているのである。

【8】広告と広告とのあいだの差異ーそれは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえ、それは、たとえばセンスの良し悪しとか迫力の有る無しとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち(5)客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれる。

【9】だが、広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動の拠って立つ基盤なのである。

【10】言語についてソシュールは、「すべては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み出す」と述べているが、それはそのまま広告についてもあてはまる。差異のないところに価値は存在せず、差異こそ価値を生み出す。もし広告が単に商品の媒介にすぎず、広告のあいだの差異がすべて商品のあいだの差異に還元できるなら、企業にとってわざわざ広告活動をする理由はない。企業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつからではなく、逆にそれがそのよう(6)客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出してしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつのである。 

【11】ところで資本主義においては、いかなる価値もお金で売り買いできる商品となるといえる。それゆえ、当然広告も商品となる。いや、実際、広告に関連する企業支出はGNPの1パーセント近くも占めている。これは、現代ではあまりにも身近な事実であり、人をことさら驚かせはしない。だが、それはその実、本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他の商品とともに売り買いされてしまうという、まさにライオンやトラやウサギとともに動物なるものが生息している光景とその奇妙さにおいてなんら変わるところのない形而上学的な逆説なのである。

【12】貨幣についての真の考察は、それが形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きから始まった。広告が形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きーそれは、広告についての真の考察の第一歩である。いや、少なくともそれは、広告という現象の浅薄さをただ糾弾したり、広告という現象の華やかさとただ戯れたりする言説に溢れている現代において、いささかなりとも差異性をもった言説を作り出すはずのものである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  傍線部(1)「「動物」なるものが闊歩している」とあるが、筆者は動物にカギ括弧をつけることによって、どのようなことを強調しているのか。次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  固有名詞と普通名詞とが混在していることを強調している。
ロ  非現実的な生態系に分類していることを強調している。
ハ  概念的な存在として独立していることを強調している。
ニ  種類の異なる動物が現実社会にいることを強調している。
ホ  現実の動物と観念としての動物とが名辞を共有していることを強調している。

 

問2  傍線部(2)「二重の存在なのである」とあるが、それを広告についてどのように説明しているか。問題文中から55字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。


問3  空欄3に入る最適な語を、次の中から一つ選べ。

イ  商品    ロ  証明    ハ  味覚
ニ  本質    ホ  広告    ヘ  虚像

 

問4  傍線部(4)「広告それ自体のあいだの差異」の本質を筆す者はどのように理解しているのか。次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  商品と商品とのあいだの差異
ロ  客観的対応物を欠いた差異
ハ  センスの良し悪しにかかわる差異
ニ  表面上で比較される差異
ホ  広告の宿命としての差異

 

問5  傍線部(5)「客観的対応物を~あらわれる」とあるが、このことによって広告は何を得るといえるのか。問題文中から25字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。

 

問6  傍線部(6)「客観的対応物」は、どのように言い換えられているか。次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  価値の尺度
ロ  逆説的存在
ハ  巨大なる集合
ニ  商品という実体
ホ  華やかな現象


問7  問題文において述べられている「広告」の意味として、次の中から最適なものを一つ選べ。

イ  広告と広告との差異には、違うから違うとしか言いようのない「過剰」差異がある。
ロ  広告は商品の価値を比較することに意味があり、それ以上の付加価値はほとんどない。
ハ  広告と広告との差異は本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に依拠するものであるといえる。
ニ  資本主義社会の中にあって消費者は広告という媒介だけでは商品そのものの比較が出来なくなっている。
ホ  広告とはつねに商品についての広告であるとともに商品同士の差異性だけを問題にしている。

 

問8  問題文の内容と合致しているものを次の中から二つ選べ。

イ  形而上学的な現代は、広告の華やかさと戯れによって窒息状態に陥っている。
ロ  資本主義社会においては、プディングは広告の媒介によって等価交換される。
ハ  商品同士の差異よりも広告同士の差異が、資本主義社会では問題にされる。
ニ  広告の巨大なる集合の中には、客観的な商品それ自体の過剰な差異がある。
ホ  差異性こそが商品の過剰なる価値を生み出し、企業の広報活動をうながす。
ヘ  商品世界における貨幣は、形而上学的な奇妙さに満ちた逆説的な存在である。


問9  問題文の表題として最適なものを次の中からを一つ選べ。

イ  広告の形而上学
ロ  広告の付加価値
ハ  広告の比較検討
ニ  広告の経営戦略
ホ  広告の商品価値


ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1 (傍線部説明問題)

    「貨幣」が「商品価値の尺度となる性質」(抽象性)を持ちながら、「具体性」・「独立性」を有している「商品」と同じように、「需要の対象にもなる性質」を持っているということです。
(解答)  ハ


問2 (傍線部説明問題・記述式問題)

 まず、この設問を見てから本文全体を読むべきでしょう。

 第一に、傍線部直前の「貨幣とは、それによってすベての商品の価値が表現される一般的な価値の尺度でありながら、同時にそれらの商品とともにそれ自身人々の需要の対象にもなる」に注目して、「二重の存在」の意味を押さえてください。

 その上で、【11】段落の「資本主義においては、いかなる価値もお金で売り買いできる商品となるといえる。それゆえ、当然広告も商品となる。それは、本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他の商品とともに売り買いされてしまうという、形而上学的な逆説なのである。」の部分に着目してください。

(解答)  本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他の商品とともに売り買いされてしまう(51字)


問3 (空欄補充問題)

 直前の具体例を総合的に見て、選択肢の中のどの表現がベストか、を考えてください。

 すぐに、選択肢を見て、考えるべきです。

(解答)  ホ


問4 (傍線部説明問題)

 直後の【8】段落で、具体的で丁寧な説明をしています。【8】段落を再掲しておきます。

「広告と広告とのあいだの差異ーそれは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえ、それは、たとえばセンスの良し悪しとか迫力の有る無しとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれる。」

(解答)  ロ
 
問5 (傍線部説明問題・記述式問題)

 設問文の「何を得る」がヒントになっています。

    「広告それ自体」の価値を記述している部分を、ピックアップしてください。

  【10】段落に着目してください。特に重要な部分を再掲します。

「差異のないところに価値は存在せず、差異こそ価値を生み出す。企業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、広告とは、逆にそれがそのよう客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出してしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつのである。」

(解答)  商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつ(22字)

 

問6 (傍線部説明問題)

 傍線部直前の「そのような」に注意して、直前の「広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつからではなく」に着目するべきです。

(解答) ニ

 

問7 (キーワード説明問題・趣旨合致問題)

 この設問も、本文を精読・熟読する前に見ておくべきです。

  【8】段落に、「広告の本質」についての記述があります。

 この設問に関係するのは、以下の部分です。

「広告と広告とのあいだの差異ーそれは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。」
(解答)  イ


問8 (趣旨合致問題)

 この設問も、本文を精読・熟読する前に見ておくべきです。

 ハ・へ以外の選択肢には、本文にない記述が含まれているので、誤りです。

 

→【10】段落に着目してください。

 特に重要なのは、以下の部分です。

「広告のあいだの差異がすべて商品のあいだの差異に還元できるなら、企業にとってわざわざ広告活動をする理由はない。企業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつからではなく、逆にそれがそのよう客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出してしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値をもつのである。」


→【1 】・【 2 】・【12】段落に注意してください。

 特に、重要な部分は、以下の部分です。

「広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。」(【2】段落)、

「貨幣についての真の考察は、それが形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きから始まった。」(【12】段落)


 ここで「形而上学的」について解説します。

 「形而上(けいじじょう)」とは「抽象的・精神的なもの」という意味です。
 「形而上学」とは「物事の存在の根本原理を研究する学問」「思想」「哲学」と意味になります。
 主に、「哲学」の意味で使われるようです。本問でも、この意味で使われています。


 「形而上学」は英語で「metaphysics(メタフィジックス)」といいます。metaは「上」・「超」の意味です。
 physicsは「物理学」の意味。物理学は物の特性などを探求する学問分野。
 すなわち、「形而上学」は、physicsの上の視点から、物それ自体でなくて、物を相対化・抽象化して本質を見直すことを試みよう、とする学問です。

 この単語は、入試頻出事項ですが、案外と盲点になっています。

 

 次に、「逆説的」について解説します。

 意味としては、次の二つがあります。

① 一見、真理に反するようにみえるが、一面の真理を示している表現。例として「急がば回れ」などがある。パラドックス。

② ある命題(→「判断内容」)から正当な推論によって導き出されているようにみえるが、結論で矛盾を含む命題。逆理。パラドックス。

 

 本文設問では、のニュアンスが強いとみてよいでしょう。 

(解答)  ハ・ヘ


問9 (表題選択問題)

 この設問も、本文を精読・熟読する前に見ておくべきです。

【2】・【12】段落に注目してください。特に重要な部分は、以下の部分です。

【2】段落の「現代において、広告とは一見自明で平凡なものに見える。だが、その実、広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。」

【12】段落の「広告が形而上学的な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きーそれは、広告についての真の考察の第一歩である。それは、現代において、いささかなりとも差異性をもった言説を作り出すはずのものである。」

(解答)  イ

 

ーーーーーーーー 

 

【要約】 

 広告は形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在である。そのことへの驚きは、広告についての真の考察の第一歩である。この考察は、現代において、広告という現象について、いささかなりとも差異性をもった言説を作り出すはずのものである。

 

(3)当ブログにおける「消費社会」・「広告」関連の記事の紹介

 

 「消費社会」・「広告」は、頻出論点です。

 下の記事を、ぜひ、参照してください。

 

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(4)岩井克人氏の紹介

 

岩井 克人(いわい かつひと、1947年生まれ ) 日本の経済学者(経済理論・法理論・日本経済論)。学位はPh.D.(マサチューセッツ工科大学・1972年)。国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、公益財団法人東京財団名誉研究員、日本学士院会員。

 

【著書】

『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房・1985年、ちくま学芸文庫・1992年)

『不均衡動学の理論』(岩波書店・1987年)

『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)

『資本主義を語る』(講談社・1994年、ちくま学芸文庫・1997年))

『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房・2000年、ちくま学芸文庫・2006年)

『会社はこれからどうなるのか』(平凡社・2003年、平凡社ライブラリー・2009年)

『会社はだれのものか』(平凡社・2005年)

『IFRSに異議あり』(日本経済新聞出版社・2011年)

『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社・2015年)

 

 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

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ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

 

 

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

 

 

経済学の宇宙

経済学の宇宙

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「シン・ゴジラ」御厨貴・「戦後」と「災後」・東日本大震災

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 最近になって、2016年度の大ヒット映画「シン・ゴジラ」に関する、哲学的・政治学的・社会学的な本質的論考が、出揃ってきました。

 入試現代文(国語)・小論文の流行・頻出論点にとどまらず、私たちの人生に大きな影響を与えた東日本大震災・福島原発事故に、「シン・ゴジラ」は関連しています。

 東日本大震災・福島原発事故は、当ブログの第1回記事「開設の言葉」に記述したように、当時ブログの中心テーマです。→下のリンク記事を参照してください。

 東日本大震災・福島原発事故に関連する論点は、今年、2017年度のセンター試験国語、東大国語に出題されているように、流行・頻出論点です。

 

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 来年の大学入試では、

①  「シン・ゴジラ」の哲学的・政治学的・社会学的論考、

②  東日本大震災後の価値観の転換(→今回の記事では「災後」)、

は、要注意です。

 そこで、今回の記事では、大学入試現代文(国語)・小論文対策として、頻出著者である政治学者・御厨貴氏の論考、つまり、

①  「ゴジラとどう立ち向かう」(「地球を読む」・読売新聞2016・9・18)、

②  「『戦後』が終わり、『災後』が始まる」(『中央公論』2011・11月号)、

の解説をします。

 

 

別冊アステイオン 「災後」の文明

 

(2)「ゴジラとどう立ち向かうー非常時の危機対応」 御厨  貴・地球を読む・読売新聞2016・9・18

 

(御厨貴氏の論考→太字部分です)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

【1】「この国はまだまだやれる」。映画「シン・ゴジラ」の中で、ゴジラ対策の任を負った官邸の政治家・矢口蘭堂のセリフに、ホッとした。今、社会現象となった話題の映画「シン・ゴジラ」は、大人の鑑賞に堪える、いや大人向けの政治映画である。スクリーンに2時間くぎ付けとなること間違いなしだ。

【2】始まってすぐ、これは3・11東日本大震災と福島原発事故、そして日米安全保障条約が絡んだ物語だと誰しも分かる。この5年間を経験した日本人につきつけられた「非常時にどう立ち向かうか」の問いに、見る者は待ったなしの感覚を持たされる。これ、考えないようにしてきたなと。 

 
 今回のこの映画は、シン・ゴジラが東日本大震災・福島原発事故の暗喩であることを、堂々と出してきています。


 この作品は、「3・11東日本大震災とは何だったのか」を、改めて問い直したものです。この作品は、大震災当時の官邸・自治体・自衛隊の行動、米国からの働きかけ等を、かなり、なぞっているようです。その上で、この作品は、仮想的「災害」への対応のシミュレーションを示すばかりではなく、さらに、一応の解決がなされた後の不安定な状況と、将来の展望まで提示しようとしている野心作と言えるでしょう。

 

 『シン・ゴジラ』は、今までの一連のゴジラシリーズの、単なる最新作には、とどまりません。この映画には、現代日本のすべての緊急かつ重要な問題が詰め込まれています。

 この映画で、監督は、何を描こうとしているのでしょうか? 想定外の巨大災害への畏怖・対応だけではないでしょう。日本の対米従属的外交政策、細分化されている縦割り行政、日本人の事なかれ主義、強力なリーダーシップの不在など、日本の病的側面を告発しようとしている感じです。

 

 それでは、『シン・ゴジラ』はなぜ、大ヒットしたのでしょうか?

  「東日本大震災」の発生以来、自然災害や放射能被害への意識は大きく高まりました。しかも、将来的には「東南海大地震」の発生が懸念されています。

 そのような災害への不安と、災害や核の象徴とも言えるシン・ゴジラの存在が、これまでになくマッチしたのも、今回のヒットの要因になっていたかと思います。描写自体も、少し過剰なくらい災害を意識させるものになっていました。

 

【3】コトが起きても案の定、政治は何も決められない。そもそも突然、東京湾に出現した"巨大不明生物"の存在を認めるか否かで、政治はあたふたする。

【4】政治決定のトライアングルー政治家・有識者・官邸は、混乱の極みに陥る。中でも緊急時にトンチンカンな回答しか出せぬ有識者の役立たずぶりが、徹底的にカリカチュアライズ(→「戯画化。バカにする」という意味)される。多くの政治家たちは、閣議や対策本部で無意味な感慨の吐露に終始する。しかし"決定権"を握る政治家は、いやが応でも現実と対峙(たいじ)せざるをえない。

【5】そこで"不作為の均衡"を打破するのが、長谷川博己演ずる若き政務の官房副長官矢口蘭堂である。物語はそこから猛烈なスピード感をもって始まる。

【6】本来管轄が多岐にわたる複合課題は、まずは官僚体制内部の調整に手間取る。"不作為の均衡"が破られたからと言って、それはすぐには変わらない。

【7】各省庁のタテワリのかべは、ゴジラといえども破壊できぬ強さを誇るが、"外圧"への危機対応が進む中、一気に「決断力」が見えてくる。

【8】そのための人材集結がまた示唆的だ。政治家―官僚システムから疎外され除外された異端者、変わり者たちが各界から呼び出される。彼らは自分のオタク的興味でもってコトにあたる。あたかもゲームを楽しむかのように。そこに国家は意識されない。

【9】さらにここでは肩書と上下関係は無用だ。人材は育てられるものではない。その社会がどれだけ異端者を抱え込むゆとりを持っているか否か、そのノリシロの大きさこそが必要なのだと分かる。

 

 「多様性」は緊急時にこそ有用性です。均質性を過度に尊重する日本社会に対して、「多様性」の重要性を御厨氏は、明確に指摘しています。

 

【10】登場人物のセリフの言い回しは早いし、場面転換もめまぐるしい。その中でネマワシにこだわる官僚の自嘲的発言や行動様式がマメに描かれていく。このディテールの積み重ねが、デジャブのように3・11直後の日本を記憶から呼びさます。第2次世界大戦後を長く規定した「戦後」を脱して、「災後」(→2011年3月11日に発生した東日本大震災以後をさす言葉。御厨氏が、大震災後に最初に提示したキーワードです)の時代が到来したことを再確認できる。

【11】ゴジラは成長する。凶暴化するゴジラへの対応の中で、実は政治家や官療も成長する。矢口蘭堂はもとより、他の政治家たちも危機に臨んで成長する。そこに「危機の政治過程」が成立するのだ。

【12】「この国も捨てたもんじゃない」。それは絶望の中で未来を託された政治家の発言だ。「スクラップ・アンド・ビルド(→「スクラップ・アンド・ビルド」とは、「老朽化し非効率な組織・構造物等を廃棄して、新しい組織・構造物等に転換すること」という意味)でこの国はこれまでも復興してきた」の一語も泣かせる。これは、ベテランの上司たちを想定外のビーム乱射で一挙に失うという、危機に直面した若き政治家たちの成長譚(たん)に他ならない。

 

  『シン・ゴジラ』では、緊急時にさえ、縄張り争いに専念する行政官僚達のバカバカしさを丹念に描いています。現実の日本の現実のリアルな姿です。

 それが途中から、危機対応チームとして、理想的な官僚組織へと切り替わります。

 

【13】コトナカレ主義者も変わる。偶然の継承順位で首相臨時代理を命ぜられた政治家は、自他ともに無能とされた人物。その彼が何も出来ぬという自覚故に、あたかも下克上的要求に対し愚直に「決定」をくり返す様は、政策決定機構が極端なまでにそぎ落とされた場合、アイロニカル(→「皮肉的」という意味)だが意外に有効かもしれぬと感じらた。

【14】ここで首相の継承順位がはっきりと描かれたのは興味深い。偶然のなせるワザで5位まで決まっているのだが、それも皆死んだらどうするのかとの問題提的発言。これはけっこうシビアな現実的な問いかけではないか。

【15】シビアと言えば、日米安保体制もそうだ。アメリカは日本にとって本当の友人であるのかどうか。

 

 在日米軍は、無慈悲で傲慢な暴君的存在と、親切な心優しき隣人的存在という、二面性を持った存在として描かれています。

 

【16】ゴジラ攻撃でも米軍はあくまでもアメリカの安全を第一に見すえている。だから、ゴジラが世界規模の原子力拡散の脅威になった時、アメリカは「目には目を」の先制攻撃の方針を躊躇なく決める。

【17】日本はこの決定を受け入れざるをえない。究極の日米関係がここには冷徹に描かれている。

【18】他方、矢ロたちは独自の対ゴジラ作戦を進める。だがそれは成功したのか否か。結局ゴジラの再活性化を防ぎつつも、日本人はゴジラと"共存"せねばならぬ運命を背負うことになるからだ。

 

 作品の後半部では、急に「緊迫した国際政治」が展開し始めます。国連安保理による、ゴジラ核攻撃通告への対応が、問題化するのです。

 核攻撃を受け入れ、首都機能を完全に喪失する代償に復興支援を受け入れるのか、あるいは、被害を限定化する「シン・ゴジラ凍結プラン」を実施する賭けに出るのか。作品中では後者が決断されます。

 アメリカに早期の決断を催促された日本は、なんとか準備を整え、自力で「シン・ゴジラ凍結プラン (ヤシオリ作戦)」を決行します。その場面では、日米関係に関して、日本人俳優たちが「属国」「戦後は続く」という自虐的で悲しいセリフを口にしています。シン・ゴジラを倒すための首都東京への核攻撃という屈辱的提案を退け、日本が自力でシン・ゴジラを打倒する展開になっています。

 

【19】好ましからざる"共存"は、原子力発電所と、日本人との緊張関係をそれとなく示唆する。復興の長いプロセスの中で、ゴジラとどう"共存"したらよいか。政治はそれこそ今度は時間をかけてその問いに答えねばならない。

【20】ゴジラを語る会、ゴジラを語るプログ、暑い夏をさらに熱くするゴジラ語りの登場であった。しかも、3・11から5年、はしなくも春に熊本震災が、そして今夏は日本列島をたび重なる自然災害が襲った。風水害の光景が目に映じるたびに、人はすぐさまゴジラを思い起こす。「戦後か」「災後か」(→この論点については、この後に、さらに詳述します)をずっと考えてきた者にとって、ゴジラの常態化が示唆するものは大きい。

【21】そこでやはり「災後」の観念は広がっていく。

【22】実は「戦後」も近代史の中でいくたびか存在した。確かに、日清「戦後」、日露「戦後」、第1次世界大「戦後」、とそれは10年ごとに日本に訪れている。そのたびに「戦後体制」が形作られたのだ。そして最大にしておそらく最後の「戦後」が、あの戦争の終戦を機に始まった。今や71年である。

【23】この「戦後」のアナロジー(→「類推」という意味)を「災後」に適用できぬわけがない。関東大震「災後」、阪神・淡路大震「災後」、東日本大震「災後」、そして熊本震「災後」と来る。東京の場合は、関東大震「災後」から20年たって東京大空襲戦「災後」に結びつく。そう、ゴジラはかつて2度東京を襲ったのだ。自然災害そして戦時災害としてだ。

 

 ここでは、「ゴジラ=戦争=関東大震災」という関係を明示しています。「ゴジラ=災害」ですが、戦争も「災害」に分類されていることを注意してください。

 

【24】ゴジラはいつかやってくる。地震を中心とする自然災害から、今や免れることの出来ぬ日本に、もっと思いを致さねばならぬ。「防災体制」そして「災後体制」を考慮に入れて、政治は進んでいくことになろう。

【25】災害をすべて予防し克服することはありえない。だとしたら、ゴジラと"共存"する体制を政治はめざすことになる。

【26】そのためには、「あきらめず最後までこの国を見すてずにやろう」。映画が訴えた不退転のメッセージにうなずく以外になかろう。」

 

……………………………

 

(当ブログによる解説)

 この映画の最終場面では、シン・ゴジラが凍結されています。

 ヤシオリ作戦の成功により、ゴジラは確かに凍結されました。しかし、シン・ゴジラにより首都東京は壊滅しました。しかも、もし、シン・ゴジラが凍結状態から復活してしまえば、1時間以内に核攻撃が実行されるという条件は残っています。壊滅的危機の可能性は今後も継続するのです。

 この絶望的な状況の中でも、この作品では、かすかな希望の光が残されているようです。

 その光は、内閣官房長官代理(竹野内豊)の次の言葉に、感じられるのです。

「この国はスクラップ・アンド・ビルドでのし上がってきた。また立ち直れるさ」

 これは、復興途中の東北地方、さらには、日本国民全体への激励の言葉とも受け取れます。

 どんな困難に遭っても、日本は復興できる。

 人材的に、組織的に、どうしようもないのが、この国の現実です。しかし、現状の情けなさ、進歩の無さを認めつつ、少しずつ前に進むしかないのです。そこにこそ、希望の光があるのでしょう。

 とは言え、苦い諦念と希望が、ないまぜになった、複雑な味わいの映画です。 

 

 壊滅的な破滅の中でさえも、意欲を持つ限り、私たちの周りには、微かな希望の光が、さしているのかも知れません。

 だからこそ、日本人は再び立ち直ることができるとも、言えるのでしょう。

 日本は、何度も、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返しながら、これまでやってきたのです。

 

「戦後」が終わり、「災後」が始まる。

 

 

 (3)「災後」について

 

 「災後」というキーワードは、前述したように、御厨貴氏が最初に提唱しました。         「災後」の内容については、御厨氏は、以下の論考( 「『戦後』が終わり、『災後』が始まる」『中央公論』2011年11月号)で、詳細に説明しています。

 

(御厨貴氏の論考)(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(青字は当ブログによる「注」です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「  今回の「3・11」は、これまでのさまざまな出来事にも増して、われわれ日本人に深い刻印を残すものとなるだろう。そして、長かった「戦後」の時代がようやく終わり、「災後」とも呼ぶべき時代が始まるのではないか。

 1945年の敗戦以来、現在まで続いてきた「戦後」がいつ終わるのか、これまで多くの議論があった。「ポスト戦後」は論者によって、高度成長以降、オイルショック以降、ベルリンの壁崩壊以降、バブル崩壊以降・・・・とさまざまに定義されてきた。政治についても、世界でも稀な高度成長と世界に冠たる行政官僚制に支えられ、55年体制という枠組みのなかで、政治は強いリーダーシップを取らずに済んできた。そしてこうした「戦後政治」の特徴は昭和天皇が死去しても、55年体制が崩壊しても、21世紀になってもなかなか壊れなかった。
 この理由として、太平洋戦争以降、日本には共通体験としての戦争がなかったことが挙げられる。そして「あの戦争」は、日本の内外ともに、日本を語る際の基軸となった。「戦後」は終わらず、延びていくばかり。日本で「戦後」が終わるためには、次の共通体験が必要だったのである。そこに容赦なく「3・11」がやってきた。

 「3・11」が今後、日本人の共通体験になると考えられるのは、天災と人災の複合した形だったことが大きな理由である。地震と津波そのものは天災である。けれども、福島第一原子力発電所の事故については、すでに指摘されているとおり人災の側面が大きい。天災と人災の複合により、直接の被害は大きくなかった東京をはじめとする東北以外の地域でも、電気やガソリンなど、あたかも空気と同じように享受してきたものが現実に止まったりなくなったりすることが実感されてしまった。多くの人はかなりのショックを受けたはずである。しかも、電気やガソリンをはじめ、食料や物資の供給の不安定な状態は相当程度続くのではあるまいか。

 このような状況で、「3・11」は、日本人の基本的なものの考え方や行動様式を、長期的には大きく変える契機とならざるをえない。これが、天災であり人災でもある「3・11」のあとに、「災後」というひとつの新しい時代が始まると考える所以である。

 明治維新以来、日本が走ってきた近代化路線、すなわち科学技術の発展、人口増加、高度成長路線はすでに限界を見せていたが、これまでは何度指摘されようとも新しい社会像への自己変革は到底実現できなかった。現状を維持せんとする力はそれほど強く働くものなのだ。それが今回は、外国勢力による「外圧」でも内乱や騒擾といった「内圧」によるものでもなく、いわば「自然災害圧」によって否応なく変わらざるをえなくされてしまったのである。

 

 以上は、「災後」という新時代が始まる、という主張の理由が丁寧に述べられています。なぜ、人々の価値観が劇的に転換して、時代が変わるのか、を説明しているのです。

 

(御厨貴氏の論考)

「  それでは災後社会とはどのような世界なのか。

 これまでの日本人は、時間厳守で勤勉に、外と張り合って生きてきた。国際化・情報化にともない、日本は変わらなければならない、さらに進歩しなければならないという強迫観念に常に追いつめられてきたのである。

 災後社会においてはさらに世界に伍していこうとする人が出てこよう。もっとも、本当に伍していくとすれば日本を捨てなければならない面も出てくる。他方、日本が今後GDPで世界第一位になることはないし、数値で表される指標が右肩下がりで落ちていくのは間違いない。こうした認識を前提に、外国はどうあれ、この国で腰を落ち着けて暮らせればよいのだという「スローライフ」的な生き方も、ますますはっきりと受け入れられるようになるだろう。社会のIT化がいよいよ進展する一方で、高齢者の持つ経験や知恵が評価されて、日本が高齢社会であることを素直に認められるというように、無理なく共存する社会をめざすことになろう。

(「『戦後』が終わり、『災後』が始まる」(『中央公論』2011年11月号)

 

 以上の論考では、御厨氏は、「災後社会」における価値観の転換の方向を予測しています。そして、その予測は、かなり妥当性を有していると思われます。

 人生をそれ自体、ゆっくり味わいつつ生きることこそ幸福だ、という「スローライフ」的な生き方が、人々の間に着実に浸透しています。また、日本が高齢化社会であることが素直に認められ、高齢者とのスムーズな共存を目指す社会の構築が進行しつつあります。

 このような好ましい、人間重視的な社会の動きは、東日本大震災に、確かに、より顕著になってきているのです。

 

 この点について、御厨氏は、2014年3月12日の産経新聞のインタビュー記事(「災後3年 提唱者の御厨貴氏に聞く  『変えよう』価値観生まれた」)の中で、以下のように述べています。記事の一部を引用します。

 

「  東日本大震災直後に論壇で生まれた言葉「災後」。
大災害で戦後が終わり、新時代を迎えるとの予感が込められた言葉だった。だが以来3年、政治や社会は当時思われたほど大きくは変わっていないようにも見える。この言葉の提唱者で、社会科学系研究者による論文集『「災後」の文明』(阪急コミュニケーションズ)を編者としてまとめた政治史家の御厨(みくりや)貴・放送大教授に、災後3年の心境を聞いた。

 「だらだら続いてきた戦後が、大きく変わると思った」。御厨氏は震災直後の平成23年3月下旬から、新聞などで「災後」という言葉を使用し、時代の転換点が来たと指摘してきた。「突然、大勢の人が死ぬ経験は戦後なかった。大量死が生じる社会を作らないということで戦後長らくやってきたが、自然災害という形でその状況は起きうることが明らかになった」

 では災後という厳しい時代に対応するために、戦後の何を変えなければならないのか。政治史家である御厨氏は、それを高度成長期以来の「平等主義」だと指摘する。「経済はすでに右肩上がりでなくなって久しい。復興に際し、すべて平等に元通りにできるはずもなく、政治の役割として選択的にならざるを得ない」。復興に際しては戦後的な平等主義を捨て、地方が主体となって選択と集中を進めなければならないとする立場だ。(→各地域が、国や県の監督下という立場から自由になって、細分化された地域レベルでの主体性を持って復興を進めていくべきだ、とする主張です。この主張は、これまでの、横並び的平等主義を打破しようとする大胆な提案です)

 しかし、震災後3年、平等主義に代表される政治・社会の戦後的価値観は、予想したほど変わったとはいえない。御厨氏は政府の復興構想会議にも議長代理として関わり、行政に対しさまざまな提言を行ったが、「やはり縮小モデルは嫌われる。首長からは『おれを政治的に殺す気か』『たとえウソであっても夢が必要』と言われた」と打ち明ける。「戦後は終わらず、むしろ生き返ったかもしれない」

 ただ、「これまでと同じではいられないという、災後的な価値観が生まれたのは確か」とも指摘する。「現実に変わっているところは少ないが、変えようとする気分は生じてきている」

  

 長期的に見て、「戦後」のように、「災後」という時代区分は定着するのでは、ないでしょうか。「災後」という表現になるのか、あるいは、別の表現になるのかは分かりませんが。

 このことは、今の時点で、確定的に断言することではできません。しかし、時代の潮流を見ていると、私は、そのような予測に自信を持っています。

 

 「東北の復興」については、2016年3月10日の日本経済新聞のインタビュー記事(「『戦後』から『災後』の日本を憂う 御厨東大名誉教授に聞く・再生への闘い(5)」)で、より具体的に述べていて、参考になります。以下に引用します。

「今後の自然災害時にどう対応するのか。

 もともと東北は過疎問題を抱えていた。そのまま復興しても、しょうがなく創造的復興が必要になる。東北を日本の先端に変えることで日本が変わるというのが『災後』の言葉に託した意味だ

 

 「災後」においては、東北を重視するべきです。

 そして、東北の過疎問題をも考慮した「創造的復興」を、高齢化が進行している日本全国の「災後」の災害対策事業のモデルケースにするべきだ、というのが、御厨氏の主張の根幹になっているようです。

 私は、この主張は極めて正当な見解だと思います。

 

(4)当時ブログにおける「東日本大震災」・「福島原発事故」関連の記事の紹介

  

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(5)御厨貴氏の紹介

  

御厨 貴(みくりや たかし、1951年生まれ )日本の政治史学者・政治学者。東京大学・東京都立大学名誉教授。放送大学客員教授。青山学院大学国際政治経済学研究科特任教授。専門は、近現代日本政治史、オーラル・ヒストリー。復興庁復興推進委員会委員長代理を歴任。


著書
『明治国家形成と地方経営・1881-1890年』(東京大学出版会、1980年)

『東京・首都は国家を超えるか 20世紀の日本(10)』(読売新聞社、1996年)-編集委員(全12巻)

『明治国家の完成 1890-1905 日本の近代(3)』(中央公論新社、2001年/中公文庫、2012年12月)-編集委員(全16巻)

『オーラル・ヒストリー・現代史のための口述記録』(中公新書、2002年)

『政治の終わり、政治の始まり・ポスト小泉から政権交代まで』(藤原書店、2009年)

『権力の館を歩く』(毎日新聞社、2010年7月/ちくま文庫、2013年12月)

『「質問力」の教科書』(講談社、2011年3月)

『「戦後」が終わり、「災後」が始まる』(千倉書房、2011年12月)

『政治の眼力ー永田町「快人・怪物」列伝』(文春新書、2015年6月

『戦後をつくる・追憶から希望への透視図』(吉田書店、2016年2月)

『政治家の見極め方』(NHK出版新書、2016年3月)

『戦前史のダイナミズム』(左右社・放送大学叢書、2016年9月)

『人を見抜く「質問力」ーあの政治家の心をつかんだ66の極意』(ポプラ社・ポプラ新書、2016年10月)

『明治史論集ー書くことと読むこと』(吉田書店、2017年5月)

  

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わります。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

  

   

 

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別冊アステイオン 「災後」の文明

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  • 作者: 御厨貴,飯尾潤,村井良太,苅部直,川出良枝,堂目卓生,梅田百合香,大竹文雄,佐藤卓己,五野井郁夫,武藤秀太郎,池内恵,柳川範之,遠藤乾,牧原出,伊藤正次,サントリー文化財団「震災後の日本に関する研究会」
  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2014/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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人を見抜く「質問力」 (ポプラ新書)

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知の格闘 ──掟破りの政治学講義 (ちくま新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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『考えないヒト』正高信男・IT化社会・コミュニケーション能力低下

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 携帯電話、スマホなどへの過度の依存により、言語運用能力・思考力の衰退、反知性主義などの退化的現象が現代日本に顕著になっている、という意見が強まっています。
 そこで、「携帯電話」と「人間のサル化(退化)」の関係を鋭く指摘している、入試頻出著者・正高信男氏の論考が、再び流行・頻出出典となる可能性が高まっているので、今回は、この記事を書くことにしました。

  

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))

 

(2)予想問題『考えないヒト』正高信男ー立教大(全学部入試)・お茶の水女子大・過去問

 

(問題文本文)

(正高信男氏の論考) 

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】日本人は、近年になって急速に生活スタイルを「サル型」へと、変化させている。だが退化させているのは、生活の形態にとどまらない。

【2】コミュニケーションの仕方も、質が劣化しつつある。ことばを用いつつも、実は言語本来の使用方法からはずれた、サル的なスタイルへと先祖返りしつつある。

【3】こう書くと、そんなバカなと思われるかもしれない。サルのようにコミュニケーションをはかっているといっても、ちゃんとことばを使っておしゃべりしているではないか、サルのように「キャー」とか「ワァー」とか意味不明の雄たけびを出しているばかりでない、と。

【4】だが話はそう単純ではない。なるほど人間は、あくまでも言語を使って会話しているわけで、サルとは異なる。しかし、それだけで「言語的」な意思疎通をしているといいきれるかというと、そうとは限らない。

【5】例えば、「電話」と子どもが親にいった場面を想定してみよう。これは、立派な一語文である。ただし、その意味はさまざまに解釈可能だ。「電話に出て」「電話をかけて」といった、話し相手への要求とも取れる。他方、「今電話で話している最中である」という叙述文としても、理解することができよう。では、どちらが正しいのか?言語的なコミュニケーションは、言葉の意味だけではなく、言語の情報を手がかりに、推論によって相手が何を伝えたいのかを推しはかるものであり、言語を使って会話しているだけで、「言語的」な意志疎通をしているとはいいきれない、という事らしい。

【6】それは、「電話」という字面からでは判別できない。ふつう私たちは、発話の意味を把握しようとする際、言語の情報を手がかりに、推論によって相手が何を伝えたいのかを推しはかるものである。「で・ん・わ」という音の組み合わせ以外の手がかりとして、イントネーションや声の調子、また音声要素だけにとどまらず、顔の表情やジェスチャー、今、話がなされた場の状況などの要因を斟酌する。加えて、過去の記憶から話し相手に関する知識も引き出して、総合的に相手が何を伝えたかったのかを判断するのである。

【7】これは、いわれてみれば当たり前のことに違いない。しかし一般に言語というのは、たいへんシンボル性の高い記号であるとみなされている。ひっきょう言語的コミュニケーションというのは、記号性の高い情報伝達手段と受けとめられがちであるが、その記号の指示する意味の適切な解釈を支えているのは、〔  1  〕なのである。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  空欄1に入る語句として最適なものを次の中から選べ。(お茶の水女子大)

ア  非常に人間くさい側面
イ  さらに高度で複雑な記号的側面
ウ  少しばかり非人間的な側面
エ  全然記号的でない側面
オ  音声コミュニケーション的側面

 

 ……………………………

 

(解説・解答)

問1 (空欄補充問題)

 空欄1を含む【7】段落、直前の【6】段落を精読してください。本来の言語的コミュニケーションは、字面だけではなく、種々の情報を総合した推論的状況判断を基盤にしています。

(解答) エ

  

 ーーーーーーーー

 

 (正高信男氏の論考)

【8】それどころか、記号を字義通り記号として解読することは、およそ非人間的な意味理解であることが、最近の研究から明らかにされつつある。というのも、人間以外の霊長類の行う音声コミュニケーションこそ、まさにそれにあたるからにほかならない。

【9】サルにおいても、人間の言語体系における単語のようなものの存在は決して珍しくない。人間に系統的にもっとも近い霊長類というと、チンパンジーに代表される類人猿であることは周知の通りである。逆に霊長類として進化的にいちばん下等なのは、原猿と総称されている。マダガスカルに生息しているキツネザルが典型として、よく知られていよう。

【10】ところが、そのキツネザルにすら、 (2) 「ことば」もどきは存在する。例えば彼らの天敵にあたるような捕食動物が近づいてきた場面を思い描いてみよう。そういうとき彼らは独特の声を出す。この声を耳にすると、周辺にいる仲間(同種個体)はただちに自らの身を守る防御反応を行う。結果として群れに危険の接近を周知する機能を実行しているところから、警戒音と命名されている。 

【11】ただし、天敵の種類はさまざまである。大別しても、空からやって来るものと、地表から来るものとがある。それによって防御の手段の講じ方も、おのずと異なってくる。空からの場合は、地表近くへ身を伏せた方がよい。だが、もし地表から危険が迫ってきているのに、空からのときのように逃避を企てると、とんでもないことになる。

【12】そこで (3) 淘汰圧が働き、キツネザルは複数のタイプの警戒音を出すにいたったのだった。例えばAとBという二種類の声が存在するとしよう。空から捕食動物がやってくるとAの声を出す。すると、聞いた仲間は地表へ逃げる。他方、地表から敵が来るとBの声を出す。その際は、仲間は木の上へと逃れる。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2  傍線部(2)について。なぜ筆者はキツネザルの発する声を「『ことば』もどき」と呼ぶのか。その説明として最適なものを一つ選べ。(立教大・全)

ア  キツネザルは個々の声に対応する独自の文字を持たないから。
イ  声とその意味は偶然の繰り返しによって結びついたものだからいい
ウ  特定の声と意味の結びつきが一対一ではないから。
エ  仲間のサルはその声の意味を誤解することがないから。
オ  同じ種類のサルしかその声を理解できないから。

 
問3  傍線部(3)について。「淘汰圧が働き」とあるが、これはどういう意味か。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。(立教大・全)

ア  種を絶やしてはいけないという状況が優れた突然変異の個体を誕生させたということ。
イ  種として生き残っていくために、創意工夫を繰り返さざるを得なかったということ。
ウ  失敗に対する反省を繰り返す中で、生き残っていく方法を見出したということ。
エ  偶然天敵から逃れることができたという経験を仲間同士が教えあっていったということ。
オ  生き残るための方法を獲得することができなかった群れは、滅びていったということ。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問2 (傍線部説明問題)

 単語力が必要な問題です。「もどき」は入試頻出キーワードです。「もどき」とは、

名詞の下について、それに似て非なるものを意味します。

 キツネザルは、「厳密に仲間の発する音声を記号的判断にとらえている」(【14】段落)。一方で、人間の「ことば」の伝達は「全然記号的でない側面」に支えられているのです(【7】段落)。従って、人間の場合は、誤解が発生する可能性があります。

(解答) エ


問3 (傍線部説明問題)

 単語力が必要な問題です。「淘汰」は入試頻出キーワードです。「淘汰」とは、生存競争により、環境に適応できない個体が滅び、ない死滅し環境に適応できたものだけが生き残るという意味です。

(解答) 

 

 ーーーーーーーー

 

 (正高信男氏の論考)

【13】AもBも、警戒警報である。ただしAは空からの危険、Bは下からの危険を意味している。これは、ほとんど単語による表現に近い。そういう観点では、彼らも記号的コミュニケーションを行っていることになる。

【14】それどころか、彼らの方が人間よりも、厳密に仲間の発する音声を記号的にとらえているのである。ヨーロッパの昔話で、いつもいつも「狼が来た」とウソを村人に伝えて驚かせては喜んでいた少年の物語というのをご存知だろう。村人たちは、はじめは信じこんでびっくりしていたが、そのうち誰も信じなくなった。あげくのはてに、本当に狼が来ても誰にも助けてもらえず、羊を食べられてしまった少年のエピソードである。

【15】ああいうことは、キツネザルでは起こらない。彼らだったら極端なケースとして、一〇〇万回「狼が来た」といわれても、やはり逃げることだろう。警戒音の認識に、 (4) 音以外の手がかりは介入しない。ともかく身の危険にかかわることだから、少々いかがわしい情報であっても、とりあえず信じた方が安全、という発想が働く。サルの理解の仕方は、柔軟性に欠けるのだ。 

【16】「柔軟性を欠く」と書くと、融通がきかず頭が悪いみたいに聞こえるかも知れない。しかしシグナルの記号としての意味作用に忠実であるという意味では、(5)  人間より抽象度の高い認識を行っていると言い換えることもできなくはないのではないだろうか。

【17】 人間は、過去の経験にもとづいて、ことばの意味理解を変えていく。反対にこのことは、発話を行う側も、常に相手に聞き入れてもらえるよう配慮して話をすることを意味している。そして、聞き手は相手がこちらを意識して話をしていることに気づいている以上、その意図を把握しつつ、発話内容を吟味する。

【18】考えてもみよう。「君は、よく勉強するね」といわれたにせよ、それが字面通りの誉めことばなのか、「勉強しない」ことへの皮肉なのかは、文字の配列から判断することは不可能に近い。相手の顔色を読み、状況を斟酌し、あるいは話し手の普段の言行を参照しなくてはならない。

【19】 つまり言語理解というのは、意外なほど記号的でなくて、反対に相手の心を読む(発話を手がかりに心理を推測する)過程であることがわかる。むしろサルの方がよっぽど厳密に記号類別に依拠して情報伝達を行っているのだ。

【20】ところが、最近の日本人を観察してみると、そのコミュニケーションは (6)  この言語進化の進んできた方向を逆行しているように思えてならない。つまり、ことばのメッセージを常に (7) 記号 として把握する傾向が高まっている。そして、そういう認識の仕方をサルが実行している以上、サル的な方向へとコミュニケーションのスタイルを変えてきたという結論にたどりつくのだ。

(正高信男『考えないヒト』)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問4  傍線部(4)「音以外の手がかり」を具体的に述べている部分を、本文中より32文字(句読点を含む)で抜き出せ。ただし、「~すること」が下に続く形になる。(お茶の水女子大)

 

問5  傍線部(5)について。なぜ筆者はキツネザルが「人間より抽象度の高い認識を行っている」と言うのか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。(立教大・全)

ア  シンボル性の高い音声情報を介して音声コミュニケーションを介して行っているから。
イ  それが「ことば」ではないのに、相手の発した音声の意味を状況に応じて判断しているから。
ウ  相手の発した音声の様々な意味作用を、誰からも教えられないのに正確に実行しているから。
エ  過去の経験やその場の状況などを考慮せずに、相手の発した音声の意味作用に忠実だから。
オ  シグナルでしかない音声の持つ意味を厳密に記号類別に基づいて認識しているから。

 

問6  傍線部(6)「この言語進化の進んできた方向」とはどのような方向か。わかりやすく説明せよ。(お茶の水女子大)

 

問7  傍線部(7)について。ここで用いられている「記号」と同じ意味で使われている本文中の言葉はどれか。最適なものを一つ選べ。(立教大・全)

ア  シンボル   イ  ことば   ウ  字面  

エ  音声   オ  知識

 

問8  左記各項のうち、本文の内容と合致するものを1、合致しないものを2として、それぞれ番号で答えよ。(立教大・全)

ア  言語的コミュニケーションとは、言語を記号として解読することで情報を伝達していく過程である。
イ  最近の日本人は、言語的コミュニケーションで相手の心を総合的に判断する能力が低下してきている。
ウ  単語は、どんな状況でも変わらない記号的な意味と、様々な状況によって変化する心理的な意味を持つ。
エ  他者の発した単語の意味だけを知っていても、話し手の発話意図を理解することは難しい。
オ  言語的コミュニケーションは、聞き手が話し手の心理を推測できるかどうかに影響される。

 

……………………………

 

(解説・解答)

問4 (本文抜き出し問題)

  【15】~【19】段落においてキツネザルと人間を対比して論じていることに注目してください。解答については、【18】段落に着目するとよいでしょう。キーフレイズをチェックしてください。

(解答)  相手の顔色を読み、状況を斟酌し、あるいは話し手の普段の言行を参照(すること)

 

問5 (傍線部説明問題)

 傍線部直前の「シグナルの記号としての意味作用に忠実であるという意味」に注意してください。

(解答)エ

 

問6 (傍線部説明問題・記述問題)

 言語進化的にみて、一番下等なキツネザルの「ことば」もどきの認識法から、高等な人間の言語理解の方向を意識してください。

(解答)  音声の記号的認識から、記号としての言語をもとに、種々な要因を斟酌して相手の意図を総合的に推論する能力へと進化した方向。

 

問7 (傍線部説明問題)

  【7】段落の「一般に言語というのは、たいへんシンボル性の高い記号である」、「言語的コミュニケーションというのは、記号性の高い情報伝達手段と受けとめられがちである」に着目してください。

 「記号」と「シンボル」は同類語ということを知っておけば、簡単な問題です。

(解答)

 

問8(趣旨合致問題)

 →特に、趣旨合致問題については、本文を読む前に、設問を見ると、効率的に問題を処理することができます。


ア  「記号的でない側面」の重要性を考慮していないので、誤りです。
ウ  「単語」自体に、二つの意味があるわけでは、ありません。【5】段落以下を精読してください。

(解答)  ア=2 イ=1 ウ=2 エ=2 オ=1

 

ーーーーーーーー 

 
(要約)

 人間の言語理解は、言語という記号を使用しているが、発話を手がかりに、種々の情報を総合した状況判断、心理推測の過程である。サルの方が記号的で、記号を厳密に解読する情報伝達を行っている。最近の日本人の情報伝達の特徴である「サル化」は、IT化、携帯電話への依存がある。

  

(今回の問題のまとめ)

 人間のコミュニケーションにおいては、言語を使い、互いの感情や意思を伝達しています。しかし、言語的コミュニケーションにおいても、顔の表情・視線・身振りなどの非言語的コミュニケーションが、重要な役割を持っている場合が多いのです。人間の伝統的な、きめ細かいコミュニケーションにおいては、言語と非言語的コミュニケーションが、相互補完的な役割を担っているのです。

 人間は、このような非言語的コミュニケーションを、手振り・声のトーン・姿勢・相手との距離の置き方などによって行っています。

 正高信男氏は、『考えないヒト 』の中で、IT化によって、人間はむしろ非人間化しつつあり、日本人は、 最近になって急速に生活スタイルを「サル型」へと変化させていると述べています。

 人間の言語によるコミュニケーションは、相手の心を読む過程です。つまり、相手方の発話を手掛かりにして、他の種々の非言語的状況を総合的に考慮して、相手の心理を推測する複雑で精密な過程です。

 しかし、最近の日本人は言葉のメッセージを、厳密に記号として把握する「サル的な、単純なスタイル」へ先祖返りしていると、正高氏は主張しているのです。

 ケータイメールのように、視覚情報にのみ依存したコミュニケーションにおいては、対面的状況で言語を使用する場合のように、非言語的状況を総合的に考慮する必要はありませんから、頭や心を使わないようになります。そうなると、長期的に見て、言語運用能力が低下し、必然的に、人間的な思考力、感受性が低下していくのでしょう。

 すなわち、「人間のサル化」・「人間のロボット化」という現象が蔓延していくのです。

 これは、スリラーであり、悲劇であり、人間の孤立化、共同体崩壊・社会崩壊に直結する問題です。

 

  

(3)正高信男氏の紹介

  

正高 信男(まさたか  のぶお、1954年生まれ

大阪府生まれ。日本の霊長類学・発達心理学者、評論家、京都大学教授。
大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。米国立衛生研究所、独マックス・プランク精神医学研究所などを経て、京都大学霊長類研究所教授。
専攻は認知神経科学。ヒトを含めた霊長類のコミュニケーション研究。

 

【著書】

『ヒトはなぜ子育てに悩むのか』講談社現代新書 1995
『いじめを許す心理』岩波書店 1998
『育児と日本人』岩波書店 1999
『ケータイを持ったサル    「人間らしさ」の崩壊』中公新書 2003
『天才はなぜ生まれるか』ちくま新書 2004
『人間性の進化史   サル学で見るヒトの未来』日本放送出版協会 2004 NHK人間講座
『考えないヒト   ケータイ依存で退化した日本人』中公新書 2005
『他人を許せないサル    IT世間につながれた現代人』講談社・ブルーバックス 2006
『ヒトはいかにヒトになったか   ことば・自我・知性の誕生』岩波書店 2006
『ヒトはなぜヒトをいじめるのか   いじめの起源と芽生え』講談社・ブルーバックス 2007
『ウェブ人間退化論   「社会のIT化」は「サル」への道!?』PHP研究所 2008
『音楽を愛でるサル   なぜヒトだけが愉しめるのか』中公新書2014
『コミュ障   動物性を失った人類』講談社・ブルーバックス 2015

 

 

(4)当ブログにおける「IT化社会の影・闇」、「IT化社会のマイナス面」関連の記事の紹介

  

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ーーーーーーーー 

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

  

   

  

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考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))

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コミュ障 動物性を失った人類 正しく理解し能力を引き出す (ブルーバックス)

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音楽を愛でるサル - なぜヒトだけが愉しめるのか (中公新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題「広がる『ポスト真実』」神里達博〈月刊安心新聞〉朝日新聞

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 最近、世界的に、政治の局面で「ポスト真実」ということが、重大なキーワードになっています。そこで、今回は、この最新キーワードについての解説記事を、

「広がる『ポスト真実』事実の軽視  まるで中世」(2017年2月17日朝日新聞「月刊安心新聞」千葉大教授・神里達博)、

をベースにして、書くことにしました。

 

 今回の記事は、英語から派生した最新キーワードの解説も多いので、英語長文読解問題にも役に立つことでしょう。

 

 今回の記事は、以下の項目を解説します。

 

(2)「広がる『ポスト真実』事実の軽視  まるで中世」(2017年2月17日朝日新聞「月刊安心新聞」神里達博)の解説

では、

● 「ポスト真実」の定義・内容

● 「ポスト真実」の訳語、意味を考える

● 「フェイクニュース」の意味・内容

● 「代替的事実(オルタナティブファクト)」の意味・内容

● 「バズワード」の意味・内容

● 「ポケモンGO現象=現実軽視の風潮=感想社会・感情社会」について

● 「ボスト真実」の問題点

● 「ポスト真実」に対する対策論

 

 (3)当ブログにおける「トランプ現象」に関する記事の紹介

 

 

文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

 

 

(2)「広がる『ポスト真実』事実軽視  まるで中世」(2017年2月17日朝日新聞「月刊安心新聞」神里達博)の解説

 

(神里達博氏の論考)(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に従事している自衛隊の日報に、PKO5原則に抵触する可能性のある「戦闘」の文字があることが判明した。

防衛大臣は、これは法的な意味の戦闘ではなく、また、国会答弁では、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから「武力衝突」という言葉を使っていると、応じた。かつての日本ならば、一気に政権が揺らいでもおかしくないほどの事件にも見えるが、現状としては、そこまでの緊迫感はないようだ。

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 稲田氏はなぜ、このような奇妙な答弁をしたのか。 

「戦闘と言うと憲法9条に違反するから戦闘とは言わない」ということは、憲法違反の実態を自白したのも同然です。そのことも驚異ですが、このことが、国会でも、マスメディアでも、国民レベルでも、大して問題にならないことも驚異と言わなくてはなりません。

 稲田氏の発言は、後述する「ポスト真実」、「代替的事実(オルタナティブファクト)」に関連しています。

 

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(神里達博氏の論考)

【2】もちろん与党が安定的に多数を占めているとか、内閣支持率自体が高いといった要因もあろう。国際情勢の変化に対する不安から、安全保障については新しい考え方で臨むべきだ、という世論が強まってるのも感じる。そういった政治的背景について考えていけば、この奇妙な雰囲気を説明できるかもしれない。

【3】だが、果たしてそれだけが理由なのだろうか。

【4】かつての名門企業「東芝」が今、存亡の危機に瀕しているのは周知のとおりである。なぜそこまで追い詰められたのか。理由は重層的だろうが、何よりも、経営状態についての「事実」が共有されておらず、むしろ長年にわたって隠蔽されてきたことが問題の本質であろう。

【5】 このような、事実を事実として受け入れず「字面の書き換え」でつじつまを合わすという悪弊が、実は私たちの社会のさまざまな領域に広がっているのかもしれない。その結果いつの間には本当に守らなければならない規則が忘れられ、ついに大惨事に至るというケースもある。

【6】1999年に起きたJCO東海事業所・核燃料加工施設での臨界事故はまさにこのようなルールの逸脱が重畳した結果、起きた悲劇であった。核物質という、最も緊張感をもって向き合うべきものが、日常のとるに足らないルーチンにまで転落していたのである。

【7】ところが、この「事実軽視」という事態は、今や日本だけの問題でもないらしい。オックスフォード出版局が、2016年に最も注目された言葉として挙げたのが「Post-truth (ポスト・トゥルース)(ポスト真実)」であった。これは、客観的な事実よりも、人々の感情や主観の方が、世論の形成に大きな役割を果たす政治状況のことを意味する。英国が欧州連合(EU)離脱を決めたことや、事実でないことを盛んにツイートしたトランプ陣営の勝利の背景には、この共通の状況があるというのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 上記の【7】段落は重要なポイントを含んでいます。以下に説明していきます。

 

● 「ポスト真実」の定義・内容


 オックスフォード出版局が、2016年に最も注目された言葉として挙げたのが「Post - truth (ポストトゥルース)(ポスト真実)」でした。
 これは客観的な事実よりも、人々の感情や主観の方が、世論の形成に大きな役割を果たす政治状況のことを意味しています。
 反事実的内容のツイートを連発したトランプ候補の予想外の当選、英国の欧州連合(EU) 離脱決定の基盤には、このような政治状況も考えられるというのです。

 

  事実がもはや最重要ではなく、重要なのは個々人の感情であるということです。

 「『ポスト真実』の政治における論証」は、政策の詳細は軽視され、分かりやすい単純な断言を繰り返し、事実に基づく反対意見は無視されます。つまり、伝統的な政治的議論とは異なり、事実が歪められ、二次的な重要性しかなくっています。この「ポスト真実」は、Web 社会の拡大化により、注目されるようになった最新・重要論点です。

 

●「ポスト真実」の訳語、意味を考える

 「Post-」という語は、「後に」・「次の」という意味を持ち、「脱」とも訳されます。  

 「Post-」の後にくる言葉は「過去に存在したもの」となるので、「Post-」は「重要ではない」という意味にもなります。従って、post-truthは、「客観的な事実・真実が重視されないこと」を意味します。

 「事実関係の明白な誤りを含む情報が、堂々と、まかり通るようになっている」といった意味では「事実軽視」の方が訳語として適しているようです。

 しかし、日本では「ポスト真実」で定着しつつあります。

 ただ、「ポスト(post-)」を「後」・「脱」と訳すると、「ポスト真実」は、「脱・真実」・「脱・事実」となり、日本語として少々、意味が曖昧になります。その点で、「真実軽視」の方が適切です。

 

● 「フェイクニュース」の意味・内容

 

 「フェイクニュース」の現状については、「選挙とフェイクニュース ~揺れるヨーロッパ~アメリカ大統領戦の際に大きな注目を集めた『フェイクニュース』」 (2017年4月26日・NHKクローズアップ現代)のWeb上の説明が、明解な解説をしています。以下に引用します。 

 

「『フェイクニュース』(→「フェイクニュース(Fake News)」とは、虚偽の情報でつくられたニュースを意味しています。具体的には、主にネット上で発信・拡散されるウソの記事を指します。中傷等を目的にした個人発信の情報などを含める場合もあるようです。2016年のイギリスのEU離脱の是非を問う国民投票、アメリカ大統領選選挙では、SNS を通して大量のフェイクニュースが拡散され、投票行動に少なからぬ影響を与えたという批判が出ました。)が、いま、ヨーロッパを席巻している。今月23日に第1回投票が行われたフランス大統領選挙では、有力候補のマクロン氏など複数の候補を中傷するフェイクニュースが次々と拡散し、陣営は対応を迫られた。 現地のメディアが連携して、フェイクニュースを監視する現場に密着すると、事実と嘘を混在させた「巧妙なフェイク」ニュースが急増していることが分かってきた。さらに、別の国で起きた事件の動画を組み合わせ、ねつ造されたフェイクニュースを徹底検証すると、拡散の過程で人々が「信じたい事実」と結びつくことでフェイクがファクトを駆逐し、社会に広がっている実態が見えてきた。 一方、ドイツでは、フェイクニュースを放置した事業者に罰金を科す法案が提出されたが、政府がフェイクを取り締まることに対して激しい賛否の声が上がっています。」

 ……………………………

 

(当ブログによる解説)

 日本とは違って、欧米では、「フェイクニュース」が、政治的に、かなり問題になっているようです。この問題は、民主主義の根幹に関連する重大な問題と言えます。日本でも、いずれ問題化することでしょう。

 

● 「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」の意味・内容


「ポスト真実」(Post-truth)とよく似た概念として、「『事実』と並行して存在する『もう一つの事実』」と言う意味の「代替的事実」(alternative facts)という言葉があります。      

 

 大統領報道官が、トランプ氏の就任式に集まった人数を事実より多く話したことに関して、2017年1月22日に、コンウェイ氏(トランプ・アメリカ大統領顧問)は番組司会者のチャック・トッド氏に「あなたはそれをウソだと言うが、われわれの報道官であるショーン・スパイサー氏は代替的事実を述べたにすぎない」と釈明しました。

 これは、ジョージ・オーウェルの『1984年』を連想させる言葉なので、「ポスト真実」時代のキーワードの一つとして注目されました。

 メディアによる報道と自己の事実認識にズレが生じた場合、メディアが虚偽報道を行っている可能性があります。しかし、「ファクトチェック(事実確認)」により、メディアの報道が確かに「事実」だと判明しても、自己の認識が「もう一つの事実」だとすれば、自己の認識は「事実」ということになります。

(→完全に詭弁です。言い逃れ、と評価してもよいでしょう。)

 そうすると「事実」に反する報道を行っているメディアが、逆に「虚偽報道」であるという事実が確定的に明らかになります。

(→前提が荒唐無稽なので、結論も荒唐無稽になります。「代替的事実」は単なる「嘘」だとする意見が多いようです。このように「『事実』を認識しながら、もう『一つの事実』を信じる思考」を、『1984年』の中の用語で「二重思考」と言います。)

 

● 「バズワード」の意味・内容

  

 トランプ新政権の幹部の発言から生まれた「代替的事実」という最新キーワードは、「ポスト真実」の時代を象徴する「バズワード」とも、言われています。

 「バズワード(buzzword)」とは、一見、もっともらしいけれども、実際には、意味が曖昧な用語のことです。「代替的事実」という用語は、有権者を煙に巻く、悪質なフェイク(嘘)と言えるでしょう。

  

ーーーーーーーー

 

(神里達博氏の論考)

【8】政治が言葉を軽視するのは今に始まったことではないかもしれない。ただ、先進諸国で同時多発的に、かなり真正面から「事実」が無視され、しかもそのことを多くの人々がさほど気にもとめないという状況は、かつてあっただろうか。

【9】だがスコープを少し広げてみらば、その言うな時代が過去に存在したことに気づかされる。

【10】中世後期に書かれた「健康全書」という本がある。当時、先進地域であったアラビア世界にける養生法の書をラテン語に翻訳したもので、図版が豊富なことでも知られる。その中に、「マンドラゴラ」という植物の記述がある。これは根のところが人間の形になっており、引き抜くと恐ろしい声で叫び、聞いたものを死に至らしめると説明されている。

【11】当然、現実には存在しない生物なのだが、驚かされるのは、これがキャベツやホウレンソウなど、普通の植物の記述と並んで記載されていることだ。ここから見えてくるのは、対象が実在するかどうかではなく、集合的な主観において、リアリティーを共有できるかどうかだったのではないか、ということだ。

【12】実際このほかにも、実際・観察に基づかないために科学として成立していない記述など、事実性が重視されない中世の文献は多々見つかる。

【13】長い間、中世は暗黒の時代であり、非合理と迷信が支配していたという理解がなされてきた。これは自らが生きる「近代の価値」をことさら称揚する立場から書かれた。歪曲された歴史記述だったという面もあろう。だが、いつの間にか私たちが生きる時代が、むしろ中世に似てきているということではないだろうか。

【14】「ポスト真実」が、ツィッターなどのSNSで広がったことも、「中世化」と符合するだろう。情報化によって私たちはすでに、現実に存在する世界ではない、電子的な記号システムの体系に、リアリティーを感じるようになっている。昨年話題になったゲーム「ボケモンGO」のように、仮想空間にモンスターが跋扈(ばっこ)し、それを生身の人間が追いかけるという現象(→バーチャルリアリティ重視・擬似現実重視 )も、現実が重視されなくなっているという点では、地続きなのかもしれない。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 

● 「ポケモンGO」現象=現実軽視の風潮=感想社会・感情社会」について

 「ポケモンGO」現象と「ポスト真実」を関連づけて論じることは、きわめて正当なことです。現在の先進諸国は、政治的に危うい「感想社会」・「感情社会」に陥っていると言えるでしょう。この危機的状況を、内田樹氏・養老孟司氏が、『週刊現代』の対談の中で分かりやすく説明しているので、以下に引用します。

 

「『感想社会』スペシャル対談  養老孟司×内田樹  日本人はなぜ、『バカ』になったのか——『ありのまま』『ネトウヨ』『ヘイトスピーチ』を大批判 」 (『週刊現代 』2014・9・8 現代ビジネス)

  養老   結局、メディアの情報も世論も印象論や感想文ばかりなんですよ。データの裏付けがない「感想社会」。佐世保の同級生殺人事件のような犯罪が起きると、すぐに「少年犯罪が増えている」と言うでしょう。

内田 実際には減っていますからね。

養老 自殺率もそう。統計的なデータに基づけば、自殺率も他の先進国と比べて特別高いとは言えない。メディアの役割は本来、こういう思い込みを検証そして正すことなんですけどね。

内田 受信する側の問題もあります。情報が増えすぎた一方、個人が処理できる情報量には限度がある。だから結局受信する情報を自分に理解できる話、耳に入りやすい情報だけに限定する。ネット上にはジャンクな「オレ好み」の情報だけを蓄積した「情報通」が大量出現してますから。

養老 そうやって自分の中だけで純化し、「これこそ重要な問題だ」と確信を深めていく。新聞の一面になる記事や週刊誌の見出しだけを表面的に取得して、論理的な深掘りをしない。

内田 日本のメディアって世界的にも特殊なんですよ。読売新聞が1000万部、朝日が800万部でしょう。こんな部数の全国紙がある国なんか他にありませんから。国民の半数近くの政治的意見が朝日から産経までの社説の間に収まっていた。 

養老 情報面でも日本は一億総中流だったわけですね。 

内田 新聞の劣化とネットへの重心移動でその「総中流」が崩れて、情報においても階層化が始まっている。質のいい情報を選択的に送受信できる「情報強者」と、ジャンクな情報に曝される「情報弱者」に二極化している。「情報弱者」たちは自分たちこそ真実を知っていると素朴に信じ込んでいて、脊髄反射的に「感想」を垂れ流している。声だけは大きい。

養老 そして、「個人の感想だから」と責任逃れをする。ネットは論文や資料を探すには便利だけど、僕はそれ以外では使いません。関係ないことはいくら頭に入れてもしょうがない。いくらネットの中を徘徊したって、現実はわかりませんよ。 

内田 ネット世論は世の中を動かす力は弱いと思います。現実を動かすのは最終的には生身の身体です。実際に会って、声を聴いて、顔と顔を見合わせる場がなければ、運動なんか立ち上がりませんから。

 

 内田氏の最後の発言、ネット世論は世の中を動かす力は弱いと思います。現実を動かすのは最終的には生身の身体です。実際に会って、声を聴いて、顔と顔を見合わせる場がなければ、運動なんか立ち上がりませんから。という発言は、私も、そのように考えます。

 

ーーーーーーーー

 

(神里達博氏の論考)

【15】私は以前から、この時代は近代性が弱ってきて、いずれ中世に逆戻りしてしまうのではないかという不安を感じてきた。杞憂だとよいのだが、最近はその傾向が強まっているようにも思える。事実の軽視は言うまでもなく、恐ろしい結果をもたらしかねない。大きな時代の潮流にあらがうのは容易ではないが、近代という時代に培ったさまざまなものごとの価値を整理し、改めて確認すべき時期にあるのではないか。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 

● 「ボスト真実」の問題点

 「ポスト真実の問題点」については、「『私の真実』居直る時代 『ポスト真実』に覆われる危うさとは」(2017・3・24  朝日新聞)における、山崎望氏・三島憲一氏の意見が参考になります。

 

 山崎望氏(政治学者・駒沢大准教授)は、「『ポスト真実』の時代とは、『うそ』がはびこるというより、『私の真実』に居直る時代」だと述べています。
 作家・オーウェルが描いたのは、国家が上から真実を押しつける全体主義社会です。しかし、現代は、むしろ、各個人が「自分の真実」を勝手に主張し始めていると述べているのです。
 山崎氏は、このことは、全体主義とは異質な危険性を含むはらむとみています。  「ポスト真実」の時代に人気を得る政治家は、自分こそが「真の民衆の代弁者」と強調し、だからこそ、私が発言が「真実」と主張するのです。
 「ポスト真実」の時代は、「本当の真実」の存在は疑わない、「私の真実」の時代と評価できるということです。

 山崎氏は、「本来は、政治の場で語られる意見の違いは、妥協なしに白黒つける話ではなく、対話を通じて折り合っていくものです。しかし、『ポスト真実』の時代では、自分と相手との違いを相手の『間違い』にすり替え、多様な現実を切り捨て自分の立場に居直るから、社会の分断が深まってしまう」と、「ポスト真実の時代」の問題点を鋭く指摘しています。

 

 つまり、民主主義的議論が成立しにくくなり、共同体や民主主義が崩壊してしまうということです。

 

 一方、三島憲一氏(ドイツ哲学者・大阪大名誉教授)は、「私の真実」に居直ることの危険性はほかにもあり、政治を可能にする人間の根本的思考が破壊されてしまう可能性を指摘しています。
 三島教授は、「『うそ』は政治の世界でも珍しくはないが、ばれたら非難されるのが前提です。その前提が失われ、『正しさ』についてのモラルについて、他人と共有することを放棄してしまうのが、『うそ』に覆われた世界だ」と語ります。

 「そのような社会では、他者との、実りある政治的論争は不可能になり、自分と立場が異なる人と、公共の議論を通じて、社会を営むことができなくなるのではないか」と三島氏は述べています。

 

 要するに、社会の共同運営=「民主主義」が、不可能になってしまうということです。社会や共同体の崩壊の危険性すら、ありうるというでしょう。重大な問題のはずです。

 

● 「ポスト真実」に対する対策論

 

 「ポスト真実に対する対策論」としては、まず、 

① 無視

② SNS に頼り過ぎない

が考えられます。

 が、やはり、

③ ファクト・チェック(事実確認)

④ メディア・リテラシー(情報適応能力)の補強、粘り強い思考

が重要でしょう。

 

 以下では、最近発表された、様々な論考を参考にしながら、③・④について、検討していきます。

 

 まず、佐藤優氏の『知性とは何か』 から、参照していきます。佐藤氏は、

「SNSが普及した現代においては、瞬時の判断を求めることが流行になりつつある」と指摘しています。このことに関連して、「ソ連崩壊のきっかけは『これしかない』と判断を急いだことにあった」と述べています。

 

 瞬時の判断には、リスクが伴います。政治の重大な場面では、拙速を意識して避けるべきです。SNSなどが普及した現在、私たちは忍耐力を失いつつあるのかも、しれません。だとすれば、私たちは、日頃から、思考の忍耐力をつけるように努力するべきでしょう。

 すなわち、

③ ファクト・チェック(事実確認)

④ メディア・リテラシー(情報適応能力)の補強、粘り強い思考

が必要になるのです。

 

 同様の対策論は、

「世論形成が危ない~SNS政治に『待った』」 (芹川洋一・論説主幹 2017・3・6 日本経済新聞・オピニオン欄「核心」)でも、主張されています。

 要旨は、以下のような内容です。

「現在のような『ポスト真実の時代』においては、ネット・テレビ・雑誌・新聞が互いにチェックしながら、ゆがんだ世論形成にならないようにしていくしかない。
 求められるのは、客観主義にもとづく正確な事実、データ・証拠による比較分析、全体状況と時間軸の中でとらえていく思考だ。」

 

 ここでも、

③ ファクト・チェック(事実確認)

④ メディア・リテラシー(情報適応能力)の補強、粘り強い思考

が、強調されています。

 

 一方で、入試頻出著者である内田樹氏は、メディアリテラシーについて、以下のような見解を述べています。

 

 

「  アメリカ大統領選挙ではネット上に大量の偽情報が飛び交った。ロシアのハッカーがトランプ氏を当選させるために組織的に動いたということも、CIAは報告している。

 これについて「ネット情報の信頼性を損なった」という批判をしても始まらないと私は思う。ネット情報は所詮は「その程度のもの」である。そして、この事件を手厳しく批判するテレビも新聞も、情報の信頼性においてそれほどアドバンテージを誇れるわけではない。

 いま肝に銘ずべきことは、「私たちひとりひとりがメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」ということである。そのことをもっと恐れたほうがいい。

 「メディアリテラシー」というのは流れてくる情報のいちいちについてその真偽を判定できるほど豊かな知識を備えていることではない。そんなことは不可能である。自分の専門以外のほとんどすべてのことについて、私たちはその真偽を判定できるほどの知識を持っていない。

 だから、私たちに求められているのは「自分の知らないことについてその真偽を判定できる能力」なのである。

 そんなことできるはずがないと思う人がいるかもしれない。

 けれども、私たちはふだん無意識的にその能力を行使している。

 知らないことについて知性は真偽を判定できない。けれども、私たちの身体はそれが「深く骨身にしみてくることば」であるか「表層を滑ってゆくことば」であるかを自然に聞きわけている。

 古いバイオリンの音色は、ヨーロッパの石造りの家の厚い壁を通して、遠い部屋でも聴き取れるという。そのような言葉だけが耳を傾けるに値する。

(『AERA』2017年1月16日号)

 

 内田樹氏は、 「メディア・リテラシー(情報適応能力)」を、「身体性のレベルで考察することの重要性」を、主張しているのです。かなり参考になる意見です。

 

 

 多くの人々は、自己がどのような政治的判断をしようとも、政治的危機は当分到来しないだろうと、希望的展望の下で生きています。しかし、「事実軽視」の「咎め」は、確実に来るはずです。「ポスト真実の時代」の問題は、有権者一人一人の緊急で重大な課題でもあるのです。

 

 (3)当ブログにおける「トランプ現象」に関する記事の紹介

  

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後の予定です。

ご期待ください。

 

    

 

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談 no.105 科学を科学する……領域を超えて

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文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか (講談社現代新書)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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現古融合対策・解法ー2016早大文化『地獄変』『宇治拾遺物語』

(1)なぜ、この記事を書くのか

 

 現古融合問題、現古漢融合問題を不得意とする受験生が多いようです。

 高校でも塾・予備校でも、現古融合問題、現古漢融合問題を演習・指導する機会が少ないことが、その理由でしょう。 

 一般的には、現代文・古文・漢文を解く実力があれば、現古融合問題、現古漢融合問題を解くことに問題はないと思われているようです。

 しかし、入試本番では、単純な現代文問題よりも、現古融合問題、現古漢融合問題の方が、問題文本文の字数が、はるかに多い場合も珍しくありません。

 そのために、意識して対策をしておいた方が賢明です。

 従って、今回は、その対策記事を書くことにしたのです。


(2)現古融合問題、現古漢融合問題の解法

 

 今回の記事では、漢文問題は省略します。 

 漢文問題を省略しても、問題文本文、設問の字数が約8000字もあります。

 この問題を20~30分でやるためには、効率性を重視する必要があります。

 そこで、以下に効率的に処理するポイントを列挙していきます。

 

①  本文より先に設問を見て、問われていることを意識して本文を読むべきです。効率的に解答しなければ、時間内に解くことは不可能でしょう。本文の要約を書いている時間などは、ないことは言うまでもありません。特に、今回の現代文は小説なので、要約は全く不要です。


②  現古融合問題には、現代文・古文が独立している場合と、現代文の引用部分に古文が含まれている場合がありますが、解き方は同じです。共に、現代文が中心になっています。そして、現代文に関連する古文が出題されるのです。設問数、配点は現代文が古文より大の場合がほとんどです。現代文を中心にやっていくべきでしょう。

 

③  しかも、現代文が古文のヒントになる場合が多いのです。現代文自体が古文の解説になっていることが、つまり、現代文に古文の訳が含まれていることが多いので、このことを意識してください。

 

④  古文の設問は、基本的な文法問題、大まかな筋を聞くだけの、アッサリした問題が出題されることが多いのです。その点からも、設問から読むべきです。つまり、入試問題は、時間内に合格点が取れるように作られているのです。

 

⑤  注はヒントになります。すなわち、古文の訳が提示されている場合が多いのです。入試は案外に親切に作成されている、ということを意識してください。

 

⑥  現古融合問題においては、現代文問題よりも、設問自体が親切なヒントになっていることが多いようです。問題文本文は、もちろんですが、設問も丁寧に読んだ方がよいでしょう。

 

⑦  現古漢融合問題も、現代文が中心で、現代文に関連する古文、古文に関連する漢文が出題される場合が多いようです。比重としては、現代文>古文>漢文、となります。現代文・古文自体が漢文の解説になっているので、つまり、現代文・古文に漢文の訳が含まれていることが多いので、現代文・古文を特に重点的に精読してください。
 他の点については、現古融合問題についての上記の解説を参考にしてください。

 

 

地獄変・偸盗 (新潮文庫)

 

 

 (3)2016早稲田大学・文化構想学部の解説

 

(問題文本文)(青字は当ブログによる「注」です) 

甲A〔次の文章は、芥川龍之介『歯車』の一節である。〕

 僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁ずつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄いろい表紙をしていた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆(ほとん)ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿(さ)し画(え)の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。(それは或独逸(ドイツ)人の集めた精神病者の画集だった)僕はいつか憂鬱(ゆううつ)の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになった賭博狂(とばくきょう)のようにいろいろの本を開いて行った。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠していた。どの本も?――僕は何度も読み返した「マダム・ボヴァリイ」を手にとった時さえ、畢竟(ひっきょう)僕自身も中産階級のムッシウ・ボヴァリイに外ならないのを感じた。・・・・
 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。それから「宗教」と云う札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢きょうまん、官能的欲望」と云う言葉を並べていた。僕はこう云う言葉を見るが早いか、一層〔 ① 〕精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかった。が、〔 ② 〕精神もやはり〔 ③ 〕精神のようにやはり僕を不幸にするのはいよいよ僕にはたまらなかった。僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子(じゅりょうよし)」と云う言葉を思い出した。それは邯鄲(かんたん)の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐(だこうほふく)して帰郷したと云う「韓非子(かんぴし)」中の青年だった。今日(こんにち)の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。しかし まだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払うようにし、丁度僕の向うにあったポスタアの展覧室へはいって行った。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。しかもその騎士は兜(かぶと)の下に僕の敵の一人に近い、しかめ面を半ば露(あらわ)していた。僕は又「韓非子」の中の屠竜(とりゅう)の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。

 僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜と云う言葉を考えつづけた。それは又僕の持っている硯(すずり)の銘にも違いなかった。この硯を僕に贈ったのは或若い事業家だった。彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまった。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらいこの地球の小さいかと云うことを、――従ってどのくらい僕自身の小さいかと云うことを考えようとした。しかし昼間は晴れていた空もいつかもうすっかり曇っていた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持っているのを感じ、電車線路の向うにある或カッフェへ避難することにした。
 それは「避難」に違いなかった。僕はこのカッフェの薔薇(ばら)そう色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやっと楽々と腰をおろした。そこには幸い僕の外に二三人の客のあるだけだった。僕は一杯のココアを啜(すす)り、ふだんのように巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だった。けれども僕は暫(しば)らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だった時、彼の地理のノオト・ブックの最後に「セエント・ヘレナ、小さい島」と記していた。それは或は僕等の言うように偶然だったかも知れなかった。しかしナポレオン自身にさえ恐怖を呼び起したのは確かだった。・・・・
 僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。するとまず記憶に浮かんだのは「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の中のアフォリズムだった。(殊に「 人生は地獄よりも地獄的である」と云う言葉だった)それから   「地獄変」の主人公、――良秀と云う画師の運命だった。それから・・・・僕は巻煙草をふかしながら、こう云う記憶から逃れる為にこのカッフェの中を眺めまわした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。しかし 2  このカッフェは短時間の間にすっかり容子(ようす)を改めていた。就中(なかんずく)僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、匆々(そうそう)このカッフェを出ようとした。

「もし、もし、二十銭頂きますが、・・・・」

 僕の投げ出したのは銅貨(→銅貨には、一銭・五銭・十銭の三種類がありました)だった。

 

 (注)  銀貨・・・・当時流通していた、五十銭銀貨

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 →以下の3問は、実際の入試では、漢文の問題文本文「丙」の後ろに提示されていますが、「甲A」を読みつつ、すぐに解くべきなので、今回のこの記事では、この場所に提示しています。問題文本文より先に設問を見ておけば、「甲A」を初めて精読しながら設問を解くことができます。

 

問1  甲Aの文章における空欄①~③に入る語句の組み合わせとして、最適なものを次の中から一つ選べ。


イ 1 伝統的  2 近代的  3 反抗的

ロ 1 伝統的  2 反抗的  3 近代的

ハ 1 近代的  2 伝統的  3 反抗的

ニ 1 近代的  2 反抗的  3 伝統的

ホ 1 反抗的  2 伝統的  3 近代的

ヘ 1 反抗的  2 近代的  3 伝統的

 

問2  甲Aの文章における傍線部1「まだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていた」と記す背景に、筆者のどのような考えがあったのか。最適なものを次の中から一つ選べ。

 

イ  書棚にあった目鼻のある歯車の画集にはさまっていた針に指を傷つけられたことと、「韓非子」の青年の愚かさを重ね合わせた。

ロ  憂鬱の中に反抗的精神を呼び覚まされた際、中国故事の邯鄲一炊の夢のような白日夢を見たと感じ、陶然とした気持ちになった。

ハ  「宗教」の札を掲げた書棚にある本に、「恐ろしい四つの敵」とあるのを見て、現在の自分が地獄に堕ちているかのように感じた。

ニ  歩みを忘れて蛇行匍匐して帰郷した青年と自分を重ね合わせたペン・ネエムだが、そこに龍を殺すという真意を発見して驚いた。

ホ  現在の地獄のような状況を伝統的精神で解決しようとしたが、近代的精神に邪魔されて、かえって不幸になってしまうと感じた。

ヘ  若いころには、さして深い考えもなく用いたペン・ネエムが、のちの自らの運命を予言していたかのように感じて、慄然とした。

 

問3甲Aの文章における傍線部2に「このカッフェは短時間の間にすっかり容子(ようす)を改めていた」とあるが、それはどうしてか。最適なものを一つ選べ。

 

イ ナポレオンが記した運命の予言を思い起こし、思わずセエント・ヘレナ島にいるような錯覚を起こしたから。

ロ  短時日のうちに改装工事を行ったためか、以前来たときに比べて薔薇色の壁の色の調和が一新していたから。
ハ  昼間から夕刻にいたる太陽光線の変化によって、壁と椅子とテエブルの色が、以前とは異なって見えたから。

ニ  何ものかの敵意から避難したはずなのに、巻煙草の煙や肖像画によって恐ろしい記憶を呼び覚まされたから。

ホ  薔薇色の壁と、マホガニイまがいの椅子やテエブルの調和が保たれていないため、幸福感が増してきたから。

ヘ  カッフェの店員の勘違いにより、銀貨と銅貨を間違えられ、すぐに勘定を済ませることができなかったから。

 

 ……………………………

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

①  直前の「一層」を押さえたうえで、第一段落の「反抗的精神」に注目してください。
②  第一段落に着目する必要があります。「僕」はストリントベルグの「伝説」にも「反抗的精神の起るのを感じ」ていることに、注意してください。

(解答)  ホ

 

問2(傍線部説明問題)

 傍線部自体を、よく考えてください。そこにヒントがあります。(→本番特有の問題です。)それを意識したうえで、傍線部の直前・直後の、不吉な雰囲気に満ちた記述に着目してください。

(解答)  ヘ

 

問3(傍線部説明問題・理由説明) 

  「消去法」を使用しなければ、解答不能です。そのことを前提にして、各選択肢の傷の大小を比較する必要があります。

 ニ以外は、大きな傷があります。ニについては、「このカッフェは短時間の間にすっかり容子(ようす)を改めていた」理由の一つとして、「自分の巻煙草の煙」を挙げることは可能です

(解答)  ニ

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

 甲B〔次の文章は、甲A傍線部 b のもとになった、芥川龍之介『侏儒の言葉』「地獄」の全文である。〕
 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(カタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。

 

(注)  腸加太児・・・・炎症を伴う腸の病気。

  

甲C〔次の文章は、甲A傍線部 c が踏まえている、芥川龍之介『地獄変』の末尾の部分である。〕
 その夜雪解(ゆきげ)の御所で、大殿様が車を御焼きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩(も)れましたが、それに就(つ)いては随分いろいろな批判を致すものもおったようでございます。先(まづ)第一に何故(なぜ)大殿様が良秀の娘を御焼き殺しなすったか、――これは、かなわぬ恋の恨みからなすったのだと云う噂が、一番多うございました。が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描こうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲(こ)らす御心算(おつもり)だったのに相違ございません。現に私は、大殿様が御口ずからそう仰有(おつしゃ)るのを伺った事さえございます。
 それからあの良秀が、目前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいと云うその木石のやうな心もちが、やはり何かとあげつらわれたようでございます。中にはあの男を罵(ののし)って、画の為には親子の情愛も忘れてしまう、人面獣心の曲者(くせもの)だなどと申すものもございました。あの横川の僧都様などは、こう云う考えに味方をなすった御一人で、「如何に一芸一能に秀でようとも、人として五常を弁(わきま)えねば、地獄に堕ちる外はない」などと、よく仰有ったものでございます。
 ところがその後一月ばかり経(た)って、いよいよ地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸(おやしき)へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供えました。丁度その時は僧都様も御居合わせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石(さすが)にあの一帖の天地に吹き荒(すさ)んでいる火の嵐の恐しさに御驚きなすったのでございましょう。それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろじろ睨(ね)めつけていらしったのが、思わず知らず膝を打つて、「出かしおった」と仰有いました。この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすった時の御容子も、未だに私は忘れません。
 それ以来あの男を悪く云うものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もいなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思っているにせよ、不思議に厳(おごそ)かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱(だいくげん)を如実に感じるからでもございましょうか。
 しかしそうなった時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいっておりました。それも屏風の出来上った次の夜に、自分の部屋の梁(はり)へ縄をかけて、縊(くび)れ死んだのでございます。一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらえるのに堪えなかったのでございましょう。屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まって居ります。尤も小さな標(しるし)の石は、その後何十年かの雨風に曝(さら)されて、とうの昔誰の墓とも知れないように、苔蒸(こけむ)しているにちがいございません。

 

乙 〔次の文章は、甲C芥川龍之介『地獄変』のもととなった『宇治拾遺物語』該当説話の全文である。〕

 これも今はむかし、絵仏師良秀と云ありける。家の隣より火出きて風をしおほひてせめければ、逃出て大路へ出にけり。人のかかする仏もおはしけり。又、衣きぬ妻子なども、さながら内に有りけり。それもしらず、ただ逃いでたるをことにて、むかひのつらにたてり。
 みれば、すでに我家にうつりて、煙、炎くゆりけるまで、おおかたむかひのつらに立てながめければ、「あさましきこと」とて、人ども、きとぶらひけれど、さはがず。「いかに」と人いひければ、むかひにたちて、家の焼くるを見て、うちうなづて、時々わらひけり。 「あはれ、しつるせうとくかな。年ごろはわろく書きたる物かな」と云ふ時に、とぶらひにきたる者共、「こはいかに、かくては立ち給へるぞ。あさましき事かな。のつき給つるか」といひければ、「なんでう、物のつくべきぞ。年ごろ、不動尊の火焔をあしく書ける也。今みれば、かうこそ燃えけれと、心えつるなり。これこそ、せうとくよ。この道をたてて、世にあらんには、仏だによく書たてまつらば、百千の家も出来なん。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、をもおしみ給へ」と云ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。

 其後にや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めであへり。

 

 (注) せうとく・・・・所得。利益のこと。

         わたうたち・・・・お前たち。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問4  乙の文章における傍線部3に「家の焼くるを見て、うちうなづて、時々わらひけり」とあるが、良秀はなぜ家が焼けるのを見て笑ったのか。その説明として、最適なものを一つ選べ。

イ  これまで見たことのないような炎を見て、新しい境地を発見した喜びと、高みに達したという満足感を得たから。

ロ  車に閉じ込められ焼き殺された娘の苦しみを思い合わせ、安閑として生きながらえない自らの運命を悟ったから。

ハ  火事見舞いにかけつけた者たちに妻子を焼き殺したことを告白したことによって、自責の念がより強くなったから。

ニ  怨霊にとりつかれ、意識せずに火を付けてしまったことにより、あらゆる罪悪感が喜びに変わってしまったから。

ホ  どうしても描けなかった不動尊の火炎を表現できたことにより、家などは今後何軒でも建てられると思ったから。

ヘ  人面獣心と非難されながら絵を描き続けてきたものの、唯一の拠り所であった妻子を失ったことに気付いたから。

 

問5乙の文章における傍線部4・5の意味として、最適なものを、それぞれ次の中から一つ選べ。

イ 動作   ロ 楽器   ハ 財産
ニ 言葉   ホ 悪霊   ヘ 食物


問6  乙の文章に用いられている敬意を表す活用語をすべて取り出し、敬語の種類と活用形を確認した上で、その組み合わせが本文にみえるものを次の中から二つ選べ。

イ 尊敬・未然形    ロ 尊敬・連用形
ハ 尊敬・終止形    ニ 謙譲・連体形
ホ 謙譲・已然形    ヘ 謙譲・命令形

 

問7  甲A~C・乙の文章の、いずれかの内容と合致するものを次の中から選べ。

イ  芥川龍之介は、『荘子』の「屠龍」の語に、自分の名前に含まれる龍を屠るという寓意を感じたので、死への恐れを克服するために地獄を描く作品を次々と執筆した。

ロ  芥川龍之介は、『侏儒の言葉』において、人生の苦しみに比べれば地獄はたいした存在ではなく、住み慣れれば特別な苦しみなど感じなくなってしまうだろうと説いた。

ハ『地獄変』において、横川の僧都様は数少ない良秀の庇護者であり、完成した地獄絵の屏風を見てあまりの出来の良さに感動したため、大殿様に笑われてしまった。

ニ  芥川龍之介は、『宇治拾遺物語』を換骨奪胎して、『地獄変』を芸術至上主義的な作品に昇華し、自死した良秀を炎熱地獄から極楽に往生した人物とした。

 

  ……………………………

 

(解説・解答)

問4(傍線部説明問題・理由説明)(解説・解答)

 「乙の文章」については、問4~6の3問しかないことを確認してから、本文を読んでください。この設問を意識して本文を読むことこそ、効率性重視です。

 本質的・中心的理由が正解になります。イが正解になります。なお、甲C『地獄変』第一段落の「大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描こうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲(こ)らす御心算(おつもり)だった」の部分がヒントになることを確認してください。

 ホのような、表面的・物質的理由は、本質的・中心的理由に劣ります。

(解答)イ

 

問5(傍線部説明問題・意味説明)

  傍線部の直前・直後の精読が不可欠です。特に、直後の動詞がポイントになります。

(解答)4=ホ5=ハ

 

問6(古文文法問題・敬語)

(解答)イ・ロ


問7(趣旨合致問題)

 趣旨合致問題も、まず、設問の選択肢を見てから本文を読むようにすると効率的です。

 

 ロについては、乙の文章の最終文に注目してください。他の選択肢は、本文に記述のない表現を含んでいます。

 なお、問題文本文の甲Bに関する設問は、これのみです❗ 設問を問題文本文より先に見て、効率的に処理するべきです

 

 また、甲Cについての設問は、問7のハ・ニだけです❗ あとは、問4のヒントになっているだけです

 

 甲B・甲Cを精読する前に、このことを知っておくべきです。設問を先に見ないで、問題文本文を闇雲に精読することは、実に愚かなことです。

 

 現古融合問題、現古漢融合問題は、問題文本文の総字数は5000~8000字に及ぶ場合が多いのですが、効率的に対応すれば、20~30分で処理することは、充分に可能です。くれぐれも、このことを意識しておいてください。

 
(解答)ロ

 

 乙(『宇治拾遺物語』)の現代語訳(口語訳)

 これも今となっては昔の話ですが、仏画の絵師で良秀という者がいました。家の隣から火が発生して、風が(火に)おおいかぶさって(火が)迫ってきたので、(良秀は)逃げ出して、大通りに出てきました。(家の中には、)人が(依頼して)描かせている仏様もいらっしゃいました。また衣服を着ていない(良秀の)妻や子なども、そのまま家の中にいました。(良秀は)それを認識することなく、ただ(自分が)逃げ出したことをよしとして、(家の)向かいの側に立っていました。 
 見ると、すでに我が家に燃え移っており、煙や火が立ち上ったときまで家の向かいに立って総じて(その様子を)眺めていたので、 
「大変なことですね。」
と言って、人々が見舞いに来たのですが、(良秀は)動じていません。 
「どうしたのか。」
と(ある人が)言ったところ、(良秀は燃え上がる家の)向かいに立って、家が焼けるのを見て、うなずいて、時々笑っていました。 
「ああ、もうけものをしたよ。長い間(私は背景の炎を)下手に描いてきたものだよ。」
と(良秀が)言うので、見舞いに来た人々が、 
「これはどうして、このようにしてお立ちになっているのですか。驚きあきれたことだよ。霊が取り付いていらっしゃるのですか。」
と言ったところ、(これを聞いた良秀は、) 
「どうして霊がとりつくことがあろうか。(いや、ない)。長い間、不動尊の(背景の)炎を下手に描いていたのだ。今見ると、(火は)このように燃えるのだったなあと納得したのだ。これこそもうけものだよ。この道(絵を描く職業)で生きていくならば、仏様さえうまく描き申し上げていれば、100軒1000軒の家もきっと建つだろうよ。お前たちこそ、これといった才能もお持ちでないから、物を惜しみなさるのだ。」
と言って、馬鹿にして笑って立っていました。 
 その後のことでしょうが、良秀のよじり不動として、今でも人々が(彼の絵を)称賛し合っています。 

 

 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

  

  

 

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地獄変

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今昔物語集・宇治拾遺物語 (新明解古典シリーズ (7))

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題「ナウシカとニヒリズム」重田園江・2014学習院大過去問

 (1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 現代社会は「ニヒリズム(虚無主義)」が蔓延している時代だ、と言われています。現代思想を理解するうえで、「ニヒリズム」の理解は必要不可欠です。入試現代文(国語)・小論文においても、「ニヒリズム(虚無主義)」は、頻出論点・流行論点になっています。

 一方で、宮崎駿氏の作品に関する論考も、最近では頻出です。例えば、2014年度には名古屋市立大で、鎌田東二氏の「鎮守の森から見たトトロ論」が出題されています。

 このような状況で、重田園江氏の「ナウシカとニヒリズム」(『世界思想』2013 春号 )が、2014年度の学習院大(経済)が出題されました。

 重田氏の論考は、本質的で明解です。頻出出典になる可能性があるので、今回は、この論考を現代文(国語)・小論文対策として、記事にすることにしました。


 なお、宮崎駿氏の『風の帰る場所』を参照します。 

  

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

 

 

(2)重田園江『ナウシカとニヒリズム』2014学習院大(経済)の解説

 

(問題文本文)

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

 

「【1】ニヒリズムって何だろう。

【2】ウィキペディア日本語版には、「ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism / 独: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。名称はラテン語の Nihil (無)に由来する」とある。

【3】ニヒリズムという言葉を耳にしたことがある人には、これはごく一般的な定義だろう。ニヒリズムは虚無的で、世界にも生にも意味がないと言う。そのため「生きていてもしかたがない。どうせこの世には意味がないのだから」という厭世(えんせい)主義を生む。逆に「どうせ意味などないのだから、あと先考えず好き〔P〕題に生きればいい」という刹那(せつな)的快楽主義にも結びつく。

【4】おそらく多くの人と同じように、私も長らく、世界の悲惨さに直面するがゆえに生を浪費するこうした態度こそ、ニヒリズムだと考えていた。生きることは無価値だとこの世界と生を否定するか、それならばどう生きてもいいと快楽の限りを尽くすか。これらは表面的な生き方としては正反対に見えるけれど、根底にはニヒリズムという一つの共通項があると。

【5】宮崎駿『風の谷のナウシカ』(全七巻、徳間書店)には、主人公の少女ナウシカが「虚無」に抗うシーンがくり返し出てくる。ナウシカは戦いに次ぐ戦いの日々を過ごし、数かぎりない生命が、まるで何の価値もないかのように踏みつけられ、犠牲にされ、無残に果てて ゆく姿を、あまりにも多く見てきた。やがて彼女は心身ともに〔 ア 〕し、虚無に苛(さいな)まれ、呑(の)まれそうになる。

【6】作品中、虚無と対峙(たいじ)するシーンはさまざまなヴァリエーションで現れる。A  虚無はときに、骸骨(がいこつ)のような醜さで彼女の前に姿を見せ、誘惑に失敗すると苛立ちを隠さない。あるいは全く正反対に「楽園」の姿で近づき、そこに閉じ込めようとする。

【7】この物語を読んではじめて気づいたことがある。それは、ニヒリズムとは厭世主義でも刹那的快楽主義でもないということだ。ニヒリズムは無を認めることで生の意味を否定する態度ではない。むしろ無を認めることを避け、現実から目を逸らしたまま生の意味を肯定できる場所にとどまろうとする態度なのだ。

【8】よく考えてみれば、この世界に意味などない、だから人間の生にも定まった目的はないと認めるのは、恐ろしいことだ。厭世主義者や快楽主義者は、この「無意味さ」を進んで受け入れる。だから彼らには、ニヒリストにはない勇気と、それでも人が生きているという事実を、事実として〔 イ 〕する力がある。

【9】『ナウシカ』で言うなら、土鬼の皇兄ナムリスがこうした人物の筆〔Q〕だろう。ナムリスは人間の営み、とくに支配者として殺戮のかぎりを尽くす自分たちのような人間が、きわめて下劣で愚かだとよく分かっている。それを承知で、役割を果たすかのように卑怯な策略を めぐらし暴虐を尽くし、世界が終末に至る次第を見届けようとする。

【10】これと対照的なのが、ナウシカが巨神兵を連れて「墓所」を封印しに行く途中で出会う、トルメキアの二人の王子たちだ。彼らは無益な戦いに倦(う)み疲れているが、父王の言いつけに背いて遁走(とんそう)する勇気はない。さりとて自ら戦いの先頭に立つ気概もなく、小心さと用心深さでその場を切り抜けることだけに〔 ウ 〕する人たちだ。彼らはナウシカとともに、「墓所の庭」と呼ばれる楽園へと招き入れられる。

【11】図書館を思わせる巨大な部屋で古楽器に向かい、楽譜を再現し音を奏でるのに夢中になっているのは二人の王子だ。彼らの表情は活き活きし、戦場におけるのとはまるで別人だ。ナウシカもまた、この庭の外にあるすべてを忘れてしまいそうになる。だがそのとき、ずっと一緒に旅をしてきた゚テト」という名の小動物を思い出す。テトの名をきっかけに彼女は我に返り、「庭」からの脱出を〔 エ 〕する。

【12】ナウシカはそれまで何度も虚無と対決してきた。虚無は尊敬する人の姿をとり、もっともらしい理屈をたずさえて、生の意味を否定してくる。人間は醜く愚かで、世界に何一つ有益なものを残さない。い彼らを救うことにも彼らの世界に関わることにも意味などない。それどころか、お前もまた人間として、大地と生き物たちを傷つけ穢(けが)す愚か者のひとりなのだと。

【13】だが最後の、最も重要な対決は、こうした場面をそのままくり返さない。それは楽園の姿をとって現れる。美しく、平穏で、その静けさが薄汚い世界のすべてを忘れさせる、楽園の姿で。

【14】物語の中で、ナウシカは突然「ここから出なければ」と直感する。それはニヒリズムの本質が、この世界を見た上で否定することではなく、人間たちの醜さと愚行、それによって穢され踏みにじられる世界を、〔  X  〕ことにあるからだ。

【15】トルメキアの王子たちは、ついさっきまで自分たちが生きていた、血と欲望と争いに満ちた世界を完全に〔 オ 〕してしまう。彼らは過去も未来も問うことのないまま、時間なき一生を墓所の庭で過ごすのだろう。 B  この王子たちは生まれながらの悪人でも暴君でもない。ただ小心なだけだ。時代が少し違えば、真っ当に生きられた人たちだろう。彼らには、戦乱に明け暮れる世界の悲惨さとともに生きる力がないだけだ。

【16】ナウシカがもとの世界に帰るきっかけは、彼女が愛した小さな生き物の名を思い出すことだった。この小さな生き物が息づく世界に戻ることは、愚かな殺戮を行い世界を焼き尽くすことで、一時でも疑心から解放され、小さな虚栄心を満たそうとする人々の思惑の渦の中に、再び飛び込むことを意味する。

【17】それを承知で、彼女はこの世界を選び取るのだ。ナウシカははじめから、逃れられない運命に否〔R〕なく巻き込まれる人間としては描かない。

【18】物語の終わり近く、ナウシカは「森の人」と呼ばれる種族の少年に、世界の秘密を握る森で一緒に生きてほしいと誘われる。彼女の返答は、「あなたは生命の流れの中に身を置いておられます。私はひとつひとつの生命とかかわってしまう」というものだ。このときも彼女は「こちらの世界」にとどまることを選択する。

【19】ナウシカは旅の中で、世界の悲惨、人々の愚かさ、移ろいやすさ、思慮のなさ、無軌道な欲望といった真実を、そこここに積み重なる死体とともに見てきた。

【20】こうした体験は、一見相異なるが根は共通する二つの考えに帰着しうる。一つはトルメキアの王子たちに見られるものだ。彼らはこの世界の外に楽園を探し、そこに安息の地を見出すことで、嫌な記憶をすべて消し去ってしまう。もう一つは、ナウシカを誘う虚無の語りとしてくり返し現れるものだ。虚無は、現実の苦しみや悲しみには何か人知を超えた意味があるのだと信じ込ませようとする。これは人が宗教にすがり来世での救済を求める際、しばしば寄りかかる理屈だ。この考えによるなら、この世が汚く苦しみに満ちているほど、救世主の到来は近い。

 

【21】ナウシカはどちらの態度も決して受け入れない。それらはいずれもこの世界の外部を拠り所に、現実世界そのものを見ないですますからだ。そしてこれこそニヒリズムの本質なのだ。ニヒリズムとは、この世界が苦しみに満ちていることを、恐怖や臆病(おくびょう)ゆえに直視しない態度だ。そこから、世界の外側に苦しみの根拠を求め「意味」をねつ造するか、現実を忘却させる楽園に逃げ込むかはどちらでもありうる。私に分かるのは、ニヒリズムは戦場に特有のものではないということだ。 むしろ日常のあちこちにあって、無関心や逃避や安易な意味づけの形で、私たちの心にするりと忍び込む。

 

【22】C  ニヒリズムは危険すぎる。これこそ、ニーチェが一九世紀末にまさに生命を賭けて訴えようとしたことだ。宮崎駿はニーチェのよき理解者として、戦いの寓話の中でニヒリズムに抗する物語を再び語ったのだ。

(重田園江『ナウシカとニヒリズム』 )

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1  空欄ア~オに入る最適な語を次の中から、それぞれ一つ選べ。ただし、一つの語は一箇所にしか入らない。

1 演技  2 決意  3 熟睡  4 遡行(そこう)

5 認識  6 破壊  7 疲弊  8 飛躍

9 腐心  10 忘却

 

問2  空欄P~Rに入る最適な漢字一字を、次の中からそれぞれ一つ選べ。

1 圧  2 応  3 改  4 決  5 主  6 順

7 舌  8 先  9 定  10 頭  11 認  12 方

13 放  14 命  15 例


問3  空欄Xに入る最適な語句を次の中から一つ選べ。

1 肯定していく
2 単に否定する
3 見ないですます
4 乗り越えていく
5 幻視して浄化する


問4  傍線部Aに「虚無はときに、骸骨のような醜さで彼女の前に姿を見せ」るとあるが、なぜ「虚無」はナウシカの前に「骸骨のような醜さ」で登場するのか。その理由を説明した次の文の空欄甲~丙に入る最適な語句を、本文の中から指定の字数でそれぞれ一つ抜き出せ。ただし、乙と丙に同じ語句は入らない。字数は句読点、記号、符号を含む。 

〔 甲 〕(3字)な欲望をもった人間たちが〔  乙  〕(6字)ということを示すとともに、その人間たちによって汚されていく〔  丙  〕(6字)をナウシカにつきつけるため。

 

問5  傍線部B「この王子たちは生まれながらの悪人でも暴君でもない。ただ小心なだけだ」とあり、筆者はトルメキアの王子たちの「小心」さを批判している。筆者は彼らには、どういうことが必要だったと考えているか。その説明として最適なものを次の中から一つ選べ。

1 王子たちには上位の権力者の命令に逆らう勇気が必要だった。
2 王子たちには兵たちを指揮する者として最前線に立つ勇気が必要だった。
3 王子たちには政治を担う者として争いに満ちた世界を正す勇気が必要だった。
4 王子たちには人間の営みの空しさを受け入れて踏みとどまる勇気が必要だった。

5 王子たちには現在の状況と対決できる有益な方法を見つけて実行する勇気が必要だった。

 

問6  傍線部Cに「ニヒリズムは危険すぎる」とあるが、筆者がこのように述べたのは、なぜか。その説明として適切なものを次の中から二つ選べ。

1 ニヒリズムは、物質文明の無制限の発展を助長して、世界の生物的な均衡を崩してしまうから。

2 ニヒリズムは、現実を超越した楽園や擬似現実をつくって、目前の苦悩を昇華させているから。

3 ニヒリズムは、現実を生きていくために必要な理性を、一時的な快楽によって混乱させてしまうから。

4 ニヒリズムは、人々の選択する力を奪い、破滅へとむかう運命に巻き込むような力をもっているから。

5 ニヒリズムは、生きている現実の生々しさや厳しさから人々を遊離させて別世界へと誘ってしまうから。

6 ニヒリズムは、変動する社会状況の中で、生の意味を否定することで、我々の生きる活力を奪ってしまうから。

7 ニヒリズムは、通常の日常的な営みの中に遍在していて、我々に取りつくさまざまの機会をうかがっているから。

8 ニヒリズムは、一般的な定義とは異なって、逆説的に、人々の現実的な関心を高めてしまい、かえって社会秩序が不安定になるから。

 

ーーーーーーーー

 

(解説・解答)

問1(空欄補充問題)

 この問題は精読・熟読が不可欠です。段落の要約、全体の要約は、有害無益です。問題を解きながら、このことを確認してください。

ア  直後の「虚無に苛(さいな)まれ、呑(の)まれそうになる」を意識する必要があります。

イ  直後の段落に注目してください。

ウ  直前の「自ら戦いの先頭に立つ気概もなく、小心さと用心深さでその場を切り抜けることだけに」という表現との接続関係に、留意する必要があります。

【14】段落に注目してください。

オ  直後の四文に着目するとよいでしょう。

(解答)

ア=7  イ=5  ウ=9  エ=2  オ=10

 

問2(空欄補充問題)

 この問題も精読・熟読が不可欠です。段落の要約、全体の要約は、有害無益です。 

 また、この問題は、単語力が問われています。入試本番では、模試よりも、単語力。教養が多く問われます。日々、これらの知識増強を図るようにしてください。では、なぜ、模試、特に予備校系の模試では、単語力教養を重視していないのか? 無知、あるいは、予備校の存在意義の低下を防ぐためではないかと思われます。 

(解答)

P=13   Q=10   R=2

 

問3(空欄補充問題)

  【14】段落の「物語の中で、ナウシカは突然『ここから出なければ』と直感する。それはニヒリズムの本質が、この世界を見た上で否定することではなく、人間たちの醜さと愚行、それによって穢され踏みにじられる世界を、〔X=見ないですます〕ことにあるからだ。」という文脈に注意してください。

 

(解答)  


問4(空欄補充問題)

甲→「〔 甲 〕な欲望をもった人間たち」とあるから、「欲望」をマイナス評価する表現が入ります。

乙→「甲な欲望」から派生する「人間の実態」をイメージするとよいでしょう。

丙→乙になった人間たちが作り出す「環境」を意識する必要があります。

(解答)

甲=無軌道

乙=下劣で愚かだ

丙=世界の悲惨さ


問5(傍線部説明問題)

 本文での「ニヒリズムの本質」が「現実を直視しない態度」であることを読み取ってください。
 その上で、そうではない態度を選択する必要があります。

(解答)  


問6(趣旨合致問題)

 趣旨合致問題は、問われている点だけが分かれば良いのです。本文を読む前に、選択肢を見るようにしてください。

 この問題も精読・熟読が不可欠です。段落の要約、全体の要約は、有害無益です。問題を解きながら、このことを確認してください。

 直前の段落に、「ニヒリズムの本質」についての、筆者の本質的分析が述べられていることに、着目するとよいでしょう。

 宮崎駿氏も、筆者である重田氏も、ニーチェの立場である「能動的ニヒリズム」に賛成しているようです。この点、つまり、「能動的ニヒリズム」について、さらに以下に解説していきます。

(解答)  5・7

 

 

(3)「ニヒリズム」についてー「ニーチェ」の思想・「能動的ニヒリズム」

 

   「ニヒリズム(虚無主義)」とは、この世界には、目的・価値などがないと主張する哲学的な立場です。


 ニーチェによれば、ニヒリズムに対して、私たちが取りうる態度は大きく分けて二つあります。

 一つは、無価値な現実世界に絶望し、目先の状況に身を委ねて生きるという人生態度です(「消極的・受動的ニヒリズム」)。

 もう一つは、すべてが「無価値」・「仮象」ということを前向きに考える生き方です。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を真剣に生きるという態度です(「積極的・能動的ニヒリズム」)。

 ニーチェは「積極的・能動的ニヒリズム」を強く肯定し、「永劫回帰」の思想の下で、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることを推奨しています。

 

 「ニヒリズム」の中で、まどろんでいるだけでは、ニーチェは人間は「末人(まつじん)」になってしまうと言っています。

   「末人」とは、「安楽重視で、憧れ・目標を持たない人間」です。ニーチェは「人間は憧れの矢を持っていなければいけない」と主張するのです。そうでないと、ノミみたいな人間(末人)ばかりになってしまうと考えていました。

 

 

 (4)宮崎駿氏の「能動的ニヒリズム」ー『風の帰る場所』

 

 宮崎駿氏は、「能動的ニヒリズム」の立場をとっているようです。宮崎駿氏のインタビュー集『風の帰る場所』の中で、次のように述べています。

「国境もなにもいろんなものがひしめきあい交じりあいながら生きていかなければならないときに、80年代の簡単な民族主義や安直なニヒリズムの刹那主義はうんざりだ。だから、どういうようにして自分は生きていけるということも含めて、もう少し本質的な映画を作らないと駄目な時期がきたと思うのです。」

 

  『風の帰る場所』の中で、宮崎氏は、さらに、「突き抜けたニヒリズム」について語っていました。

「伝導の書(旧約聖書の一書)に書かれている突き抜けたニヒリズムというのは読んでいてちょっと元気が出ました。 汝の尽くせる限りのことを尽くせと、黄泉(よみ)の国にいったら何にも無いよって(笑)。権謀も術策もないけど知恵も知識もない、だからお前の空なる人生のあいだは自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗流して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様もよしとしてるんだっていう。すごいですねぇ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだ、ということを初めてその時知ったんですけど(笑)」

 

 ここで言う「突き抜けたニヒリズム」は、「能動的ニヒリズム」と、ほぼ同内容と考えてよいでしょう。

 

 さらに、「突き抜けたニヒリズムを動機づけるものは?」と聞かれて、宮崎氏は、次のように答えています。

「ええ、難しいですね、ものすごく難しいと思います。でも安直なイデオロギーは手に入れたくないですね。だからやっぱり、ある種の歴史観で見ちゃうと「どうしてこの時代に人が生きていたんだろう、生きていられたんだろう」って、理解できなくなる瞬間があるんですよ。どうも人が生きるっているのは、そういうのとはなんか根源的にちょっと違うものなんだなっていう。「人がなぜ生きていくのか」とかさ。それをこのごろ思いますね。子供をいっぱい作れっていうようになっちゃいましたから(笑)。

 とにかくいっぱい作っていっぱい苦しんでね。アトピーに悩み、環境問題に悩み経済に悩みながら生きていくことがどうやら生きてくということらしいと。そうやって当面、あと10年ぐらい生きていこうっていう風に僕は決めたんです。」

 

「実は僕は母親とその問題をめぐって、ずーっと思春期の頃に論争してたんです。『人間っていうのは仕方がないものなんだ』っているのがオフクロの持論で、僕は『そんなことはない』って言い合ってたんですけどね。どうもこのままいくと、オフクロに無条件降伏になるから嫌だなと思って(笑)」

 宮崎駿氏は、母親の影響を受け入れて、「人間というのは仕方がないもの」ということを認めながら、何とか生きていく「突き抜けたニヒリズム」の立場をとっているようです。

 

 

(5)「能動的ニヒリズム」と「ナウシカ」

 

 以上の記述をもとに、今回の問題の「ナウシカ」のストーリーを解説します。

 「ナウシカ」は途中まで、「受動的ニヒリズム」に悩まされます。

 しかし、「墓所の主」と対峙する(【5】段落以下)に至って、「能動的ニヒリズム」に目覚めます(【14】段落)。

 物語の途中で、ナウシカが「虚無」に悩まされるシーンが、繰り返し出現します。

 これらのシーンは、「ナウシカ」が「能動的ニヒリズム」に目覚めるための、苦しみの過程と評価できます。

 

 

(6)当ブログの「ニヒリズム」・「ニーチェ」関連の記事、「哲学用語集」の紹介

 

 当該ブログでは、最近、 「歪んだ能動的ニヒリズム」についての、藤田省三氏の論考、「『安楽』への全体主義」(『全体主義の時代経験』)を解説した記事を発表しました。ぜひ、ご覧ください。

 なお、以下は、当該記事の藤田省三氏の論考の要旨です。

「今日の社会は、不快の源を一掃して、一面的な「安楽」を追求する能動的ニヒリズムの状態に陥っている。その結果、人生の多様な素晴らしい緒価値を「安楽」に隷属させ、事物との相互的な交渉に基づく「経験」が失われてしまった。人生の歩みは、平板な時間の経過となり、人生にはリズムが無くなることになった。」

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 「哲学用語集」としては、以下の2冊を、おすすめします。

現代思想史入門 (ちくま新書)

現代思想史入門 (ちくま新書)

 

 

現代思想を読む事典 (講談社現代新書)

現代思想を読む事典 (講談社現代新書)

 

 

 以下の記事は、上記の2冊を紹介した内容になっています。

gensairyu.hatenablog.com

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

(7)重田園江氏の紹介

 

 ①人物紹介

重田 園江(おもだ  そのえ)
1968年兵庫県西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本開発銀行を経て、東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得。現在は明治大学政治経済学部准教授。専門分野は政治思想史、現代思想、社会思想史、ミシェル・フーコー研究。

②著作 

『フーコーの穴――統計学と統治の現代』(木鐸社、2003年)、
イアン・ハッキング『偶然を飼いならす――統計学と第二次科学革命』(共訳、木鐸社、1999年)、
芹沢一也・高桑和己編『フーコーの後で』(慶應義塾大学出版会、2007年)、
『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』(勁草書房、2010年)、
『ミシェル・フーコー――近代を裏から読む』(ちくま新書、2011年)、
『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書、2013年)など。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

   

 

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社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

 

 

ミシェル・フーコー ――近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー ――近代を裏から読む (ちくま新書)

 

  

風の谷のナウシカ コミック 1-7巻セット

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風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡 (文春ジブリ文庫)

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡 (文春ジブリ文庫)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 

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予想問題「人工知能の開発・その先の不老不死人間の問題点」山崎正和

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 今回の記事は、トップレベルの入試頻出著者である山崎正和氏の論考、「人工知能の開発ー『薔薇色』実は深刻な問題 不死が生む  傲慢な世界」(〈地球を読む〉2017・2・26『読売新聞』)の解説です。

 

 今回の山崎正和氏の論考は、「人工知能の近未来の問題」を哲学的・根源的にかなり深く掘り下げて検討しています。
 人間以上の判断力と創造力を持った人工知能、それを利用した、もはや人間とは言えないような不老不死の「非生物的人間」が開発されたら、どのような問題が発生するか、についての哲学的・皮肉的な思考実験と言えるでしょう。

 相変わらず、切れ味抜群です。山崎氏は健在です。

 今回の論考は、山崎氏独自の皮肉、逆説のレトリックが駆使され、読み応えがあります。

 広く深く、視点が転換する演劇的な構成が、実に絶妙です。

 この練りに練った至高の論考は、近いうちに、難関大学の現代文(国語)・小論文に出題される可能性が極めて高いと思われます。

 予想出典、予想問題、予想論点として、注目するべきです。

 しかも、「人工知能」は最近の流行論点・頻出論点です。

 最近でも、2016東大現代文・一橋大現代文で本文ズバリ的中、2017センター試験国語・東大現代文などで論点的中させた私のセンサーが強く反応しています。(→的中報告記事のリンク画像を、下に貼っておきます。)
 そこで、現代文(国語)・小論文対策として、今回の記事を書くことにしました。

 

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 今回の論考は、まず、「最新の人工知能はただのコンピュータとは違い、自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力を秘めている」(【2】段落)ことを前提にしています。

 そして、さらに人工知能が進化して、自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力を獲得したら、どのような問題が発生するか、

 さらに、人工知能を利用して、人間の不老不死が実現したら、どのような問題が発生するかを哲学的・皮肉的に考察した思考実験です。

 しかし、最終段落の「  言うまでもなく、人工知能の技術は有用、不可欠である。だがそれを研究し論ずる人はもっと足を地につけたほうがよい。早い話が完全自動運転の車の開発に各社が狂奔しているなかで、老人運転車がアクセルとブレーキを踏み誤るといった、現存の技術で対応できる事故を防ぐ車がまだ普及していないのである」という記述を読むと、山崎氏は、人工知能が最終的に「自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力」を獲得する可能性は極めて低いと考えているようです。

 

 「『 創造的 』な仕事を含むすべての仕事をロボットが行い、全人類が余暇を楽しむ夢のような社会」(【7】段落)、

 「人工知能を利用して個人として永遠に生きる、不老不死の『非生物的人間』の創造」(【12】段落)の実現可能性は、極めて低いということになります。

 

 

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

 

(2)「人工知能の開発ー『薔薇色』実は深刻な問題 不死が生む  傲慢な世界」(山崎正和〈地球を読む〉2017・2・26『読売新聞』)の解説

 

(概要です)

(【1】・【2】・【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)


【1】このところマスコミを騒がせている最大の話題の一つは「人工知能」だろう。人工知能(AI)と、それをロボットに載せるテクノロジーの知能化、あらゆる物をインターネットで結ぶ(IoT)は蒸気機関の発明、電力エネルギーの導入、コンピューターの応用についで、「第4次産業革命」を起こすだろうといわれる。

(→近未来の、日本の急激な人口減少社会、少子化社会を意識しています)

 

【2】最新の人工知能はただのコンピュータとは違い、自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等か、それ以上の精神活動を行う能力を秘めている。工場労働をはじめとして、介護や医療の分野人間の代りができるから、これで労働力不足の心配はなくなるという声がある。ある推計によれば、肉体労働、事務労働の8割が人工知能に委ねられると予想されるという。


【3】これを聞いて朗報と受け取る人が多い。未来学者は勿論、TVタレントでさえ「薔薇色」の時代が来たと囃(はや)し立てるありさまである。だが、すでに思慮深い少数派が指摘しているように、この薔薇色の背後には失業と転職という深刻な問題が潜んでいる。

(→「仕事から解放されるということ」は、「収入ゼロ」になるということです。このことの重大性を社会は、もっと意識するべきです)

 

【4】楽観論者は事態を軽く見て、事務や肉体労働の従事者は「創造的」な仕事に転職すればよいという。だが本人がその気になっても中年の事務職員がデザイナーや科学研究者へ転職することが可能だろうか。恐ろしい時間と努力が必要だが、その間の生活費と研修費用を誰が負担するのか。しかも、楽観論者は職業観に偏見があって、事務職員が仕事を愛し、それまで生きがいを覚えて働いてきた事実を忘れている。

(→つまり、生きがいを喪失する人々が大量に発生するということが、どういう事態に繋がるか、という想像力が欠けているのです。費用の問題も重大ですが、精神を病む人間の大量発生が予想されます。軽視できないことです。早めの対策が必要になるでしょう。)

  

【5】また考えれば脅威はさらに重大であって、人工知能が究極まで進化すれば、人類の100%が失業する可能性もないとはいえない。「創造的」な仕事もロボットがすることになれば、人類は完全に自由になるが、しかし完全に無収入にもなる。そうなれば消費は皆無になるから、ロボットの従事する生産も無意味になってしまう。どうしても無人企業が生み出す収益を適切に分配し、余暇を楽しむ全人類を生活させる一種の共産主義(→完全なる「ユートピア社会」と言えるでしょう。市民が労働から解放された、古代ギリシアのポリス社会を連想してしまいます。)が必要となる。

 

【6】ところが従来の共産主義が夢に過ぎず、その過程の社会主義的分配が強権と官僚主義を招くことを、人類はすでに学んでしまった。この弊を避ける知恵を現在の人類は持たないから、ここでも新しい深遠な英知を将来の人工知能に期待するほかはあるまい

 (→この部分では、山崎氏は人工知能に対して、かなりの敬意を表しています。しかし、この敬意が本心なのか、強烈な皮肉なのか、は問題になるところです)

 

【7】創造的 」な仕事を含むすべての仕事をロボットが行い、全人類が余暇を楽しむ夢のような社会は、果たして実現可能だろうか。その場合、ロボットが生み出した収益の配分も人工知能に頼ることになる。要するに平等や公正といった価値観も人工知能に育ててもらうわけだ。

 (→この部分でも直前の【6】段落と同様に、、山崎氏は人工知能に対して、かなりの敬意を表しています。しかし、この敬意が本心からのものなのか、はかなり疑問です。直後の【8】段落から、このことは明らかでしょう。詳しい説明は、【8】段落でします。)

  

 【8】いくら人工知能に自由に考えてもらうといっても、その思考の出発点となる資料は現代の人類が入れるほかなく、入れる内容は現代の価値観しかないという現実がある。人工とはいえ、知能は知能だから無から考えから始めるわけにはいかず、必ず思想史上の過去に縛られ、助けも受ける。(→人工知能の限界です。機械に、「機械自体の限界」があるのは、考えてみれば、当然のことです。そして、この限界は、「致命的限界」とも言えそうです。すなわち、人工知能は、あくまで「知能だから無から考えから始めるわけにはいかず、必ず思想史上の過去に縛られ」るのです。そうであれば、「従来の共産主義の弊を避ける知恵を持たない」(【6】段落)現在の人類の価値観を、思考の出発点とする人工知能に、「新しい深遠な英知」(【6】段落)の創造を期待するのは無理なことでしょう。従って、【6】・【7】段落における、「人工知能への敬意」は「皮肉的表現」ということになります。)

が、そうなると問題は一段と次元を異にする困難を露呈するだろう。

 

【9】その縛りが21世紀前半の価値観であり、現時点までの思想の伝統であるとすれば、これは現代が未来を制約し、歴史を凍結することを意味する。

 
【10】もちろん生きた人間も歴史の制約を受ける存在であり、どんな個人も幼少期に植えつけられた価値観を信じ、若干の修整を加えながらも終生、それを引きずって生きてゆく。しかし反面、人間には死という冷厳な宿命があって、この断絶のおかげで人類全体は歴史の変化に順応することができる。特定の時代の価値観がいかに頑固であっても、それを信奉する世代が死ねば、のちの歴史は格別の争いを起こすことなく自然に変わっていける。

 

【11】もはや念を押すまでもないが、人工知能にはこの死という断絶がなく、一時代の価値観を根底に抱いたまま永遠に生きるということが問題なのである。

(→人工知能が不死だとすると、知的部分を人工知能にかなり依存している人類全体が、「歴史の変化」に対応できなくなるということになります。)

ちなみに人工知能の讃美者には不老不死を憧れる人が多く、むしろ逆に不老不死を実現するために人工知能を求める論者が目立つ。 

(→「人工知能開発の最終目的」の一つが「不老不死の実現」とは、興味深い指摘だと思います。「不老不死の実現」を真剣に考えている科学者が、実際に数多く存在していることが、驚きです。)

 

【12】前に本欄でも紹介したレイ・カーツワイルが典型的だが、彼の『不連続点は近い』(邦訳『ポスト・ヒューマン誕生』)もこの夢を論じて、そのために「非生物的人間」の創造を主張していた。方法は二つある。いずれにせよ、造られた非生物的人間は個人として永遠に生きるわけで、世代交代もなくなり歴史は凍結状態に入ることになる。

 (→【14】・【15】段落からすると、「非生物的人間」の「不老不死」ということ自体が、「価値の文明史の発展」を阻害するのです。「非生物的人間」は惰性的な因習の中で、ただ生存を継続させているだけなのです。退屈の極致の中で生きるだけです。つまり、「不老不死」を熱望することは、ある意味で、人間自体の「利益・幸福」には、必ずしも繋がらないということになるのです。)

 

【13】語るに落ちる笑い話だが、カーツワイルは迂闊(うかつ)にも自分の非生物的分身を造るにあたって、消化器官は要らないが皮膚は残したいと洩(も)らしている。 後者は性の快楽に必要だからというのだが、わかるのは彼が食欲より性欲に価値を感じているという事実だろう。ここでは未来の価値観が現代の制約を受けるどころか、危うく一人の男の私的な価値観によって決定されようとしているといえる。 

(→ここでも、痛烈な皮肉的表現が躍動しています❗ 揶揄(やゆ)的表現とも言えそうです。ただ、科学の進歩の方向は、一人の、あるいは、少人数の科学者の私的価値観により決定されるということは、確かに、あるでしょう。これは、考えてみれば、非常に怖いことです。特に、現代のように、「科学の社会に対する影響」が絶大なことを考慮すると、このことは重大な問題を含んでいると言えるのです。『「科学の進歩」と民主的コントロール』の論点は、現在では、人類の存続に関係するほどの重大性を有しているのです。人工知能の開発についても、民主的コントロールが必要なことは、勿論です。この『「科学の進歩」と民主的コントロール』の論点は、2017年度のセンター試験、東大現代文(国語)に、出題されています。上のリンク画像を、ぜひ、ご覧ください。山崎氏は、直接的には、この論点には言及していませんが、間接的に、皮肉的に、言及していると見てよいと思います。)

 

【14】振り返って人類の歴史を見れば、そもそも価値の文明史はその内部に個人の死と世代交代を含み、伝承の流れに随時の断絶があればこそ発展してきた。断絶なくただ続くのは惰性的な因習であって、

(→「不老不死の非生物的人間達」の作る「歴史」は、単なる「惰性」であり、もはや、真の文化伝統は発生しなくなると、言っているのです。逆に言えば、「不老不死の非生物的人間達」が、世界を支配した時から、これまでの人間の歴史の発展は、停止してしまうのでしょう。)

真の文化伝統は過去と現在の緊張した対決を内に孕(はら)む。

 

【15】文化伝統には古典と呼ばれる今はなき価値があり、時間を隔てた継承者がそれを懸命に習得することで蘇(よみがえ)る。この死と蘇生のリズムが文明史を造り、その根底には生物的人間の生のリズムがあった。(→ここは重要なポイントです。「生物的人間の生と死」、「世代交代」が文明の発展の根底にある、ということです。)

それを失った非生物的な文明はどんな姿を見せるのだろうか。

 

【16】たぶん死の恐怖のない個人は傲慢になり、知的能力を無限に拡張しながら、他の非生物的個人と競争を重ね、しばしば抗争を繰り返すだろう。その人数も無限に増えるはずだから、資源と環境の制約が解決されても、その居場所は宇宙まで溢れるだろう。

(→実に壮大なスケールな話です。この文の映像的効果は見事です。)

 

【17】だが忘れてはならないのは、数千億光年のこの宇宙にも法則があり、それは無数の星を生んでは滅ぼす生命的リズムだということである。

(→「非生物的人間」の完全な、つまり、「無限の不老不死」は、あり得ないということを言っているのでしょう。)


【18】言うまでもなく、人工知能の技術は有用、不可欠である。だが、それを研究し、それについて論ずる人はもっと足を地につけたほうがよい。早い話が完全自動運転の車の開発に各社が狂奔しているなかで、老人運転車がアクセルとブレーキを踏み誤るといった、現存の技術で対応できる事故を防ぐ車がまだ普及していないのである。

(→大どんでん返しです。見事なものです。さすがに、現代の一流の脚本家でもある山崎氏の皮肉は、このうえもなく強烈です。つまり、こういうことです。直前まで、「人工知能を利用した不老不死の非生物的人間が宇宙にまで進出する可能性」を示唆していたのに、つまり、「スケールの巨大な夢物語・ユートピアが実現する可能性」を示唆していたのに、ここでは、低レベルな話題に急転直下です。しかも、目も眩むような夢物語を語る人工知能の専門家が、案外簡単ではないかと思われる「ブレーキとアクセルの踏み違い問題」を、今もって解決できないとは、悲しくなるような話です。これほどの基本的レベルをクリアできないようでは、ユトピア社会の実現、夢物語の実現は無理ではないか、と言いたいのではないでしょうか。つい、「人工知能の専門家達はホラ吹き集団なのか」と思ってしまいます。実際のところ、私は、人工知能の専門家達を「ホラ吹き集団」とは思っていません。しかし、この山崎氏の秀逸な論考を読むと、人工知能の専門家達が語る夢物語への道のりは、それほど平坦でも、単純でも、ないのではないか、と思うのです。)

 

 

 

(3)山崎正和氏の紹介

  

【1】山崎正和氏の紹介

 山崎正和氏は、1934年、京都生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。劇作家、評論家、演劇研究者。評論は、文明批評、文芸批評、芸術論、演劇論と、実に多彩である。文化功労者。日本芸術院会員。大阪大学教授、東亜大学学長、中央教育審議会会長などを歴任。

 

【2】山崎正和氏の著書 

 主な著書として、

『世阿弥』(新潮文庫)(第9回岸田國士戯曲賞受賞)、

『劇的なる日本人』(新潮社)、

『混沌からの精神』(ちくま学芸文庫)、

『日本文化と個人主義』(中央公論社)、

『近代の擁護』(PHP研究所)、

『社交する人間』(中公文庫)、

『装飾とデザイン』(中公文庫)、

『日本人はどこへ向かっているのか』(潮出版社)、

『山崎正和全戯曲』(河出書房新社)、

『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)

などがあります。

 

 以上のうちで、

『劇的なる日本人』(新潮社)、

『混沌からの精神』(ちくま学芸文庫)、

『日本文化と個人主義』(中央公論社)、

『近代の擁護』(PHP研究所)、

『社交する人間』(中公文庫)、

『装飾とデザイン』(中公文庫)、

『日本人はどこへ向かっているのか』(潮出版社)

は、いずれも、難関国公立・私立大学の現代文(国語)・小論文の入試頻出出典です。

 

 

 (4)当ブログにおける「山崎正和氏の論考」関連記事の紹介

 

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(5)当ブログにおける「人工知能関連」の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

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日本人はどこへ向かっているのか

日本人はどこへ向かっているのか

 

 

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

  

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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予想問題「無常という事」小林秀雄・身体感覚・身体論・死生観・随筆

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 小林秀雄氏は、一時代前の思想家・文芸評論家ですが、小林氏の思想は、決して、古びていません。

 それは、小林氏の論考は、「人間存在の根源」に焦点を当てているからです。

 それ故に、今だに、難関大学の現代文(国語)・小論文に出題されています。

 しかも、小林氏の論考は、2016センター試験にも出題され、かなり話題になりました。

 

 小林秀雄氏は、近代日本の、文芸評論・近代批評の確立者です。

 個性的な、少々切れ味の良い挑発的な文体、詩的雰囲気のある表現が、特徴です。

 西洋絵画の批評や、ランボー、アラン等の翻訳にも、業績を残しました。

 

 入試現代文(国語)・小論文の世界では、20年くらい前までは、トップレベルの頻出著者(ほぼ全ての難関大学で、最低1回は出題されていました)でした。

 現在は、トップレベルではないですが、やはり、頻出著者です。

 最近の入試に全く出題されていない、ということは、ありません。

 最近でも、以下の大学で出題されています。

 大阪大学『考えるヒント』

 明治大学『文化について』

 国学院大学『無常という事』

 明治学院大「骨董」

 

  なお、今回の記事の項目は以下の通りです。記事は、約1万5千字です。

 

(2)「無常という事」を読む際に、最初に意識するべきことについて

(3)予想問題ー「無常という事」小林秀雄の解説

(4)(追記)補充説明ー『無常という事』と「2015東大国語第1問」との共通性について

(5)小林秀雄氏の紹介

(6)当ブログにおける、「身体論」関連記事の紹介

(7)当ブログにおける、「日本の伝統的価値観」関連記事の紹介

(8)当ブログにおける、「小林秀雄氏の論考」に関連する記事の紹介

 

 

 (2)「無常という事」を読む際に、最初に意識するべきことについて

 

① 小林秀雄氏は、ポストモダンの旗手であり、最近でも入試頻出著者です。


 この名文は、近代的思考に対しての本質的・根源的な批判的考察、いわゆるポストモダン(近代原理を批判する立場)的考察がなされているので、一読する価値があります。

 最近の難関大学には、近代的価値観を根本的に見直し、「人間の本質」・「人生の本質」に迫ろうとする論考、ポストモダン的論考が、かなり出題されています。

 だからこそ、ポストモダンの旗手的立場にいる小林秀雄氏の論考は、最近でも、頻出なのです。

 


② 「無常という事」は論理の飛躍があり、分かりにくいエッセイ(随筆)です。従って、この「無常という事」を考えるについては、筆者である小林秀雄氏の思想を追跡・考察していくことにします。

 

 本文は本文として、虚心に、素直に読むべきです。

 予備知識を背景として読むべきではありません。

 

 しかし、その著者が日々、どのような方向で、ものを考えているか? 

 あるいは、現代に対して、どのような問題意識を持っているのか? 

 ある単語・キーワードを、どのような意味で用いているのか? 

を知っておくことは、有用だと思います。

 

 従って、この「無常という事」を考えるについては、筆者である小林秀雄氏の思想を追跡・考察していくことにします。

 

 

③ 「小林秀雄氏の思索の基本姿勢」は、「自分の個人的・身体感覚的体験」を出発点にしています。このことを意識してください。

 

 この体験を共有できるかどうか、少なくとも、この体験を共有しようとする姿勢を持てるかどうか、が小林氏の作品を理解するポイントになります。

 しかも、「無常ということ」の場合は、この体験の質がきわめて宗教色・神秘性の強いものになっているのです。

 そのうえ、この作品は、エッセイ(随筆)です。エッセイは、それ自体が主観性が強いのです。

 従って、最低でも、「小林氏の体験を共有しようとする姿勢」が必要になるでしょう。

 

 「小林秀雄の思索の基本姿勢は、自分の個人的・身体感覚的体験を出発点にしていること」

については、以下の内田樹氏の論考が参考になります。

 

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「  鳥瞰的な、非人称的な視点ではなく、あくまで自分の『特殊な立場』に踏みとどまり、自分のまわりを見る。

『眼の前の物をはっきり見て、凡そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じ』る。(「實験的精神」『小林秀雄全集第七巻』新潮社、289頁)

 そこからしか学問も芸術も始まらない、と小林秀雄は言う。

 そして、そういう構えを『原始的』と呼んでいる。

何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめるというようなところがある』(282頁)パスカルを評して、小林は彼を『ものを考える原始人』だと言う。」

( 内田樹の研究室 「Just like a barbarian 」 2010年04月03日 ) 

 

 強い主観性を有し、論理の飛躍の著しい、この哲学的な作品は、エッセイ(随筆)の学習には、理想的な教材と言えます。

 この作品と格闘しておけば、他の哲学的論考、エッセイにも、対応する応用力が身に付くはずです。

 

 

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

 

(3)予想問題ー「無常という事」小林秀雄の解説

 

(小林氏の論考)

(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】「ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう)の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々(うんぬん)」

 

ーーーーーーーー


《現代語訳》

比叡神社で、偽って巫女のふりをした若い女房が、夜が更けて、人が寝静まった後に、ぽんぽんと鼓を打ち、心から澄んだ声で、「どうでもこうでもいいのです、ねえねえ」と謡を謡った。その意味を、あとで人に強いて問われて、このように答えた。

生死は無常という事を思いますと、この世の事は、どうでもこうでもいいのです。後世を助けてくださいと、神様に、お願い申し上げてあげていたのです」

 

ーーーーーーーー


(当ブログの解説)

( 問題 )なぜ、この論考は、唐突に死後(後世)の話から、始まるのか?

 いささか、特異な構成だと私は思います。

 このことを考えるについては、この論考が1942年、つまり第2次世界大戦中に発表されたということを考慮する必要があります。

 死が日常的な問題である時代に発表されているのです。

 

ーーーーーーーー 

 

(小林氏の論考)

【2】これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡ったそんな経験は、初めてなので、酷く心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがし続けた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気に懸かる。無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考え(→近代的な知性的・理性的な思考)を信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

( 問題 ) 以下の記述は、どのようなことを意味しているのか?

「無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考え(→近代的な知性的・理性的な思考)を信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。」

 

  小林氏は、自分の直感・現場体験を重視しようとしているのでしょう。

 自分の身体で、五感で感じた出来事を噛み締め、そこから論を進めたい、と考えているのです。すべてを頭だけで観念的に考えようとする近代的・現代的な思考形式、への反発心が感じられます。

 現在では、内田樹氏・養老孟司氏(→両氏とも、入試頻出著者です)などが、同様の思考態度を貫徹しています。

 この問題は、論点としては、いわゆる、「身体論」と言われています。

 「身体論」は、入試現代文(国語)・小論文の最頻出論点です。

 だからこそ、今回の記事でこの「無常という事」を解説しているのです。

 逆に言うと、「身体論」を充分に理解していないと、この「無常という事」も分からないのです。

 

 明治時代から、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造に、「西洋的な人間中心主義的発想」・「理性・知性重視主義」・「科学的合理主義」が流入し始めました。

 そして、「身体感覚をも意識した考察」・「自然との交流」・「死後の世界との交流」(→これらこそ、日本の伝統的価値観と言えます)は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

  「死」が日常から遠ざかるということは、「突発的な死」 (運命の残酷性→「一寸先は闇」)や、自然な時間の流れ(人間は生物なのだから、「老」・「病」・「死」は当然のこと)(→これらこそが「無常」です)という当たり前なこと、つまり、「人生の真理」が日常から消えるということです。

 だからこそ、現代の日本人の多くが、自分が平均寿命まで生きることを前提に、あるいは、平均寿命までも生きることを前提に、実に愚かなことに没入していくのでしょう。

 「死」を意識して、「自分の人生の有限性」、「一寸先は闇」を痛感すれば、「今」を楽しく生きることを心がけるはずです。

 本来、健康ブーム、禁欲ブーム、ダイエット、アンチ・エイジングなど、どうでもよいことなのです。

 「今」を楽しまず、自分では確定的に到来すると思い込んでいる老後のために、自分の健康面の観察・点検にばかり集中し、禁欲生活に邁進することの悲しいほどのバカバカしさ。

 

 このことは、戦後になって、著しく、病的と言えるほどに進行したのです。

 現在の日本では、西洋にも見られないほどの、歪んだ形の「西洋的・近代的発想」が主流です。

 それゆえに、日本の伝統的価値観に立脚して、近代原理を批判している「無常という事」は、一般的に、難解と評価されているのでしょう。 

 

( 問題 ) 「小林氏の感性の鋭敏さ」が分かるのは、どの部分の記述か? 

 小林秀雄氏において、自分自身の「身体性」を通して考えること、感じること、現実の場で具体的に感じ考えることの能力が、いかに優れているか、は以下の記述より明らかです。

  ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡った 

  

( 問題 ) 「心に染み渡った」とは、どのような意味なのか? 同類語、同類表現を列挙せよ。

 共鳴、共感、同調、などを挙げるとよいでしょう。

 「腑に落ちる」、「全身で納得すること」でも、よいと思います。

  

(問題)なぜ、「実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである」と記述されているのか?

 これは、読者への明確な宣言です。

 つまり、小林氏は、自分のこの論考を、計画的に論理的には書き進めないと宣言しているのです。

 あたかも、詩のように、感性重視で書いていこうとしているのでしょう。

 これは、現代の先進国社会、特に日本社会における異様とも言える知性支配、知性優位に向けての、小林氏特有の皮肉的表現であるように、私には思われます。

 

 (問題) 「無常という事」における、この段落の意味は? 

 この段落に記述された小林氏の体験が、「この論考の重要な出発点」になっています。 

 「比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついている

という状況における、宗教的体験、神秘的体験が、この論考の前提と言ってもよいでしょう。

 確かに、小林氏自身が言うように「取るに足らぬある幻覚」(→近代的な知性的・理性的な思考)で済ますこともできましょう。
 しかし、そのように即断できない気持ちが、小林氏には、あるようです。

 まさに、ここが、この論考を読み解くポイントになります。

 この体験に対して共有できる心を持っていること、少なくとも、共有しようとする気持ちを有することが、この作品を理解する前提になります。

 ここで小林氏の体験を軽視すると、これ以後の記述を把握することが困難になります。

 従って、この作品を読み解こうとするのであれば、「この体験に寄り添う気持ち」を持つようにしてください。

 つまり、西洋的・近代的な合理的・科学的発想から離れるようにすることがポイントです。

  

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

「【3】「一言芳談抄」は、恐らく兼好の愛読書の1つだったのであるが、この文を「徒然草」の内に置いても少しも遜色はない。今はもう同じ文を目の前にして、そんな詰まらぬ事しか考えられないのである。依然として一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかも知れない。こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学(→「美学」とは美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する哲学の一領域。伝統的に美学は、「美とは何か」という美の本質、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んできた)の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題)以下の文章は、何を主張しようとしているのか?

 僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう「美学の萌芽」とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 

 「美学の萌芽」「美学」の対比は、注目するべき点です。 

 「美学」になると、学問の一分野になり論理重視になっていくので、小林氏は警戒しているのでしょう。

  

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

【4】確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのであるどの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事は分からない。分からぬ許(ばか)りではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落(しゃれ)に過ぎないかも知れない。僕は、ただ或る充ち足りた時間(→「人生の充実」でしょうか?)があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していた(→特殊用法?)のではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題) この段落の意味は、何か? 何を主張しようとしているのか?

 「自分が生きている証拠だけが充満する時間」、つまり、「人生の充実感」は、「余計な事は何一つ考えず(心を虚しくして)」 「鎌倉時代を」 「巧みに思ひ出す」ことによって、「満ち足りた時間」の中にあらわれています。

 自分を近代的思考の束縛から解放させること、自分の身体感覚を解放して過去への共感能力を高めていくことが、人生の真の充足感・満足感につながるのでしょう。
 精神よりも、自分の身体感覚に素直に従うこと。

 そのことにより、自分の身体が解放され、ひいては、精神も充実感を味わえるのでは、ないでしょうか。

 このことを、小林氏は主張したいのだと思います。

 

 日本の伝統的文化の根底にある「豊かな感受性」が、小林秀雄氏にあったのでしょう。

 「豊かな感受性」は「豊かな共感能力」と言い換えても、よいでしょう。

 平安時代、鎌倉時代の日本人には、それがあったし、なま女房の話を『一言芳談抄』に収録した人、また、兼好にも、その感受性はあったのだと思います。

 

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)

「【5】歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想(→近代的発想を意味しています)からはっきり逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱(ぜいじゃく)なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鴎外が論証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な論証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の塊に推参した(→真の歴史を見出だす入口に立った、ということ。→鴎外が晩年になって、「新しい解釈などでびくともするものではない、つまり、解釈を拒絶して動じない」真の歴史を書き記そうとした、ということ)のである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長(のりなが)の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。又、或る考えが突然浮び、たまたま傍にいた川端康成さんにこんなふうに喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。

【6】「『生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、解った例(ため)しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処(そこ)に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな』」

 

ーーーーーーーー 

 

(当ブログの解説)

(問題) この【5】・【6】段落の意味? なぜ、「彼笑って答えなかった」のか?

 いろいろなことが、考えられます。川端康成氏の反応は、とても微妙な、曖昧な態度と言えるのです。

 考えられる理由としては、まず、

 「その場ですぐに答えられるようなレベルの問題ではないので、笑うしか、なかったから」、ということです。

 次に、「同意のサイン」と考えることも可能です。

 

ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【7】この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れて来ない。従って、のっ引きならぬ(→「どうにもならない」という意味)人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしている(→「知識、論理、知性」に拘束されている、という意味)ので、心を虚しく(「近代的な論理・知性に拘束されないで、純粋な感性で」という意味)して思い出す事が出来ないからではあるまいか。

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題) 「歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。」の中の 「動じない」とは、どのような意味か? 

 「人生上の悩みに心を動かさない、現世的利益に右往左往しない」という意味です。

  

(問題)なぜ、思い出は美しいのか。

 固定した、美しい過去(歴史)が、僕等に余計な思いをさせないから、です。
  

(問題)なぜ、「思い出が僕等を一種の動物であることから救う」のか。

 僕等は生きている人間であり、「一種の動物」です。そして、「一種の動物」は、「無常」であり、不安定な存在です。

 一方で、「思い出すこと」は、「生きている証拠だけが充満している時間」です。
 言い換えれば、「思い出すこと」は、「無常な一種の動物である僕等」に、「満ち足りた時間」、つまり、「充足的・安定的な時間」を与え、救ってくれるのです。

  

(問題)この論考における「思い出す」とは、どのような意味か?

 「多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしている」という文脈から考えると、「思い出す」とは、「直感」・「感情」・「理性」が総合的に働いた作用です。

 『学生との対話』(新潮社)の中で、小林氏は、「イマジネーションは、対象と私とがある親密な関係に入り込むこと」と述べていますが、「思い出す」についても、同様に考えてよいでしょう。

 【2】・【3】段落の文脈からも、このことは肯定できると思います。

 ここでは、「客観性のみで対象に向き合うことの否定」と、「主観性の尊重」が強調されています。

 「対象と交わること」とは、身体感覚を駆動させて、その対象と交流し、接触することなのです。

 

 ーーーーーーーー

 

(小林氏の論考)(概要です)

「【8】上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時(いつ)如何(いか)なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるもの(→伝統的価値観、死生観、死への意識)を見失ったからである。」  (『文学界』昭和17年6月号)

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログの解説)

(問題)「現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない」とは、どういう意味か?

 「なま女房」は、確固たる「死生観」(→「死」と「生」に関する価値観。「生死は無常なのでどうすることもできない」とする価値観)を保持していたが、現代の日本人は、「死」・「人生の無常」を直視していないということです。

 

(問題)「常なるもの」とは何か?

 「日本古来の伝統的死生観」です。

 前述したように、明治時代からの、「文明開化」による「西洋化・近代化」により、日本人の精神構造が、「西洋的な人間中心主義的発想」となりました。

 そして、「自然との交流」・「死後の世界との交流」は、出来なくなりました。

 その結果、「死」・「歴史」は、日々の生活から遠ざかったのです。

 それとともに、「日本古来の伝統的死生観」も、ほとんど消滅してしまったのです。

 このことは、戦後になって、著しく進行したのです。

 

 この人間として不自然な状態から脱却するためには、日頃から、頭だけで観念的に考えないようにする、全身で納得することを心がける、腑に落ちるということを大切にする、というようにして、「自分の身体感覚」をも重視して、考察することを意識するべきです。

 「自分の身体性」に意識が向けば、自分の「老」・「死」は、時間と宿命の流れに支配され、自分の意識を超越したものだという当然の事実が強く認識できるはずです。

 人は「老」・「死」の絶対性から逃れることはできないのです。

 このことを「無常」というのでしょう。

 現代の日本人は、「自己の身体性」から目を背けたために、この「無常の感覚」、つまり、「日本の伝統的価値観」まで忘れてしまったのでしょう。

 

 小林秀雄氏は、「死を直視することの重要性」を以下のように述べています。

「人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私たちには与えられていない。そのことが納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。 」(小林秀雄「生と死」『小林秀雄全作品  第26集』)

 

「この世に生まれ、暮らし、様々な異変に会い、死滅するという人の一生を、これを生きて知る他はない当人の身になって納得してみよ。歴史の真相に推参できるだろう。兼好はこれを『実(まこと)の大事』と呼んでいる。」(小林秀雄「生と死」)

 

 「小林秀雄についての批評」に関してはトップレベルの文芸評論家の秋山駿氏は、「小林秀雄ーその生と文学の魅力」 (『Web版 有鄰・第414号(平成14年5月10日)』有隣堂)の中で、とても参考になることを述べています。

「小林は乱暴な人だ、と言ったが、その乱暴とは、一度自分で決断したら、前途も知らず、前後も見ず、自分を信じて一直線に突き進む元気、といった意味のものだ。

 その一直線に突き進む元気が、小林の文学の中央を貫く。出発点から最後まで貫く。」

 そして、『考えるヒント』について、以下のように続けています。

小林は、戦後の時代が、あまりにも日本文化の基本から外れた方へ進んでいるのを見て、時代に抗して、警告として、彼が日本と現代について考えたところを種子として、われわれへとばら撒いたのであった。一粒の麦もし死なば・・・・、それがヒントの真意であった。

 このことは、「無常という事」についても、同じように言えるのでは、ないでしょうか。

 ただ、「無常という事」は戦争中の作品です。

 とすると、戦争中から、戦後思想的なものはあったのでしょう。

 

 

(4)(追記)補充説明ー『無常という事』と「2015東大国語第1問」との共通性について

 

 『無常という事』の以下の部分を読み、2015東大国語第1問(現代文)との共通性を感じましたので、ここで紹介します。

 

 まず、以下の記述の赤字部分に注目してください。

 上記の赤字部分とは異なります。

 

(小林氏の論考)

【2】これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、

 

先日、比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡った。そんな経験は、初めてなので、酷く心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがし続けた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気に懸かる。無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考え(→近代的な知性的・理性的な思考)を信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。

 

 次に、上記の赤字部分と共通性があると思われる2015東大国語第1問(現代文)『傍らにあること』(池上哲司)の問題文本文の中で、上記の赤字部分と共通性があると思われる部分を、以下に引用します。

  

(問題文本文)

(概要です)

(【5】・【6】は当ブログで付記した段落番号です)


「【5】自分とは、こういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。自分らしさは他人によって認められるのであるが、決定されるわけではない。自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。それでも自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化するからである。しかし、ゥその認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない。

【6】いわゆる他人に認められる自分らしさは、生成する自分という運動を貫く特徴ではありえない。かといって、自分で自分の自分らしさを捉えることもできない。結局、生成する自分の方向性などというものはないのだろうか。

【7】生成の方向性は生成のなかで自覚される以外にない。生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「・・・・でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。

【8】このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして、自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。

【9】だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によって限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、ェ残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きをもっているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。

【10】自分としてのソクラテスは死んでいるが、働きとしてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。

 

 二つの文章の共通性については、すぐに分かると思います。

 上記の引用部分は、2015東大国語第1問における重要部分です。

 設問においても繰り返し問われています。

 古典的な著名な論考を熟読して理解しておくことの重要性が、実感できるはずです。

 詳しくは、以下の記事を参照してください。

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 

 (5)小林秀雄氏の紹介

 

小林秀雄(1902~1983)
 評論家。 1928年東京大学仏文科卒業。 1929年に、『改造』の懸賞文芸評論に『様々なる意匠』が2位入選。 1933年に、林房雄・川端康成らと『文学界』を創刊。「私小説論」・「ドストエフスキイの生活 」などを発表。戦後は、「モオツァルト」・「ゴッホの手紙」・「 私の人生観」・「近代絵画」・「考へるヒント」・「人間の建設」・「本居宣長」 などを発表。
51年日本芸術院賞受賞。 59年芸術院会員。 63年文化功労者。 67年文化勲章受章。日本の近代文芸批評の確立者、と評価されています。

 

 歯切れのよい筆致と逆説的表現で、プロレタリア文学の極端な観念性、新興芸術派の空虚性、私小説の不安定性・虚弱性を鋭敏に指摘しました。その上で、日本近代文学の全面的見直しに着手しました。
 小林氏の文芸批評は、従来の印象批評を越えて、作品分析を通して、作者の「自己」に迫ろうとするものです。このことにより、日本での、本格的な近代文芸批評は小林秀雄氏によって確立されたと評価されています。
 思想的には、ランボーなどのフランス象徴派の詩人、ドストエフスキー・幸田露伴・志賀直哉などの著作、ベルクソンやアランの哲学に影響を受けていると言われています。
 その思想は、西洋近代文化の受容を通じて自己確立を迫られる日本のインテリの苦悩を認めつつも、それを鋭く批判したものです。そして、その困難な超克の過程として、「自己の直感」・「歴史」・「自然」を直視する態度を採用していきました。これは、本居宣長・吉田兼好の著作などの、近代以前の日本文学にも造詣を持っていたことも関係していると思われます。
 晩年においては、文芸評論家の枠を越え、思想家としての性格が強くなりました。

 

 

(6)当ブログにおける、「身体論」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(7)当ブログにおける、「日本の伝統的価値観」関連記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

  

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(8)当ブログにおける、「小林秀雄氏の論考」に関連する記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

  

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モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

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小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

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 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題「憲法9条の矛盾」平和主義・集団的自衛権・佐伯啓思

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 平和主義、憲法9条改正問題、集団的自衛権は、大学入試現代文(国語)・小論文の最近の流行論点です。

 しかし、これらの論点は、なかなか分かりにくい側面があります。

 

 また、このような「政治的問題」は、政治的思想調査、政治的踏み絵になりかねないので、大学入試現代文(国語)・小論文に出題されない、と考えている人がいるようです。

 しかし、そうしたことはありません。

 最近でも、 慶応大学法学部・小論文で、政治的問題と言える「日本の戦後補償問題」が出題されています。 

 

 最近発表された、入試頻出著者の佐伯啓思氏の「異論のススメー憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 (朝日新聞 2017・5・5)は、以上の論点を明解に解説しています。
 そこで、今回は、この論考についての解説記事を書きます。


 特に、憲法9条を中心とする「憲法改正問題」については、反対説、賛成説、さまざまな見解を読むべきです。 
 そのことが視野を広げ、理解を深めるポイントになります
 今回は、賛成説を丁寧に説明している、佐伯啓思氏の論考を解説します。

 

 佐伯啓思氏は、入試現代文(国語)・小論文における入試頻出著者です。そして、この論考は佐伯氏の最新の論考です。  

 佐伯氏の論考は、最近では、神戸大学、新潟大学、早稲田大学(政経)・(文)、立教大学、法政大学、中央大学、関西大学等で出題されています。

 

(2)集団的自衛権ー「憲法9条の矛盾・平和守るため戦わねば」 佐伯啓思(『朝日新聞』2017年5月5日朝刊「異論のススメ」)

 

(概要です)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付加した段落番号です)

(赤字、太字は、当該ブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

「【1】この5月3日で憲法施行から70年が経過した。安倍首相は3年後の憲法改正をめざすとし、9条に自衛隊の合憲化を付加したいと述べた。私にはそれで充分だとは思えない。

【2】実際には、今日ほどこの憲法の存在が問われているときはないだろう。最大の理由はいうまでもなく、朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきたからである。北朝鮮と米国の間に戦闘が勃発すれば、日本も戦闘状態に入る。また、韓国にいる日本人の安全も確保しなければならない。はたしてこうしたことを憲法の枠組のなかで対応できるのか、という厳しい現実を突きつけられているからである。

【3】2年ほど前に、安倍首相は集団的自衛権の行使容認をめざして、日本の安全保障にかかわる法整備をおこなった。野党や多くの「識者」や憲法学者は、これを違憲として、憲法擁護を訴えたが、はたして、彼らは今日の事態についてどのようにいうのであろうか。野党も、朝鮮半島情勢にはまったく無関心のふりをしている。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 集団的自衛権については これを認めることが「世界の常識」のようです。

 グローバルスタンダード(国際基準)を崇拝するマスメディアや学界、評論家などのうちの多数が、この論点では、なぜグローバルスタンダードを考慮しないのかが不可解です。

 自分達の立場にとって不都合があるからでしょうか? 

 何か意図があるのでしょうか?

 あるいは、不勉強、無知なのでしょうか?

 

 「世界の常識が集団的自衛権を認めること」については、以下の見解が参考になります。

 

「国際法は憲法に勝るが世界の常識 集団的自衛権は憲法違反、の大間違い 」

(『週刊ダイヤモンド』2015年7月11日号) 

 百地章氏(日大教授)が6月26日の「言論テレビ」で集団的自衛権、平和安全法制について重要な点を指摘しました。

 野党が、多くの憲法学者の多数説を根拠として一連の法案を廃案にせよと主張しています。しかし、そもそも、批判的立場の人々は、 国際法と憲法の関係を理解していないというのです。

 百地氏は、この点を理解しなければ、「集団的自衛権の行使容認」の違憲性・合憲性を正しく判断することはできない、と以下のように言います。

集団的自衛権が国内で問題になることはありません。国際間の権利で、国際法上の権利です。国際社会においては、各国の憲法よりも国際法が優位するというのが法学者の常識であり大前提です。 

 そこで国連憲章51条を見れば、全ての国連加盟国に『固有の権利』として集団的自衛権を認めています。
 すなわち、国連加盟諸国は全て国際法上、集団的自衛権を有し、行使することができるのです。日本国憲法に、わが国には集団的自衛権があるとか行使できるとか書いていなくても、権利はあり、行使できるのです。
 憲法に書いていないのは日本だけではありません。その他諸国の憲法にも書かれていません。領土主権についても同じです」

 

 また、長尾一紘氏(中大名誉教授)は、「『集団的自衛権は合憲』・なぜか疎外されている『集団的自衛権は合憲』の憲法学者座談会ーー長尾一紘×百地章×浅野善治」 (『週刊新潮 』2017年5月18日菖蒲月特大号 2017・5・10発売)の中で、次のような見解を述べています。

「日本の憲法学者は9条に関する限り、まるでガラパゴス諸島の生物です。昭和20年代で思考停止してしまったようです。

 主権国家が当然保有する、集団的自衛権について賛成と反対の意見が対立していること自体が間違いで、世界中でも、こんな議論をしているのは日本だけ。国際的な基準に合わせるべきでしょう。

 集団的自衛権に反対する声があること自体が異常ですが、それを異常と認識しない人々もまた異常と言わざるを得ません。」

 

 さらに、髙橋 洋一氏( 経済学者・嘉悦大学教授 )は、「集団的自衛権」について、

 「反対しているのは中韓だけ! 集団的自衛権  『世界の常識』が理解できない左派マスコミにはウンザリだ」(髙橋 洋一・現代ビジネス ・ 講談社) - isMedia)の中で、以下のように述べています。

「《日本は不思議な国》

 世界の多くの国がどこかと何らかの同盟関係をなぜ結ぶかといえば、そのほうが戦争のリスクを減らせるからである。集団的自衛権の行使は同盟関係の基本中の基本なので、何らかの同盟関係を結んでいる国では、本来、議論にさえならない。

 この点、日米同盟がありながら、集団的自衛権の行使の是非を議論する日本は不思議な国だ。多くの国では、日本が集団的自衛権の行使をするといったら、同盟関係がありながら集団的自衛権の行使を認めなかったこれまでの『非常識』を、世界の常識に変えるくらいにしか思わない。」

 

 これらの見解は、集団的自衛権を考える際には、大いに参考になるはずです。

 

ーーーーーーーー

 

〈「異論のススメ」の続き〉

「【4】私がここで述べたいのは、現行の法的枠組のなかでいかなる対応が可能なのか、という技術的な問題ではない。そうではなく、国の防衛と憲法の関係というかなりやっかいな問題なのである。」

 

ーーーーーーーー

 

  (当ブログによる解説)

 「国の防衛と憲法の関係については、佐伯氏は、『反・民主主義論』(新潮新書)の「まえがき」で、さらに分かりやすく記述しているので、以下に概要を引用します。

「   2015年から16年にかけて、「民主主義」の意味を問いかける事象が世界的に起きた。アメリカではトランプ現象が生じた。日本でも、2015年が戦後70年ということであったが、戦後憲法戦後民主主義戦後平和主義も定着とは言えず、むしろその欺瞞が露呈してきた。

 「国家」「民主主義」「平和」「国防」といった政治学の、そして「国」のもっとも根幹に関わる概念について、われわれはまともに思索を張り巡らせたことがあったのか。

 そこで本書で「民主主義」や「憲法」を論じ、唯一の正解はないが、私なりの見解をさし示してみたい。さもなければ、いつまでたってもわれわれは護憲・改憲の党派的対立から抜け出せず、また、民主主義の名のもとに、われわれの政治はとどまるところをしらず混迷に陥っていくだろうからである。」

 

 上記の論考においては、「護憲・改憲の党派的対立」がポイントになっています。

 国の防衛を考える際に、政治的・党派的立場から考えを進める発想は、大学入試においては、必要ありません。

 あくまで、事実と論理を重視してください。

 入試において問われているのは、知識・常識と論理力だけです。

 

ーーーーーーーー 

 

〈「異論のススメ」の続き〉

「【5】戦争というような非常事態が生じても、あくまで現行憲法の平和主義を貫くべきだ、という意見がある。とくに護憲派の人たちはそのようにいう。しかし、今日のような「緊急事態前夜」になってみれば、そもそもの戦後憲法の基本的な立場に無理があったというほかないであろう。憲法の前文にはつぎのようなことが書かれている。「日本国民は・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。これを受けて9条の非武装平和主義がある。

【6】ところが、今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。考えてみれば、日本は、北朝鮮とはいまだに平和条約を締結しておらず、ロシアとも同じである。中国との国交回復にさいしては、尖閣問題は棚上げされ、領土問題は確定していない。つまり、これらの諸国とは、厳密には、そして形式上は、いまだに完全には戦争が終結していないことになる。サンフランシスコ講和条約は、あくまで米英蘭など、西洋諸国とのあいだのものなのである。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。

と、佐伯氏は主張しています。

 この問題を考えるについては、「現在の日本をめぐる国際情勢」をどのように評価するか、という点が重要でしょう。

 

 特に問題ではない、と評価すれば、今も、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」よいことになります。

 

 一方、現在の国外の状況を憂慮するべきだ、と考えれば、緊急事態前夜と考えることになるのです。

 このように考えると、「現在の日本をめぐる国際情勢」に関する記述は、以下のようになるでしょう。

「  日本をめぐる国際情勢がどれだけ悪化しているかを列挙してみたい。

北方領土問題をめぐるロシア。

尖閣諸島問題におけるでの不当な態度を示す中国の態度。

核開発をやめない北朝鮮。

歴史問題に関する韓国の態度。

 明らかに、日本における安全保障環境が激変しているのではないでしょうか。」

 

 佐伯氏は、現状を直視しない性善説、つまり他人・他国を簡単に信頼する立場には立っていません。

 この立場は、グローバルスタンダードからは通説でしょう。

 

 ただし、この論点が、大学入試現代文(国語)に出題された場合には、出題者の立場に沿って考察するべきです。

 また、入試小論文に出題された場合には出題者の立場に沿って論述、つまり、特に指定のない限り、課題文に賛成する方向で論述する方が賢明です。( 受験生が、短時間で、一流の学者・評論家の論考を論破できるような論文を書くことは無理でしょう。大学側がそれを要求することは、ないと思います。)

 その方が、合格率がアップします。

 選抜試験なので、自分の政治的立場を貫く必要はないのです。

 試験は、自分の政治的立場を主張する場では、ありません。

 大人になることです。

 冷静になることです。

 

 ーーーーーーーー

 

 〈「異論のススメ」の続き〉

「【7】しかも、この憲法発布後しばらくして、冷戦がはじまり、朝鮮戦争が生じる。戦後憲法の平和主義によって日本を永遠に武装解除した米国は、つねに軍事大国として世界の戦争にかかわってきた。しかも、その米国が日本の安全保障までつかさどっているのである。

【8】こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。そして、もしかりに米国と北朝鮮が戦争状態にでも突入すれば、われわれはいったいなにをすべきなのか、それさえも国会でほとんど論議されていないありさまである。米国がすべて問題を処理してくれるとでも思っているのであろうか。

 

ーーーーーーーー

 

  (当ブログによる解説)

    こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。」

について、佐伯氏は、『反・民主主義論』の中で、さらに詳しく述べています。

「  すべてが日本国憲法という印章(→「水戸黄門の印籠、葵の御紋」をイメージすると、よいでしょう)の前で思考停止になってしまう。戦前では、「国体」や「天皇」を持ち出せば、直立不動、フリーズした。戦後はそれが「憲法」に変わっただけです。「憲法」という言葉の前で直立不動になってしまう人がいる。「憲法に反する」と言えば、脳内細胞がフリーズしてしまう。」( 「第一章 日本を滅ぼす『異形の民主主義』) 


 日本国憲法は、その条文を厳密に解釈すれば、日本は自衛権も持てないと言うことになります。

 日本の防衛を事実上、カバーしたのは米軍でした。

 日本の戦後の長期的な平和は、憲法9条によってのみ実現したのではなく、それ以上に強大な米軍による抑止力によって実現したのです。

 これは日本国憲法についての矛盾です。

 非武装平和主義を宣言しながら、その背後に強大な米軍が存在していたのです。

 

ーーーーーーーー 

 

〈「異論のススメ」の続き〉
「【9】憲法9条は、まず前半で「侵略戦争の放棄」という意味での平和主義をかかげる。それはよいとしても、後段にある「戦力の放棄と交戦権の否定」は、そのまま読めば、いっさいの自衛権の放棄をめざすというほかない。少なくとも自衛権の行使さえできるだけ制限しようとする。なにせ戦力をもたないのだから、自衛のしようがないからだ。これがなりたつのは、文字どおり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できる場合に限られるだろう。そして、そのようなことは、戦後世界のなかでは一度も生じなかった。

【10】 国連憲章を引き合いに出すまでもなく、自衛権は主権国家の固有の権利である。憲法は、国民の生命、財産などの基本的権利の保障をうたっているが、他国からの脅威に対して、それらの安全を確保するにも自衛権が実効性をもたなければならない。つまり、国防は憲法の前提になる、ということであり、憲法によって制限されるべきものではない。

【11】そのこと(→「国防は憲法の前提になる」ということ)と,憲法の基調にある「平和への希求」はけっして矛盾するものではない。平和主義とは無条件の戦争放棄ではなく、あくまでみずからの野心に突き動かされた侵略戦争の否定であり、これは国際法上も違法である。もしも、われわれが他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、これに対して断固として自衛の戦いをすることは、平和国家であることと矛盾するものではなかろう。いや、平和を守るためにも、戦わなければならないであろう。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

    「国家の自衛権」とは、急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利です。

 自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利であると考えられてきました。

 

 佐伯氏は、国家の自衛権について、「誰が国を守るのか」( 『産経新聞』 2014・7・21 )の中で、より分かりやすく説明しています。

 以下に引用します。 

「戦後日本は、民主主義と平和主義を高く掲げ、この2つの主義を両輪にしてきた。その結果、多くの者にとっては、民主主義イコール平和主義とみなされた。民主主義者は平和主義者でなければならなかった。

 にもかかわらず、戦後日本の民主主義と平和主義の組み合わせが、どうも、うさん臭いのは、この平和主義がもっぱら憲法9条の武力放棄を意味しているからにほかならない。平和愛好、構築なら誰も批判もしないだろうが、問題はその方法なのである。憲法9条といういささか特異な形態における平和主義という「方法」が問題なのである。

 もっとも、いわゆる護憲派の平和主義者からすれば、憲法9条に示された平和主義こそが理想的理念だということになる。とすれば、その途端にまた、うさん臭さが露呈してくる。それは、日米安保体制の存在である。平和主義を掲げながら米軍を駐留させ、他国との交戦になれば、米軍を頼みにするというこの欺瞞(ぎまん)である。交戦とまではいかなくとも、少なくとも、戦争の抑止を米軍に依存していることは間違いない。

 憲法を前提とすれば、こういう形にならざるをえない。しかしそれを平和主義といって、何やら就職活動の履歴書のように、いかにも温厚、誠実、穏健を演出しても、その背後にあるものを想起すれば、欺瞞的というほかない。

 実は、民主主義はイコール平和主義ではないのである。たとえば、戦後日本で民主主義の手本とみなされたジャンジャック・ルソーは、決してそんなことはいっていない。それどころか、統治者が国のために死ねといえば、市民は進んで死ななければならない、と明瞭に書いている。言い方は少々どぎついが、端的にいえばそういうことになるのであって、それが西欧政治思想の根本なのである。

 どうしてかというと、近代国家は主権によって動かされる。そして、主権者の役割は何よりまず国民の生命財産を守ることとされる。とすれば、もし主権者が君主なら、君主は彼の国民の生命財産を守らなければならない。そして、主権者が国民ならば国民が自らの手によって彼ら自身の生命財産を守らなければならない。これが道理というものであろう。とすれば、民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる。

 こうしたいささか面倒なことを書いてきたのは、集団的自衛権にかかわる論議において、この種の原則論がまったく確認されていないことに危惧をおぼえるからである。技術的・法的な手続き論も必要だが、本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。

 

 上記の論考の最終部分の「本当に重要なのは「誰が国を守るのか」という原則論にこそあるのではなかろうか。」の一文は、重要な視座と言えます。

 また、この直前の「民主主義では国民皆兵が原則なのである。もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。しかし「理念」としてはそうなる」の部分は、現代の西洋の政治理念そのものです。

 現在のスイス、スウェーデンの国防政策を見ても、このことは、明白な事実です、

 この点については、以下に記述していきます。

 

 まず、国民皆兵とは、以下のような内容の制度です。

  Wikipediaから、概要を引用します。

「いわゆる国民皆兵による徴兵制はフランス革命から始まる。フランス革命以降、国家は国民のものであるという建前になったため、戦争に関しても、主権者たる国民全員が行なう義務があるということになった。そして、革命に伴う周辺諸国との戦争で兵員を確保する必要に迫られたため、ナポレオンなどによって国民軍が作られた。時代が下ると、祖国に対する忠誠義務と受け取られるようになった。

 近代に徴兵制が生み出されたのは、戦争の近代化に伴って兵器の威力が増して、志願制では人員の補充ができなくなるほど戦死者が多くなったことと、国民主権の原理によって国民を戦場に駆り出す大義名分ができたのが主な理由である。

《現代》

 兵器の近代化は、軍隊の省力化と定員減少をもたらし、同時に兵器運用技術の高度化・専門化を招いた。定員減少により、大量の新兵は不必要となり、訓練にも費用が掛かり過ぎるなどの理由によって徴兵制度の存在意義は低下した。現代においては、再び職業軍人の時代が到来したと言える。西洋諸国では、冷戦終了後から2000年代初頭にかけて次々と徴兵制を廃止し、イギリス・フランス・イタリア・スペインなどは志願制に移行している。」

 

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 〈「異論のススメ」の続き〉

「【12】「平和とはなにか」という問題はひとまずおき、仮に護憲派の人たちのいうように「平和こそは崇高な理念」だとするなら、この崇高な価値を守るためには、その侵害者に対して身命を賭して戦うことは、それこそ「普遍的な政治道徳の法則」ではないだろうか。それどころか、世界中で生じる平和への脅威に対してわれわれは積極的に働きかけるべきではなかろうか。私は護憲派でもなければ、憲法前文をよしとするものではないが、そう解さなければ、「全世界の国民」の平和を実現するために,「いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という憲法前文さえも死文になってしまうであろう。」

 

ーーーーーーーー

 

 (当ブログによる解説)

 「平和こそは崇高な理念」 とする平和主義を考える際に、参考になるのはスイス、スウェーデンにおける国防政策です。


 スイスは「永世中立国」であると同時に、徴兵制を採用している国民皆兵国家でもあります。

 スイスは、強力な国防政策を採用する武装中立国家です。

 「永世中立国」とは、将来もし他国間で戦争が起こっても、その戦争の圏外に立つことを意味するものです。つまり、自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している、永世中立の立場を取る国家です。この場合の中立は国際法上の義務です。
 

 また、スウェーデンは非同盟中立の立場をとりつつ、自衛のために強力な軍隊を保持している武装中立国家です。

 兵器の国産にも熱心で、独自の潜水艦・戦闘機などを開発・配備しています。

 

 スイス、スウェーデンは、「カルタゴの歴史」を教訓にしているのでしょう。 


 日本人は国防問題を検討する際には、日本と同じような貿易国家・平和主義国家であった、かつての「カルタゴ」が滅亡した歴史を考慮する必要があるのではないでしょうか。

 カルタゴは紀元前250年頃の地中海の貿易大国でした。が、その経済に脅威を感じたローマ帝国の攻撃により滅亡しました。

 カルタゴ滅亡の理由としては、主として、一般的に、カルタゴ市民が軍事的防衛に無関心だったことが、挙げられます。もともと、自国の防衛は傭兵頼りの上に、平和主義的な意見が強かったのです。

 

 なお、当ブログでは、先月、最近の国際情勢を意識して、カントの『永遠平和のために』についての解説記事を発表しました。

 ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(3)佐伯啓思氏の紹介

 

 1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。

著書は、
『隠された思考』(筑摩学芸文庫)(サントリー学芸賞)

『時間の身振り学』(筑摩書房)→神戸大学、早稲田大学(政経)で出題

『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)(東畑記念賞)

『現代日本のリベラリズム』(講談社)(読売論壇賞)

『現代社会論』(講談社学術文庫)

『自由とは何か』(講談社現代新書)→立教大学、法政大学で出題

『反・幸福論』(新潮新書)→小樽商科大学で出題

『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)→関西大学で出題

『日本の宿命』(新潮新書)

『正義の偽装』(新潮新書)

『西田幾多郎・無私の思想と日本人』(新潮新書)

など多数。

 

(4)当ブログの、佐伯啓思氏の論考に関連する記事の紹介

 

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待下さい。

 

  

 

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反・民主主義論 (新潮新書)

反・民主主義論 (新潮新書)

 

 

 

従属国家論 (PHP新書)

従属国家論 (PHP新書)

 

 

 

朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想問題・養老孟司・個性・自分さがし『ぼちぼち結論』『バカの壁』

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 養老氏は、入試現代文(国語)・小論文における著者別出題数で、ほぼ毎年、ベスト10に入っている頻出著者です。

 高校現代文(国語)や小論文の教科書にも、養老孟司氏の論考は、かなり採用されています。

 そこで、今回は、現代文(国語)・小論文対策として、養老氏の論考の中でも特に頻出で、入試現代文(国語)・小論文でも頻出論点の、「個性」の予想問題について解説します。

 

 以下の記事では、次の各項目を説明します。

 

(2)養老孟司氏の論考の特徴

(3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

(4)個性個性崇拝に関する養老孟司氏の見解

     ①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

     ②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

           ③  「個性」とは「人を見る目」(『逆立ち日本論』)

           ④  「個性」は外部的評価によるものである(『逆立ち日本論』)

           ⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判(『超バカの壁』)

           ⑥  「個性」より大切なもの(『バカの壁』)

(5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

(6)養老孟司氏の紹介

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介

  

 (2)養老孟司氏の論考の特徴

 養老孟司氏の論考においては、「問題提起」と「その解答」が最初に提示されることが多いのです。
 しかし、「その問題提起」と「その解答」の「関連性」が、一見わかりにくい時があります。少々、飛躍している感じがあります。
 その場合に、混乱したり、停止したりしないで、すぐに、さらに読み進めることが大事です。
 直後から、実に、わかりやすい説明が始まることが多いのが、養老孟司氏の論考の特徴です。

 

 (3)予想問題・『ぼちぼち結論』養老孟司・2009東京女子大出題

 

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】若い頃にはよく注意されたものである。「ちゃんと現実を見なさい、現実を」と。その現実なるものがよくわからなかったから、現実とはどういうものか、いつも頭の隅で考えていた。大人になれば、あれこれ現実というものに触れるはずだ。そうなれば、少しは「現実がわかる」ようになるだろう、と。 

【2】ところがいつまでたっても、その「現実」なるものがわからない。とうとう自分で勝手に定義することになった。現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である。それ以外にない。そう思ったら、長年の重荷が下りてしまった。 

【3】だから現実は人によって違う。A 唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、だれもそれを知らないからである。私が演壇の上で講演をしているとする。聴衆の目に映る私の姿は、すべて異なっている。なぜなら私を見る角度は、全員が異なっているからである。それならテレビカメラは、どの角度から私を捉えたら、「客観的」映像となるのか。二人の人が同一の視点から、同じものを見るなんてことは、それこそ「客観的に不可能」なのである。 

【4】こんなことを言うと、すぐに屁理屈だといわれる。人それぞれ、見うる角度が違うからどうだというのだ。そんなことは些細な違いに過ぎないじゃないか。そういう些細なことに囚われるのが学者というもので、だから世間の役に立たないのだ。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 傍線部Aにおいて「唯一客観的現実」が「抽象」だという理由を30字以内で説明せよ。

……………………………

(解説・解答)

問1(傍線部・理由説明問題)

 「唯一客観的現実」が「客観的にみて存在不可能」、その根拠として「各人の見る角度は違う」の2点を指摘するようにしてください。

(解答)

各人の見る角度は違うので唯一客観的事実は存在不可能だから。(29字)

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)
【5】それは果たして些細なことなのだろうか。それを些細なこととみなすことで、近代社会は「進歩発展」してきた。だから特定のカメラマンが特定の角度から、特定の時点で撮影した映像を、客観的映像などと強弁するのである。

【6】一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。 

【7】〔  ①  〕、個人なんかいらない。それを「些細な違い」と暗黙に決め付けるから、若者が人生の意味を見つけられないのである。これといってさしたる才能もない自分が生きる意味なんて、どこにあるというのか。世界中を見渡せば、自分の人生なんて六十億分の一に過ぎない。過去に生きた人まで含めたら、いったいどこまで些細になるだろうか。 

【8】B そう思うから、今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。近頃は入学や入社のときに、そんなことを書かせることもあるらしいが、話がそれではひっくり返っている。そんな会社や学校はどうせロクなところではなかろう。相手の個性を発見する目が貴重なのであって、個性自体が貴重なのではない。状況によって、社会が必要とする個性は違ってくるからである。 

【9】〔 ② 〕「自分で意識している個性」なんてものがあったら、ぎこちない人生になるであろう。俺の個性はこうだから、こうしなくっちゃ。そんなことを思いかねない。冗談じゃない、素直にしていて、そこにおのずから人と違うところがある、それを個性というのである。 

【10】素直に自分の気持ちに従わず、「こうしなくては」と思うのが世間では普通で、それは社会的役割というものがあるからである。天皇陛下はこうしなくてはならないということがたくさんあるはずで、それは社会的役割である。それを勝手に変えられたら周囲が困る。〔    ③    〕「こうしなくては」と本人も思うので、それはホンネとは違って当然である。 

【11】いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」

(養老孟司『ぼちぼち結論』)

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問2  傍線部Bにおいて「逆に」とあるが、「何」と「何」が「逆」というのか。それぞれ10字以内で空欄を補う形で答えよ。

〔     〕と〔     〕

 

問3  傍線部Cと同趣旨の文をこの後の文中から40字以内で抜き出して、初めの5文字と終わりの5文字を記せ。

 

問4  空欄①・②・③に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア そもそも  イ それなら  ウ それでなきゃあ

エ だから  オ だが

 

問5  空欄④・⑤に入る最適な言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

ア 現実  イ 理想  ウ 絶対  エ 具象  オ 抽象

 

問6  傍線部Dに指摘されるような「社会的役割と個性」の混同にあたる例を次の中から一つ選べ。

ア  共演した俳優同士が恋愛関係になる。

イ  運動部の監督は選手の私生活にまで目を配るべきだ。

ウ  猛烈上司が部下にも猛烈に働くことを求める。

エ  学校では規律にやかましい先生が家ではだらしない。

オ  お笑い芸人はふだんから陽気でなければならない。

 

問7  本文の趣旨に合致するものを次の中から二つ選べ。

ア  学者は些細なことにこだわるあまり、現実というものが理解できない。

イ  個性などというものは些細な違いにすぎないのだから、そんなものにとらわれてはならない。

ウ  現代社会では個性的であることが不可欠であり、だからこそ些細な違いもおろそかにしてはならない。

エ  ひとりひとりの個人にはそれぞれの個性があり、その個性の違いに応じてそれぞれの現実がある。

オ  社会的役割こそが現実ということなのであり、それを無視して個性にこだわっても仕方がない。

カ  現代人が個性と思っているものの多くは思い違いにすぎない。

 

 ……………………………

(解説・解答)

問2(空欄補充問題・記述問題)

 「そう思う」ことと、「個性、個性という」ことが「逆」という文脈を把握することが、ポイントになります。 

(解答)

些細な違いしかない(9字)  

個性、個性という(8字)

 

問3(傍線部と同趣旨の文を抜き出す問題)

《 今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。 C  そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあるものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝な顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。》という文脈を理解してください。

 傍線部Cは、「個性の内容は他者評価により決定される」という内容になっています。

(解答)  相手の個性・のではない

 

問4(空欄補充問題)

 要約しようとしないで、本文を熟読・精読してください

 養老氏の表現の癖を意識して、文脈を押さえることもポイントになります。

(解答)  =ウ  =ア  =エ

 

問5(空欄補充問題)

「いまの大人は、D 社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。それを「〔 ⑤ 〕」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。 」の中の、

「私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては〔 ④ 〕に過ぎない。」

のクールな、冷淡な表現に注目してください。

 その上で、【3】段落における「現実」・「抽象」が全体のキーワードになっていることを、把握することが必要になります。

(解答)  =オ  =ア

  

問6(傍線部の具体例を選択する問題)

  「いまの大人」が、特に「サラリーマン社会に生きる大人(つまり、現代日本社会のほとんどの大人)」が、「社会的役割と個性を混同」している具体例を選択するとよいでしょう。 

(解答)  

 

問7(趣旨合致問題)

ア  本文に、このような記述はありません。

イ  本文に、このような記述はありません。

ウ  「不可欠」の部分が、言い過ぎになっています

エ  本文の趣旨に合致しています。

オ  この選択肢は問5に関連しています。筆者は「社会的役割」を「抽象」と評価しています。従って、この選択肢は誤りです。

カ  最後の2つの段落の内容に合致しています。

(解答)  エ・カ

 

 (4)「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解

 

 以下では、「個性」・「個性崇拝」に関する養老孟司氏の見解を紹介・解説します。

 どれも入試頻出事項なので、よく読むようにしてください。

 

①  「個性信仰」は西洋文化に由来する(『無思想の発見』)

②  「自分さがし」批判→「自分」とは「創る」ものであって、「探す」ものではない(『無思想の発見』)

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる強調です)

(→以下、同じです)

「日本語では、自分を表現する言葉が多く、さらに通常の一人称が場合によっては二人称に用いられることがある。日本語では一人称と二人称がしばしば行き来する。こんな言語はほかにあるか。

 日本人は実体、あるいは本心への深い確信がある。それだから言葉などはどうでもいいのである。

 俺もお前も一緒くたの世界に、ある日突然、実存的主体としての自己が侵入してきた。これを近代的自我という。日本語では、「私」は自分個人と、「公私の別」の私の両方の意味を含むので混乱がおきる。日本では過去においては、公私の私は self ではなく「家」であった。その証拠に、欧米と違って日本では相当小さな家にでもちゃんと塀があるではないか。家のそとに出れば公の世界であるが、家の中は private の世界なのである。新しい憲法は「家」を否定した。だから核家族ができた。核家族は自然にできたのではなく、憲法が作った。一方、西洋では個人が集まって家族を作る。日本と西洋では同じ家族でもベクトルが正反対なのである。憲法の一番の問題は第九条ではない。家にかんする部分である。

 自分は身体を実存だと思う。それは30年解剖をやったためであろう。数学者は数学の世界を現実と思い、ある人はお金を、ある人は社会的地位を現実だと思う。それは脳の癖である。それぞれの脳がどういう現実に長く浸かってきたかである。

 さて、そうであるならば、どのような人も自分という意識のもとで生まれてからずっと生きてきているわけである。意識というものが現実であり、実在であると思うのは当然である。

 西洋社会はキリスト教社会であり、そこでは霊魂不滅なのであるから、「変わらない私」・「自己同一性」が当然の前提とされる。西欧の「近代的自我」とは「不滅の霊魂」

の近代的な言い換えである。

 意識とは「同じ」ということである。自分が連続しているという感覚である。意識とは機能であって、実体ではない。であるとすれば、自我もまた機能であって、実体ではない。日本が封建的とかいろいろいって今までの世界を壊してきたために、何が失われたか?「自分という実体」に対する確信が失われたのである。

 だから「自分探し」が始まる。それは「感覚世界」の不在つまり経験の不足とペアである。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。大切なことは具体的な世界を身をもって知ることである。

 自分を創る作業の典型は「修行」である。叡山を走り回ったら、自分ができるのか。そんなことは知らない。しかし、伝統的にそうするのだから、できるのであろう。少なくとも、ふつうのお坊さんではなくなるはずである。それだけのことだが、人生とは「それだけのこと」に満ちている。私は三十年、解剖をやった。それだけのことである。そのあと十年、本を書いた。それだけのことである。」 (『無思想の発見』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 養老氏の見解は、歴史的・宗教的背景を踏まえており、とても説得力があります。

 このように緻密に歴史的・宗教的背景への配慮がなされているので、養老孟司氏の論考は入試頻出なのです。

 論の構成は一般常識(マスコミレベル)には沿ってはいません。

 が、入試の世界、つまり、論壇(インテリレベル)においては、日本人論・日本社会論として極めて正統的です。

 マスコミレベルにおいては、一般大衆に迎合して、あるいは、一般大衆を幼児化しようとして、または、マスコミ自身の無知ゆえなのか、欧米にもない歪んだ形の「個性崇拝」・「個性礼賛」が氾濫しています。

 そこで、養老氏は、そもそも「個性とは何か」と、「個性の本質」を考察しているのです。

 

  

③  「個性」とは「人を見る目」

④  「個性」は外部的評価によるものである

 

  『逆立ち日本論』(養老孟司・内田樹・新潮選書 )も、参考になる一冊です。

 この中で、現代日本社会における、「個性」の「奇妙な」取り扱いについて、養老孟司氏と内田樹氏が、注目するべき対談をしています。


《「個性」とは「人を見る目」》

「養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。

 

内田:「人を見る目」が個性とは・・・・。どういうことですか?

 

養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。

 入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?

 本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

  「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

  他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。

 社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。

 

内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。」(『逆立ち日本論』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 この項目は、上記の予想問題の内容に関連しています。

特に、

「  本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。

 「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。

の部分は熟読しておくべきです。

 

 

⑤  「オンリーワン」・「世界に一つだけの花」批判

 

  『超バカの壁』の中で、養老氏は、「ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花」に対して以下のような鋭い批判を展開していて、注目する必要があります。

 

ナンバーワンより、オンリーワン、世界に一つだけの花だ、というような言い方が支持を得ているのは戦後教育の賜物でしょうか。

 しかし、若い人には、この逆を言ってあげないと救われないと思います。あなたはただの人だというべきです。

 ナンバーワンよりオンリーワンというような表現は、その部分だけとりあげれば間違いはありません。人間はみんなそれぞれに個性を持っている独特の人なのだということは、その通りです。しかし、どうも好きになれないのです。

 そもそも「個性」というのはあるに決まっている。そこに自信があればいちいち口に出すこともない。わざわざオンリーワンだ何だと声高にいうというのは、その確信が弱いからこそだと思えるのです。他人に認めて欲しい。だからわざわざ主張をするのです。

 本当に唯一の自分の価値があることがわかっていれば、別に人に認められていなくてもいい。場合によっては引きこもっていても構わないわけです。

 ささいなことで、『それは自分らしくない』『それをやると自分ではない』というような人は逆に自分についての確信がないのです。どうもオンリーワンを主張している人は、実はこういう側の人のような気がするのです。

 そういう人は外側に何か勝手に自分で壁を作っているのです。
 それが自分だとか無理やり主張しているわけですから疲れる。それは長い間もたない。

 もっと自由でもいいのではないか。そう思うのですが、なぜか人は仕切りたがるのです。」(『超バカの壁』)

 

 

⑥  「個性」より大切なもの

 

 養老氏は『バカの壁』の中で、「『個性』より大切なもの」について、見解を展開しています。

 この論考は、かなり重要です。

 入試現代文(国語)・小論文でも、最頻出の論点です。

 以下に引用します。

 

「  本来意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じようにしよう、同じようにしようとする性質を持っている。

 一方、このところとみに、”個性”とか”自己”とか”独創性”とかを重宝する物言いが増えてきた。文部科学省も、ことあるごとに”個性”的な教育とか、”子供の個性を尊重する”とか、”独創性豊かな子供を作る”とか言っています。

 しかし、”共通了解”を追求することが文明の自然な流れだとすれば、個性強調は、おかしな話です。明らかに矛盾していると言ってよい。

 多くの人にとって共通の了解事項を広げていく。これによって文明が発展してきたはずなのに、ところがもう片方では急に”個性”が大切だとか何とか言ってくるのは話がおかしい。

 個性が大事だといいながら、実際には、よその人の顔色を窺ってばかり、というのが今の日本人のやっていることでしょう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところから始めるべきでしょう。個性も独創性もクソも無い。

 いまの若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの”共通了解”を求められつつも、意味不明の”個性”を求められるという矛盾した境遇にあるというところです。

 では、脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の”個性”というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。・・・皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、”個性”何ていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。

 若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。

 それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。そこが今の教育は逆立ちしていると思っています」(『バカの壁』)

 

ーーーーーーーー

(当ブログによる解説)

 もっともな見解です。

 入試における頻出している正統的な意見と言えます。

 この論考は、熟読しておくべきでしょう。

 入試国語(現代文)・小論文だけではなく、これからの人生にも役立つはずです。

 

 人間は「関係性」の中で生きているのです。

 養老氏はこの点を丁寧に説明しているので、さらに、『バカの壁』から引用しておきます。

 

「  こういう状態、ー共生といってもいいし、一心同体とか運命共同体といっても構いませんーが、自然の本来の姿である。そう考えると、個性を持って、確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないものだと考えられるのではないでしょうか。生物の本質から離れているのは明らかです。」(『バカの壁』)

 

  この論考は、「『個性を持って生きる』は反自然的である」と主張しているのです。

 この点は、

最近流行の「『関係性』の再評価・見直し」・「共同性」の論点

に密接に関連しています。

 そこで、以下に、

当ブログにおける「関係性」・「共同性」関連の記事

を紹介します。

 ぜひ、ご覧ください。

 

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 (5)当ブログの「個性」・「個性崇拝」関連の記事の紹介

 

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 (6)養老孟司氏の紹介 

【1】養老孟司氏の紹介

 1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1985年以来一般書を執筆し始め、『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』などで人体をわかりやすく解説し、『唯脳論』『人間科学』『バカの壁』『養老訓』といった多数の著作では、「身体の喪失」から来る社会の変化について思索を続けている。

 

 【2】養老孟司氏の著書の紹介

『ヒトの見方-形態学の目から』(ちくま文庫)、

『からだの見方』(ちくま文庫)、

『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)、

『涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『カミとヒトの解剖学』(法藏館)、

『解剖学教室へようこそ』(ちくまプリマーブックス)、

『続・涼しい脳味噌』(文春文庫)、

『バカの壁』(新潮新書)、

『まともな人』(中公新書)、

『いちばん大事なこと― 養老教授の環境論』(集英社新書)、

『死の壁』(新潮新書)、

『無思想の発見』(ちくま新書)、

『超バカの壁』(新潮新書)、

『「自分」の壁』(新潮新書)、

『文系の壁 理系の対話で人間社会をとらえ直す』(PHP新書)、

などが、あります。

 いずれも、入試頻出出典です。

 

(7)当ブログの、養老孟司氏の論考に関連する記事の紹介 

 

gensairyu.hatenablog.com

  

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 ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

 ご期待ください。

 

  

  

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ぼちぼち結論 (中公新書)

ぼちぼち結論 (中公新書)

 

  

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

超バカの壁 (新潮新書 (149))

超バカの壁 (新潮新書 (149))

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

https://twitter.com/gensairyu 

https://twitter.com/gensairyu2

 

予想問題『悲鳴をあげる身体』鷲田清一・存在の世話・存在の肯定

 (1)なぜ、この論考に注目したのか?

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 その中で、『悲鳴をあげる身体』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学国語(現代文)・小論文の問題としてふさわしいので、入試国語(現代文)・小論文対策として、このブログで紹介、解説します。

 

  

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 (2)予想問題ー『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 

(問題文本文)

(【1】【2】【3】・・・・は当ブログで付記した段落番号です)

【1】いのちを潰さないことには、わたしたちが生きていけないということ、このことをしっかり思いださせてくれる行事がある。NHKテレビの「ひるどき日本列島」という番組で紹介していた埼玉県のある村の祭りはその一つだ。

 

【2】つつじが満開になる季節に、赤や白のその花を毟(むし)りとって、籠いっぱいにためる。それを子どもたちが手にもち、大空を仰いで空中に花をふりまく。あるいは、たがいにかけあって戯れる。ほんとうの花吹雪である。地面が花びらの絨毯と化す。その〔   ①   〕なこと。

 

 【3】せっかく花を引きちぎること、それをあたり一面にぶちまけること。せっかく育てたもののいのちを奪うこと、それを、ふだんは掃いて清めている道に棄てること。フランスのある思想家の言葉をもじって言えば、世界が無秩序に変えられるためにある秩序のように見えてくる。

 

 【4】いずれ食べるために飼育すること、いずれ摘むために栽培すること。これは農牧業というかたちでひとびとがいとなんできたことだ。せっかくていねいに作りあげたものを壊すというわたしたちの日々のいとなみの構造だけを純粋に析出したのが、この祭りだ。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔   A   〕と思われたものを〔   B   〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔   ②   〕のなかに浸す。

 

【6】 

〔  X  

 

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

 

 【8】家庭と学校という場所は、〔    甲     〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。家庭や学校で体験されるべきとても大事なこと、それについてもう少し考えてみよう。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

問1 空欄①・②に入る言葉を次の中から、それぞれ一つずつ選べ。

① ア 豪奢  イ 高慢  ウ 傲慢

     エ 尊大  オ 横柄

② ア 日々  イ 純粋  ウ 秩序 

     エ 陶酔  オ 不快  

 

問2 空欄A・Bに入る語句の組み合わせとして最適なものを、次の中から一つ選べ。

ア  A 無秩序  B 秩序

イ  A 人工  B 自然

ウ  A 感性  B 論理

エ  A 肯定  B 否定

オ  A 必然  B 偶然 

 

問3 空欄X( 第6段落 )には、次のア~キの七つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。 

ア   ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

イ   それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。

ウ   が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。

エ   わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

オ   肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。

カ   新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。

キ   そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

 

問4 空欄甲に入るのに最適な、平仮名のみの八字の表現を、本文中の表現のみを使用して記せ。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

 

問1(空欄補充問題)

 空欄補充問題は、本文を精読・熟読することが必要不可欠です。 

 要約を書いて考えるようなことは、するべきではありません。

 「空欄補充問題に対応する際の要約の有害性」については、下の記事に詳しく説明しましたので、ぜひ、ご覧ください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 空欄補充問題対策としては、以下の記事に丁寧な説明があります。

 ぜひ、参照してください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答)  ①=ア   ②=エ 

 

 2(空欄補充問題)

 空欄Xの直前の「つまり」に注目してください。

   「世界が現にある」がに関連しています。

   「世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということ」が

に関連しています。

 

(解答) オ

 

 問3(文章並べ替え問題)

 文章並べ替え問題についても、その解法を以前に記事化しましたので、ぜひ、ご覧ください。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

 まず第一に、イの「それどころか」、ウの冒頭の「が」・「この単純な事実」、カの「新生児も遺体も」、キの「それ」に着目することが必要です。

 そして、各文の内容を把握すると、

 

エ  わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。

キ  そしてそれをほんとうにおいしくいただく。

ア  ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。

 

のセットが確定します。

次に、残りの文については、

 

  が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。④

オ  肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。⑤

イ  それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。⑥

カ  新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。⑦

 

のセットが確定します。

 

  【7】段落の「この覆いは残酷さを隠すためのもの」から、「ウ→オ→イ→カ」のセットが後半になります。

 従って、「エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ」正解になります。

 

  【7】段落は、以下のような文章になります。

 

「わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。」

 

(解答)エ→キ→ア→ウ→オ→イ→カ 

 

 問4(空欄補充・記述問題)

 以下の文章を赤字部分に留意して、熟読・精読してください。

 

【5】いのちの深いやりとり、深い交感。その単純な事実を子どもたちに身をもって味わわせる祭り。あるいは、世界がこのようでもありうるということを世界は現にあるのとは別のありかた、反対のありかたもしうるということを確認する作業であると言ってもよい。つまり〔A=必然〕と思われたものを〔B=偶然〕に変える作業・・・・。世界をひっくり返すこの愉悦は、子どもを〔 ②=陶酔〕のなかに浸す。

【6】 〔  X  =わたしたちは日々、獣を殺し、魚を釣り、葉をむしって食べている。そしてそれをほんとうにおいしくいただく。ひとつのいのちが別のいのちの火に変わる。が、宇宙的と言っていいこの単純な事実を、わたしたちはふだんひとの眼に触れないようにばかりしている。肉や魚を切り身にし、透明ラップをかけて売ったりして。それどころか、じぶんたちの誕生や死も、病院というひとの眼に触れない場所で処置するようになった。新生児も遺体もきれいにされ、衣にくるまれてから対面するようになった。〕

【7】この覆いは残酷さを隠すためのものだろうが、ほんとうは、〔  甲        〕   という、もっと大事なものを隠してしまっているとは言えないか。

【8】家庭と学校という場所は、〔    甲    〕ということ大事なものを深く体験するためにあるはずだった。

 

 (解答) いのちのやりとり

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

 【9】 学校について友人と話したとき、彼がおもしろい問いをぶつけてきた。幼稚園じゃお歌とお遊戯ばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお遊戯が授業から外されるんだろうというのだ。


【10】 小学校に入ると音楽の時間に楽譜の読みかた、笛の吹きかた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だった頃のわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。なにか恥ずかしかったからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。踊るのも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている阿波踊りの連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。みんな同じように踊りながら、みんなどことなく違う。勝手に踊っている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり揃えることが要求される。それがつまらない理由だ。もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。


【11】 幼稚園では、いっしょに歌い、いっしょにお遊戯をするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。


【13】近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まず家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な〈信頼〉がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。


【14】幼稚園でのお歌とお遊戯、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備わせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。

 

【15】さて家庭では、ひとは、<信頼>のさらにその基礎となるものを学ぶ。というより、からだで深く憶える。<親密さ>という感情である。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう ③ 「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁 〕感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】

〔  Y  

 

【18】逆にこういう経験があれば、他人もまた自分と同じ「一」として存在すべきものとして尊敬できる。かわいがられる経験。まさぐられ、遊ばれ、いたわられる経験。人間の尊厳とは、最終的にそういう経験を幼い時に持てたかどうかにかかっている。人間の尊厳とは最終的にそういう経験を幼いときにもてたかどうかにかかっているとは言えないだろうか。

 

ーーーーーーーー

 

(設問)

 

問5 空欄乙に入る五字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問6 空欄丙に入る四字以内の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問7 傍線部③「存在の世話」とあるが、ここでは、「存在」とは、どういう意味か。最適なものを一つ選べ。

ア  宇宙的とも言っていい単純な事実

イ  じぶんが、ただここにいるということ

ウ  じぶんたちの誕生や死

エ  死なないでいること

オ  幼児期の不幸な体験

 

問8 空欄丁に入る最適な二字の語句を本文から抜き出して記せ。

 

問9 空欄Y(第17段落)には、次のア~オの五つの文章が入る。正しい順序に並び替えよ。

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

イ その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

 

問10 次の文の中で、本文の内容に合致するものを選べ。ただし、正解は一つとは限らない。

ア  学校では、いのちのやりとりを学ぶ機会が、案外多いと言える。

イ  花を引きちぎり、あたり一面にぶちまけるような祭りは、資源保護に反するので、教育上規制するべきである。

ウ  じぶんが生きるに値する価値があるか否かを認識することは意外に難しいので、生きていくためには、じぶんの存在を肯定されることが必要と言える。

エ  養育や教育は、共同生活のルールを教えることであるから、幼稚園では、歌や遊戯でそのルールを身体に覚えさせている。

オ  存在の世話を自分自身に対してしても、そこに意味はない。

カ  自分の存在理由は自分で捜すしかないので、自己責任の問題である。

キ  他者の存在の承認には、様々な点でリスクがあるので、慎重におこなうべきである。

ク  人間の尊厳とは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうかに関係していると言える。

 

……………………………

 

( 解説・解答 )

問5(空欄補充・記述問題)

 【12】段落を赤字部分に着目して、熟読・精読するとよいでしょう。

 

「  生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に肯定することで、〔  乙  〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 存在理由

  

問6(空欄補充・記述問題)

 空欄丙を含む一文が【16】段落の冒頭部分になっていることに注目してください。

  【16】段落の前半部分は、空欄丙を含む一文の説明になっています。

    また、【17】段落は【16】段落と密接に関連しています。

 従って、【16】・【17】段落を赤字部分に着目して熟読・精読することが必要です。

 

【16】家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙 〕で他人の世話を享(う)ける。

言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、顎や脇の下、指や脚の間を丹念に洗ってもらった経験・・・・。そういう  ③「存在の世話」 を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。そういう人生への〔    丁  〕肯定感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

【17】あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

  

(解答) 無条件

 

問7(傍線部説明問題)

 「存在の世話」における「存在」の意味が問われています。

 傍線部③を含む【16】段落の

「家庭という場所、そこで人はいわば〔 丙=無条件 〕で他人の世話を享(う)ける。言う事を聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。」

の文脈を把握してください。

「イ  じぶんが、ただここにいるということ」が正解になります。

 

 (解答) イ

 

問8(空欄補充・記述問題)

 空欄丁を含む【16】段落が【12】段落を受けていることを読み取ってください。

 そのうえで、【12】段落を熟読・精読する必要があります。

 特に、赤字部分に注意してください。

 

【12】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れは働いても、生きるべきだという倫理は働かない。生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは《肯定》できないものだ。お歌とお遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。永井均は最近の著作のなかでこう書いている。『子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において《肯定》されるべきものであることを、体におぼえこませてやることである』と(『これがニーチェだ』)。あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を『だれか』として全的に《肯定》することで、〔 =存在理由 〕をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。

 

(解答) 肯定

 

問9(文章並べ替え問題)

 まず第一に、アの「こういう経験」、イの「その経験」、ウの「つまり」、エの「あるいは」・「と言い換えてもいい」、オの「あるいは」に着目してください。

 そうすると、

 

エ あるいは、生きることのプライドを、追いつめられたぎりぎりのところでもてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。

その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。

 

というセットは、すぐに確定できるでしょう。

 次に、ア、ウ、オは、以下のように、それぞれの文の赤字部分に注目するとよいでしょう。

 

ア こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか生きられない。

オ あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。

ウ つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

 

  【18】段落の内容に注目すると、「ア→オ→ウ」が後半になることが分かります。

 

(解答)  エ→イ→ア→オ→ウ

 

問10 (趣旨合致問題)

 趣旨合致問題の解法のポイントについては、下の記事で丁寧に説明したので、ぜひ、ご覧ください。

 問題文本文を読む前に、設問を見ることが大切です。

 設問のポイントのみ、チェックできれば、それでよいのです。

 割り切ることが必要です。

 

  今回の趣旨合致問題は、標準レベルで素直な問題です。

 

gensairyu.hatenablog.com

 

(解答) ウ・ク

 

 

(3)「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」についての補足説明 

 

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、鷲田氏の論考におけるキーワードです。

 「存在の肯定」・「存在の承認」・「存在の贈与」は、難解な側面があります。

 従って、簡単に理解しようとはしないで、鷲田氏の様々な文章を読み、じっくり考えるようにした方がよいと思います。

 その点で、以下の『「聴く」ことの力』 における論考は、「存在の肯定」・「存在の承認」「存在の贈与」を考えるうえで、かなり参考になるでしょう。

 

生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんがほんとうに生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのが、思いのほかむずかしい。

生きるということが楽しいものであることのたっぷりとした経験、そういう人生への肯定が底にないと、ひとはじぶんが死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。

しかし、この経験がたっぷりとはできなかったらどうか。

そのときには、他者がそれを贈るのである。

他者をそのままそっくり肯定すること、条件をつけないで。

こういう贈り物ができるかどうかは、ふたたびそのひとが、つまり贈るひと自身が、かつてたった一度きりであっても、無条件でその存在を肯定された経験があるかどうかにかかっている。

相手の側からすれば、他者の存在をそっくりそのまま受容してなされる。

「存在の世話」とでもいうべき行為である。

ケアの根っこにあるべき経験とはそういうものではなかろうか。

 

 また、『死なないでいる理由』の中の、以下の文章は、今回の記事で取り上げた『悲鳴をあげる身体』の一節と、ほとんど同内容ですが、味わい深いものがあります。

 

「こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験。

そういう「存在の世話」を、いかなる条件も保留もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。

そういう人生への肯定感がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうとおもわれる。

 

 

 (4)当ブログの、鷲田清一氏の論考に関連する記事の紹介

 

 鷲田清一は、入試国語(現代文)・小論文におけるトップレベルの頻出著者なので、意識して、鷲田氏の論考を読むようにしてください。

  

gensairyu.hatenablog.com

 

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 ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

   

 

 

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悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

 

 

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

 

 

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

5週間入試突破問題集頻出私大の現代文―30日間スーパーゼミ (アルファプラス)

 

 

 私は、ツイッタ-も、やっています。こちらの方も、よろしくお願いします。

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予想出典・『永遠平和のために』カント・平和・移民問題・グローバル化

(1)なぜ、この記事を書くのか?

 

 最近では、民族紛争・宗教対立・英国のEU離脱・トランプ現象など、国際関係・外交問題・グローバル化関連のニュース・論考が非常に多くなっています。

 最近の大学入試国語(現代文)・小論文でも、これらに関連する政治哲学・政治学関連の論考の出題が増加しています。

 その際に、大哲学者カントの『永遠平和のために』が引用されたり、論考の対象になることが多いのです。

 従って、教養・予備知識として、カントやこの本について知っておくことは、国語(現代文)・小論文対策として、大切なことだと思います。

 従って、今回の記事では、『永遠平和のために』の解説をしていきます。

 

 以下の記事の項目は、次のようになっています。記事は約1万字です。

 

(2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

(3)『永遠平和のために』の解説

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

(5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

  

 (2)「日本の鎖国を賢明と評した哲学者カント」(孫崎享・『日刊ゲンダイ』2017・4・22「日本外交と政治の正体」)の解説

 

  『日刊ゲンダイ』(2017年4月22日「日本外交と政治の正体」)に、「日本の鎖国を『賢明』と評した哲学者カント」という孫崎 享氏の、以下のような論考が掲載されました。その一部を引用します。

 

(概要です)

(青字は当ブログによる「注」です)

ドイツの哲学者カント(1724~1804年)が近世最大の哲学者であることには異論がないだろう。1795年に出版された政治哲学の著書「永遠平和のために」は、欧州各国が今のような平和的な関係を築き上げていくうえで「貢献」したことも多くの人は知っている。
 だが、「永遠平和のために」の中で、日本の鎖国を「賢明であった」と評価しているのを知っている人は果たしてどれだけいるだろうか。カントは著書の中で、こう書いている。

 われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度をこれと比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することはかれらにとってそこを征服すると同じことを意味するが)示す不正は驚くべき程度に達している。

 アメリカ、黒人地方、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては誰にも属さない地であるかのようであったが、それは彼等が住民を無に等しいとみなしたからである。


 東インドでは、かれらは、商業支店を設けるだけという口実の下に、軍隊を導入した。それとともに原住民を圧迫し、その地の諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を嘆く声が数えたてるような悪事を持ち込んだのである。


 それゆえ中国と日本はこれらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった(として鎖国に言及)。(→当ブログによる注→(カントの記述)「すなわち前者は来訪は許したが入国は許さず、後者は来訪すらもヨーロッパ民族の一民族にすぎないオランダ人にだけ許可し、しかもその際に彼らを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである」)


 カントが、〈諸国家を扇動して、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切りその他人類を苦しめるあらゆる災厄を持ち込んだ〉とは、まさに米国の中東政策そのものであり、朝鮮半島でも「諸国家を扇動して」、「災難」を持ち込もうとしている。 

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 外交問題の専門家である孫崎享氏が、カントの言葉を引いて、現在の世界政治の問題点について論考を発表している点に、私は注目しました。

 孫崎氏の見識、カントの言葉の重み、に注目したのです。

 

 カントの過去の言葉は、「現在の世界政治の混乱」を読み解く際の、「本質的な視座」を示唆してくれるのです。

 それだけ、カントの考察が、「人間の行動の根源」を突いているからでしょう。

 

 以上の文章におけるカントの『永遠平和のために』から引用部分は、『永遠平和のために』の中で、「第二章の第三確定条項」を説明する所に記述されています。

 つまり、カントは、海外に進出している西洋諸国の、アフリカ・アジアなどにおける侵略的な外交姿勢を批判し、中国と日本の鎖国政策を、ある程度、賢明な措置と判断しているのです。

 この点について、さらに解説していきます。

 

永遠平和のために (岩波文庫)

 

(3)『永遠平和のために』の解説

 

 まず、「本書の目次」を紹介します。

 この「目次」は、ある程度、要約のようになっているので、丁寧に読んでいくと、『永遠平和のために』の概要が分かるでしょう。

 

ーーーーーーーー


『永遠平和のために』(カント (著)/ 宇都宮芳明 (訳) 岩波文庫)

【目次】

永遠平和のために

 

第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む

 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約と見なされてはならない 。

 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。

 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。

 第四条項 国家の対外戦争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。

 第五条項 いかなる国家も、他の国家の体制や政治に暴力をもって干渉してはならない。

 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない 。

 

第二章 この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む

 第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。

 第二確定条項 国際法、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。

 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。

(→上記の孫崎氏の論考は、この条項(「歓待の思考」・「訪問権」)に関連しています。詳しくは、以下に解説します。)
  
第一補説 永遠平和の保証について

第二補説 永遠平和のための秘密条項(1796)

 

付録 
一 永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について
二 公法の先験的概念による政治と道徳の一致について

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説) 

 

「第一章 第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」

「第一補説 永遠平和の保証について」

が、少々、理想主義的ですが、全体としては、現実主義的と評価できると思います。

 この点については、この記事の 「(6)『NHK100分de名著  カント  永遠平和のために』」で、改めて解説します。

 

 

(4)「歓待の思考」・「訪問権」、「日本の鎖国」について

 

 『永遠平和のために』においては、上記の孫崎氏の文章における〈カントの『永遠平和のために』からの引用部分〉の前に、「第二章の第三確定条項」を説明する記述があります。

 この記述は、一般的に、政治哲学・政治学の分野においては、「訪問権」・「歓待の思考」についての記述と言われています。

 以下のようになっています。

 

 (青字は当ブログによる「注」です)

「外国人が要求できるのは、客人の権利(この権利を要求するには、かれを一定の期間家族の一員として扱うという、好意ある特別な契約が必要となろう)ではなくて、訪問の権利である。この権利は、地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利である。人間は、もともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。(→すなわち、いかなる個人も他国を訪れた際に、「歓待」される権利を持つのです )」(『永遠平和のために』第二章第三確定条項より)

 

 しかし、当時の世界状況は、カントの見解とは、かなり異なっていました。

 西欧諸国は,通商・布教などを名目として、自国の権益拡大を世界各地で実施していました。

 カントには、それらの行為は,あまりに強権的・強圧的に見えたのでしょう。

 そのために、孫崎享氏の引用した、以下のような見解を述べたのです。

 

 「われわれの大陸の文明諸国家、特に商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度を比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは、かれらにとって、そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は恐るべき程度にまで達してしている。
 アメリカ、アフリカ、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとっては、だれにも属さない土地であるかのようであったが、それは彼らが先住民たちを無に等しいとみなしたからである。

 東インドでは、かれらは商業支店を設けるだけだという口実の下に軍隊を導入したが、しかし、それとともに先住民を圧迫し、その諸国家を扇動して、広範な範囲におよぷ戦争をおこし、飢え、反乱、裏切り、そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄と同様の悪事をもちこんだのである。
 それゆえ、中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、つぎの措置をとったのは賢明であった。すなわち、中国は、来航は許したが入国は許さず、日本は来航すらもヨーロッバ民族の一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかも、その際かれらを囚人のようにあつかい、自国民との交際に制限をあたえたのである。」(『永遠平和のために』)


 近代になり、ヨーロッパの強権的・強圧的な海外進出をくい止める措置として,中国(清朝)、日本(徳川幕府)などの国が,鎖国政策をとったことを、カントは「賢明な措置」として肯定しています。

 カントはケンペルの「旅行記」などを通して,日本が鎖国政策に踏み切らざるを得ない理由を、ある程度理解していたのでしょう。

 

 ケンペルは『日本誌』(今井正編訳・霞ヶ関出版)の付録第二章「もっともな理由のある日本の鎖国」で、以下のような見解を述べています。

 

(概要です)

「日本人の場合は、異国との交わりは、ただ生活のため、便益のため、贅沢のために必要な物資を入手する方便であることは、だれも否定しないであろう。
 人類の繋りの基盤がここに置かれているならば、自然にめぐまれ、あらゆる種類の必要物資を豊富に授かっており、かつその国民の多年にわたる勤勉な努力によって国造りが完成している国家としては、自分からは何も求めるものがない外国にたいしては、外国人どもの計略にのらず、貪慾をはねかえし、騙されないようにし、戦いをしないようにして、その国民と国境を守ることが上策であり、また為政者の義務でもある。

 それは、たしかに納得できる国家の行き方であろう。日本は他の世界諸国に比べて、このような有利な条件に恵まれている国である。」

 

ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)


 江戸幕府の鎖国政策は、日本においても、明治以降、全面的に否定的な評価を受けてきましたが、ケンペルの見解は、それとは正反対です。

 ケンペルは、当時の世界と日本の状況を踏まえた上で、日本には、鎖国をする論理的根拠があるとしています。

 当時の西洋に、日本の鎖国に対して一定の評価をしている知識人がいたという事実は、現代の日本人が、ぜひとも知っておくべきことです。

 近代的な西洋的価値観(明治時代以降の日本国・日本人の価値観そのもの)に染まり、日本の鎖国を全否定することはないのです。

 

 

 (5)2003早稲田大学法学部国語(現代文)(「歓待の思考」(『主権のかなたで』)鵜飼哲)の解説


 次に、『永遠平和のために』の中の「歓待の思考」から出題された入試国語(現代文)問題として有名な、2003年の早稲田法学部の問題について解説します。

 この問題文本文は、『永遠平和のために』の「第二章 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。」を説明しているカントの記述の引用から始まります。 

 以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字は当ブログによる「強調」です)

「『世界公民法は普遍的な好遇についての諸条件に限られるべきである』

この条項で提起されているのは博愛ではなくて、権利についてである。そして、ここで歓待(よい待遇)というのは、外国人が他国の土地に足を踏み入れたというだけの理由で、その国の人間から敵としての扱いを受けない権利のことである。その国の人間は、彼の生命に危険のおよばない方法でするかぎり、その外国人を退去させることはできる。しかし彼が彼の居場所で平和にふるまうかぎり、その外国人に敵としての扱いをしてはならない。もっとも彼が要求できるのは、滞在権((そのためには、この権彼をしばらく家族の一員として扱うという、特別の好意ある契約が必要とされるであろう))ではなくて、訪問権である。この権利は、地球表面の共同所有権に基づいて互いに友好を結び合うよう、すべての人間にそなわる権利である。つまり、地球の表面は球面で、人間は無限に分散して拡がることはできず、結局は並存することを互いに忍び合わなくてはならないが、しかし根源的には誰ひとりとして地上のある場所にいることについて、他の人より多くの権利を持つ者ではないからである。」

  

 この引用文の直後で、著者・鵜飼哲氏は、以下のような重要な考察をしています。

「  生まれてきたときには、誰もがこの世に「客」としてやってくるほかはないのであり、そこでいわば最初の歓待の経験をするということに関してである。

 この「起源」の歓待は、単に、その名が示すような「歓び」だったわけではないだろう。この世界の「客」となったばかりの新生児は、たとえ歓待を受けようと、まだ、笑ってはいない。「初めに」「客」であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。」


 この世に生を受け、そして、生きるということの、歓待に付随する「不快感」が外傷のように心の底に残り、「主権」という仕組みのもとで排外的な心情を生み出していく、と鵜飼氏は説明しています。

 日常の空間に、まるで「客」のように到来する存在(たとえば「路上生活者」)に対する、排他的な感情の根本に、このような「不快感」があるのではないか、と鵜飼氏は主張しているのです。

 そして、鵜飼氏は、日本国の出入国管理法の残酷さ、排外主義的伝統を批判します。

 グローバリゼーションの進行や、少子化による労働力不足に付随して発生するであろう「移民」の問題などが、具体的・歴史的な場で思考されるためには、カントのいう「歓待の思考」の発想が要請されるとしています。

 

 この問題の「本文全体の要約」としては、以下のようになります。

「グローバリゼーションの進行の中で、地球の表面をすべての人間が権利として共有するという歓待の思考が現実化されつつある。しかし、これに、よそ者を排除する力を持つ主権が立ちはだかる。従って、歓待の思考は、思考だけではなく、社会・国家のレベルの具体的・歴史的現実の中で、この主権を対象化し、制限しなければならない。それは、また日本人一人一人が排外主義を脱して、自己を再発明することをも意味するのである。」

 

 

 なお、この論考が含まれている『主権のかなたで』は、全体として、以下のような内容になっています。

 

「  国民国家や市民社会の「よそ者」として排除され、不安定な生を強いられる人々。排除の根源にある「主権」の論理に対置すべき「歓待」の原理とは何か。排除に抵抗する実践の理路はどのようなものでありうるのか。デリダ、サイード、シュミットらのテクストに向き合い、世紀転換期の激動を凝視しつつ、来たるべき世界の予兆を探る繊細な思索の記録。

 収録されている論考のほとんどは、1995年から2005年の10年間に、つまり世紀転換期に書かれています。それは、20世紀の終わりと21世紀の始まりというだけでなく、戦後50年であった1995年という転換点と、2001年の〈9・11〉という転換点を含んだ時期の思考と抵抗の軌跡でもあります。」(「表紙カバー」より)

 

 

(6)『NHK100分de名著カント  永遠平和のために 』(2016・8)の紹介・解説

 

 カントの「平和」についての考え方を知るために、本書と『永遠平和のために』(岩波文庫)を併読することを、おすすめします。

 

  『 NHK100分de名著 カント  永遠平和のために 』(番組の解説者は津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)氏です)のWeb上の解説が、『 永遠平和のために』の理解のために秀逸なので、以下に引用します。

 

(概要です)

(赤字、太字は、当ブログによる「強調」です) 

「  人間の本性は「邪悪なもの」であり「戦争すること」である

 18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントが生きた時代は、ヨーロッパの多くの国が王権を巡る争いや植民地獲得のための競争に明け暮れていました。この情勢を憂えたカントは著書『永遠平和のために』の中で、人間の本性は邪悪であり戦争に向かうのは当然だと説きました。この考えの意味するところを、津田塾大学教授の萱野稔人(かやの・としひと)さんに解説していただきます。

* * *

 カントがいかに現実主義者だったかは、彼の人間観にも現れています。その人間観はかなり悲観的です。人間はもともと道徳を備えているとも、道徳的に完成できるとも言っていません。「人間は邪悪な存在である」というのが、カントのそもそもの出発点です。それをはっきり示しているのが「軍事国債の禁止」にある次の文章です。

 

「国債の発行によって戦争の遂行が容易になる場合には、権力者が戦争を好む傾向とあいまって(これは人間に生まれつきそなわっている特性のように思える)、永遠平和の実現のための大きな障害となるのである。」
(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫)以下同

 

 つまりカントは、「人間にはもともと戦争を好む傾向があるので、国債を発行していくらでも金が手に入るようになると、その傾向に火がついて軍備をどんどん拡張し、しまいには戦争をはじめてしまう」と言っているのです。人間の本質を「邪悪」ととらえた箇所として、以下の一節も重要です。

 

「戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない。戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。」

 

 戦争は、相手が自分に対してなんらかの利害対立や敵意を持つからこそ起こる、と多くの人は思っているでしょう。しかしカントは、戦争すること自体が人間の本性だから、特別な原因がなくても戦争は起こる──というのです。

 現代に生きる私たちは、武器を持たずに人ごみのなかを無防備に歩くことができますが、それは法の支配が確立されているからであって、じつは見ず知らずの人びとのなかを丸腰で歩けることのほうが歴史的にみれば奇跡的な状態なのです。カントの言葉を引いてみましょう。


「ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。」


 こうした自然状態を戦争状態とみるという考え方は、カントがオリジナルではなく、17世紀に活躍した思想家トマス・ホッブズに端を発する「社会契約説」を下敷きにしています。社会契約説とは、どのように人間が国家をつくったのかを論じたもので、要約すると、国家の成り立ちを次のように考えます。


「法秩序が存在しない自然状態では、人間は常に自分の利益だけを考えて行動する。それゆえに放っておくと戦争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまう。そこで命や一定の権利を守るために、人間は相互にルールを守るという契約を結び、それが国家(政府)になった」

 

 カントもこの社会契約説を支持し、人間の本性は邪悪で戦争に向かうのは当然だと考えました。この考えは人類の歴史をみれば正しく、人間は本来平和的だったと道徳的に主張することはナンセンスです。戦争に向かうのは人間の本性として当たり前なのだから、それを異常なものだと特別視してしまうと問題の本質を見誤ります。


 カントにとって大事なのは「なぜ戦争が起こるか」ではなく、「どうすれば戦争が起きなくなるか」です。この問いの転換こそが『永遠平和のために』を読み解く際の重要な鍵となりますので、ここでぜひ頭に入れておいてください。

(『 NHK100分de名著 カント 永遠平和のために 』のWeb上の解説より)

 

 ーーーーーーーー

 

(当ブログによる解説)

 本書のカントは、「自然状態とは戦争状態」という前提に立ち、その上で、独立国家同士が牽制しつつも、平和を維持するためには国家間に国際連合的なものが必須であると説いています。

 この点からも、カントは現実主義者と評価するべきでしょう。

 カントは、現実世界が弱肉強食の世界であることを認めた上で、「世界平和」へ至る道について方法論を呈示しているのです。

 

 カントは、「永遠平和は確実に実現する」とは言っていません。

 たとえば、『永遠平和のために』の「第一補説」では、以下のように述べています。

 

「なるほどこの保証は、永遠平和の到来を予言するのに十分な確実さはもたない。しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この目的にむかって努力することをわれわれに義務づけるのである」

 

 カントの想定する「永遠平和」は、目指すべきものとして把握されており、「完全な形で実現するものだ」という、いわゆるメルヘン的・空想的な平和主義では、ありません。

 カントは、「平和それ自体」への限りない接近に、希望の光明を見出だしているのでしょう。
 カントは、「永遠平和に向かって努力すること」それ自体が意味のあることである、と本書で力説しているのでしょう。

 

ーーーーーーーー

 

 今回の記事は、これで終わりです。

 次回の記事は、約1週間後の予定です。

 ご期待ください。

 

    

 

永遠平和のために (岩波文庫)

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カント『永遠平和のために』 2016年8月 (100分 de 名著)

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哲学はなぜ役に立つのか?

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主権のかなたで

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日本外交:現場からの証言

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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予想問題『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・他者の他者としての自分

 

(1)なぜ、この論考に注目したのか?

 

 鷲田清一氏は、ほとんどの難関大学の入試現代文(国語)・小論文で一度は出題されている、トップレベルの頻出著者です。

 
 最近では、センター試験、東京大学、東北大学、早稲田大学、慶應大学、上智大学等で、出題されています。

 鷲田氏の入試頻出著書としては、

『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、

『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、

『悲鳴をあげる身体』(PHP 新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『しんがりの思想』(角川新書)、

等があります。

 

 最近の難関大学では、

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)、

『「聴く」ことの力ー臨床哲学講座』(ちくま学芸文庫)、

からの出題が目立ちます。

 

 その中で、『じぶん・この不思議な存在』は、長期的に頻出出典になっています。

 その内容が難関大学現代文(国語)・小論文の問題としてふさわしいので、このブログで予想問題の紹介、解説をします。

 

 なお、今回の記事の項目は以下の通りです。 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 ①総説

 ②「自分さがし」・「自分の個性」について

 ③本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 ④まとめ

(4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

(2)予想問題・『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・立命館大学国語(現代文)過去問

 

(問題文本文)

(赤字はブログによる「強調」です)

(青字は当ブログによる「注」です)

【1】わたしたちは、目の前にあるものを、それは何であるかと解釈し、区分けしながら生きている。たとえば現実と非現実、自分と自分でないもの、生きているものと死んだもの、よいことと悪いこと、大人と子供、男性と女性・・・・。こうした区分けのしかたを他の人たちと共有しているとき、わたしたちは自分を「普通」(ノーマル、ナチュラル)の人間だと感じる。そして、わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 

【2】ではなぜ、わたしたちは〔  A  〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。そしてそういう〔  A  〕の分割の中にうまく自分を挿入できないとき、いったい自分はだれなのかという、その〔  B  〕の輪郭が失われてしまうからではないだろうか。つまり、それほどまでに〈わたし〉はもろく、不可解な〔  B  〕であるからではないだろうか。 

【3】たとえば、身体を持たない〈わたし〉があり得ないことはあまりに明白であるのに、それでは〈わたし〉と身体とはどのような関係にあるかと問うてみると、自分がほとんどなんの確かな答えも持っていないことに気づかされる。 

 

ーーーーーーーー 

 

(問題)

問1  空欄A・Bに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 人間   2 原因   3 存在   4 解釈

5 所有物   6 結果   7 身体   8 意味

 

……………………………

 

(解説・解答)

問1

A  

は、前にある「意味の分割線」に注目してください。

 つまり、【1】段落最終文の

「わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、彼らを、別の世界に生きている人というより、わたしたちと同じこの世界にいながら、「普通」でない人と見なしてしまう。 」

の文脈に注目するとよいでしょう。

 

B 

【2】段落第2文の

わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。

における、

《 「自分」は「~である/~でない」という部分 》は、《 「自分」の「何」についての議論なのか 》、を考えるとよいでしょう。

  

(解答)  A=8  B=3

 

ーーーーーーーー

 

 (問題文本文) 

【4】「わたしの足」というとき、わたしと足はどういう関係にあるのかと考え始めると、たちまち謎に包まれる。わたしは足であるか? ノー。わたしは足を持つのか? たぶん、イエス。もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。〔 C 

【5】つまり、自分が身体であるのか、身体を持つのかはっきりしないまま、わたしたちはなんとなく自分がこの身体の皮膚の内側にあると思い込んでいる。だから、身体の形状がわたしたちのそれとは違った異形の身体に出会ったときには、すくなからず動揺してしまう。わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件がたんに一つの〔 D 〕にすぎず、〈わたし〉の存在にとってかならずしも決定的なことではないことが、目にみえるかたちで暴露されるからである。

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問2  空欄Cに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 身体はわたしが所有しているものだと、断言したくなってくる

2 身体などなくなってしまえと、言いたくなってくる

3 身体はわたしが所有しているものではないと、前言を翻(ひるがえ)したくなってくる

4 わたしの身体を誰かの身体とそっくり交換したくなってくる

5 わたしの身体を誰かと交換したいなどとは、今後一切思わなくなる

 

 

問題3  空欄Dに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。 

1 差異化の可能化

2 偶然性の可能化

3 可能性の抽象化

4 可能性の具体化

5 差異性の必然化

……………………………

 

(解説・解答)

 

問2

こういう難解な文章を、要約して解くことは有害無益です。時間的にも、損失です。本文の精読・熟読に専念してください。

「もし身体がわたしの所有物だとすると、所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、足から順に自分の身体を次々に別の身体と取り替えていっても、わたしはわたしであるはずだ。けれども想像が腹部あたりに達したころから、だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。」という文脈に注目してください。

 

(解答) 3

 

問3 

「 わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が、たんに一つの〔 D 〕にすぎず」、

(わたしをいまこの〈わたし〉としている身体的条件が)〈わたし〉の存在にとって

かならずしも決定的ではないこと」と、

「目にみえるかたちで暴露されるからである。」の文脈に着目してください。

 

(解答) 4

 

ーーーーーーーー

 

(問題文本文)

【6】このように考えてくると、わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。「普通」ということは世界の解釈の一体系を共有しているということにすぎないにもかかわらず、である。わたしたちが自分の存在に形を与えていくこのプロセスは、だから同時に、きわめて〔   E 〕なプロセスでもある。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる。 

【7】わたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ「人間」であるという言い方は、〈わたし〉が一定の差別(逆差別も含めて)の上に初めて成り立つ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある。

【8】「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

 

ーーーーーーーー

 

(問題)

問4  空欄Eに入れるのに、最も適当なものを、次の中から選べ。

1 抽象的   2 政治的  3 倫理的

4 自然的   5 決定的

 

問5  この文章の筆者は、傍線①の「わたしはだれ?」という問いに対して、どのように答えようとしているか。最も適当なものを、次の中から選べ。

1 わたしたちは、わたしたちではないひとを知ることをとおしてしか、じぶん自身を知ることができない。

 

2 わたしたちは、じぶんは誰かという問いをじぶんの内部に向けることによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

3 わたしたちは、じぶんではないものからじぶんの存在を隔離することになってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

4 わたしたちは、じぶん自身の中身をそのつど検証していくことによってしか、じぶん自身を知ることができない。

 

5 わたしたちは、身体を所有することによってしか、じぶん自身を知ることができない。

……………………………

 

(解説・解答)

 

問4

「このプロセス」は、「政治的な、かけひき」の側面があります。

わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれを自分とは異なるもの(他者)と見なしているかということと、背中合わせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して「自然」的なものと見なされ(ここから「自然」が規範としての意味を持ち始める)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「普通」でないものとして否認される。それは、常に解釈の規準を提示し、それを共有できないものは排除し、それを外れるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとで自らを見ることを強いる 

文脈の赤字部分に注目してください。

  

(解答) 2

 

問5

【2】段落の「ではなぜ、わたしたちは〔 A=意味 〕の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしか自分を感じ、理解することができないからではないだろうか。」、

7】段落のわたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非―わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている

【8】段落の「わたしはだれ?」ーーそれは、おそらく、〈わたし〉を形作っている差異の軸線をそのつど具体的なコンテクスト(→「文脈。脈絡」という意味)に則して検証していくところでしか答えられないであろう。 

に着目してください。

 

(解答) 1

 

ーーーーーーー

 

【要約】

わたしたちは目の前にあるものを、なんであるかと解釈し、区分けしながら生きている。なぜなら、わたしたちが、「~である/~でない」というしかたでしか、じぶんを感じ、理解することができないからである。わたしたちは、わたしたちでないひとを知ることをとおしてしか、じぶんを知ることができない、といえるのである。

 

【出典】

本問は以下の目次の中の「2 じぶんの内とじぶんの外」の一節です。

 

【目次】
1  爆弾のような問い
2  じぶんの内とじぶんの外
3  じぶんに揺さぶりをかける
4  他者の他者であるということ
5 「顔」を差しだすということ
6  死にものとしての「わたし」

 

 

(3)本書『じぶん・この不思議な存在』の解説

 

 ①総説

 本書『じぶん・この不思議な存在』」の冒頭に、以下のような、「問題提起」の一節があります。

「  わたしってだれ?

    じぶんってなに?

 だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。

 爆弾のような、といったのは、この問いに囚(とら)われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。

だれもが、人生のなかで何度も何度もこの問いを口にする。

あるいは、ひとりごちる。

あるいは、そのような問いの切迫を、それと意識することなく感じている。

そして、そのように問うことじたいが、どうやらこの問いのうちに潜んでいる不安をあおりたてることになっているらしいことも、うすうすは気がついている。


 本書の内容、つまり、上記の「問題提起」に対する解説は、以下の、本書の「エピローグ」に要約されています。

「わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。

 とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。

 じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ

 問題なのは、つねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。

 ひとはそれぞれ、自分の道で特定の他者に出会うしかない。」 ( P 176 )

 

 

②  「自分さがし」・「自分の個性」について

 本書は本来、これらの本質を解説しているとも言えます。

 しかし、本書の内容がかなり難解な側面を有しているので、当ブログでは、ここで、改めて、これらについて解説します。

 

 約30年前の高度消費社会の時期から、「自分探し」・「わたし探し」ということが流行し始めました。

 主に、小学校・中学校教育、マスコミの商業戦略( ファッション・化粧品のCM等 )の影響もあって、日本社会における一部の人々は、「じぶんらしい個性」を闇雲に模索してきました。

 そのバカバカしい、反知性主義的ブームの具体例として、「キラキラネーム」が挙げられます。 

 とても読めないような、判読不能な名前すら、あります。

 暗号の世界に迷い込み、「名前の機能」を喪失しています。

 「キラキラネーム」については、最近の難関大学入試の国語(現代文)・小論文論点になっています。

 このブログで最近、記事として発表していますので、こちらも参照してください。

 

gensairyu.hatenablog.com

  

gensairyu.hatenablog.com

 

 この反知性主義的ブームの前提には、「自分の個性」が存在するという、根拠のない確信があるようです。

 しかし、「自分の個性」などとというものが、本当にあるのでしょうか?

 

 自分の中を探せばどこかに「じぶん」らしさがあるというのは、単なる幻想にすぎません。

 なぜなら、「固有な個性」を具体的に表現する道具が、主に形容詞、形容動詞という、一般的に使用されている語句だからです。

 それは、「真にオリジナルな個性」を、本来的に表現できないことを意味しているのです。

 さらに言えば、「じぶん」という名詞も、単なる一般名詞にすぎません。

 自分の中を探しても「じぶん」は見当たらないし、それ自体、単なるフィクションにすぎないのです。

 そうだとすれば、どのように解決策を考えればよいのでしょか?


 鷲田氏は、ここで「他者の他者であること」という「視点」に注目しています。

「  他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。

 母親に「この子とはそりが合いません」と言わせたら勝ちである。

 母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。

 逆に、風邪で数日学校を休んだ後、学校に戻っても何の話題にもされなかった子どもは不幸である。

 他者のなかにじぶんがなにか意味のある場所を占めていないことを思い知らされたのだから。

 ときには恨まれ、気色わるがられたっていい。

 他人にとってひとりの確実な他者たりうるのであれば。」 ( P 146 )


 以上のように考えて、

 《『自分らしくあらねばならぬ』という強迫観念 》から自由になることについて考えてみることも大切だ、と鷲田氏は指摘するのです。

 

 鷲田氏は、R・D・レインの『自己と他者』から、一人の患者のエピソードを紹介しています。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。

 ただ「誰かのために何かをする」ということ、そして、それ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと、鷲田氏は述べます。

 誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、私は相手を「助けられる人」、つまり私の行為の客体にしてしまうことになります。このとき、他者は私の中に取り込まれてしまっています。

 こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、私もまた他者にとっての他者として遇されるような関係の中で、はじめて私と他者の双方が固有の存在になることができる」と鷲田氏は言います。

 

 こうして鷲田氏は、「私」の固有性とは、「他者の他者」となることだ、と主張します。

 この点について、鷲田氏は、実に的確な引用を提示しています。

「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものである。

 じぶんが何に対してじぶんであるかという、その相手方がいつもじぶんを計る尺度である。」 (キルケゴール)

 

 ③  本書のキーワードである「他者の他者としての自分」を、鷲田氏は他の著書でどのように説明しているのか?

 

 鷲田氏は、本書のキーワード「他者の他者としての自分」を、他の著書で以下のように説明しています。

 これらを、読むことで、より理解が深まるでしょう。

 主なものを挙げます。

 

  まず、『大事なものは見えにくい』の中では、以下のように記述しています。

「  <わたし>の存在は、だれかある他者の宛先となることで、はじめてなりたってきた。

 <わたし>の存在とは、だれかの思いの宛先であるということ

 ヘーゲルやキュルケゴールといった哲学者の言葉を借りれば、「他者の他者」であるということだ。

 わたしわたし以外のだれかの他者であることによってはじめて、いいかえると、だれかある他者に「あなた」「おまえ」と名指されることによって、わたしたちはひとりの<わたし>になる。

 だから、というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならない。」 (『大事なものは見えにくい』P36 )

 

 だから、私にとっての大切な人の死は、あれほど悲しいのです。

 その悲しみの大きさの理由が、これを読んで、初めて分かります。

 

 次に、『「聴く」ことの力』では、以下のように説明しています。

「だれかに触れられているということ、

だれかに見つめられていること、

だれかからことばを向けられているということ、

これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、

その他者のはたらきかえの対象として自己を感受するなかではじめて、

いいかえると「他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめて、

その存在をあたえられるような次元というものが、<わたし>にはある。

<わたし>の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、

他者によって見出されるものとしてある。」 ( P 126 )

 

 さらに続けて、鷲田氏は、以下のように述べています。

「  「わたし」、という(一般的な、社会的な)言葉を使うときわたしという存在はすでに集団の中に消えていく。(→この点は、この記事で解説しました)

「わたし」が「わたし」を見つけられるのは、「他者から他者として見られたときだけ」である。

 

  「他者の他者として自己」と「他者」の「関係」は、「自他の補完性」、あるいは、「自己と他者の関係性」とみることができます。

 このことについて、2000慶應大学文学部小論文で鷲田清一氏の論考(『「聴く」ことの力』)を題材として、以下のような問題が出題されました。

 

「(問1) 自己と他者の補完性を著者はどのように考えているのかまとめなさい (300字以内)。

(問2)「他者の他者としてのじぶん」とは何か述べなさい (400字以内)。」

 

 この問題も、今回の記事に関連しています。

 

 ④  まとめ 

 

 今回の記事は、言葉や論理では理解できるものの、実感としては、よく分からない側面があるかもしれません。

 マスコミからの情報、小学校・中学校・高校などの教育現場で指導、一般常識と、鷲田氏の主張が大きくズレているからでしょう。

 しかし、それでよいのです。

 「人生上の真理」と一般常識が全く違う場面は、いくらでもあります。

 

 人生には「不可解な側面」が付きまといます。

 それを簡単に割り切るのがマスコミであり、一般常識です。

 それはそれでよいのです。

 一般社会は、それらをスルーして、進行するのが常であり、それはそれで問題はないのです。

 

 一方で、哲学や難関大学入試の世界では、まさに、「人生上の不可解な側面」が問題になるのです。

 「人生上の不可解な側面」を簡単に割り切らずに、いかに対応していくべきか?

 

 この点について、鷲田氏は本書『じぶん・この不思議な存在』で、以下のような見解を述べています。

  

「  成熟というものは、同一であることを願うひとにしか訪れない。

 未熟という名の非同一性。

 つまりはアイデンティティの不在。

 一貫性のなさ、持続性のなさ、かたちのなさ。

 「青二才」とか、「未熟者」というのは、それこそ子どものように、本気でなににでもなろうとするし、ついさきほど言ったこともすぐに裏切るほど気まぐれで、あきっぽく、節操がないし、根は続かず、片時もじっとしていない。

 けれども、ここで未熟という場合の「未」は「まだない」ではない。

 ここでひとは、成熟するよりも速く「青二才」にならなければならないのだ。

 そうでなければ、ふたたび、かたちへの抑えがたい欲望に溺れてしまうことになるだろう。」 ( P82 )

 

 さらに、鷲田氏は本書で、こうも述べています。

「  人生を一つの説話でリニアに語りだし、〈わたし〉の存在を透明なもの、クリアなものにしようという、わたし達の欲望。

 その根深さによくよく目をこらす必要がある。

 わかりやすいっていうのは、きっと死ぬほどたいくつなはずだ。

 存在が不可解である、意味が不確定であるからこそ、わたしたちはそれに魅かれる。

 恋愛だって、賭け事だって、学問だって、人がのめりこむのは、それを前にしていると、自分の淵から、何か理解できないもの、自分ではコントロールできないものが押しよせてくるからだ。

 わかった顔をしているひとより、ぼうぜんとして「わからない・・・」とつぶやく無防備なひとのほうが、たぶん信用できる。」 (P84 )

 

 言葉や論理では理解できるものの、実感としては完全に納得できない、よく分からない側面。

 人生上の、曖昧な側面の存在。

 分からない状態の継続。

 しかし、それでよいのです。

 それを、手早く処理する必要は、ないのです。

 「人生上の不可解な側面」を、手早く処理することなど、できるわけがないのですから。

 

 さらに、『わかりやすいはわかりにくい?-臨床哲学講座』(ちくま新書)で述べられている以下の言葉には、深く考えさせられます。


「生きてゆくうえで本当に大事なこと(例えば、私は誰とか、愛とか)には、たいして答えがない。これらの問いは、問い続けることが答える事だ。」

 

 

 (4)当ブログにおける、鷲田清一氏・関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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(5)当ブログにおける、「関係性」関連の記事の紹介

 

gensairyu.hatenablog.com

 

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ーーーーーーーー

 

今回の記事は、これで終わりです。

次回の記事は、約1週間後に発表の予定です。

ご期待ください。

 

  

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

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大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

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頻出難関私大の現代文 (αプラス入試突破)

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